第4話:レッスン2・抱擁は全ての慈愛の基本です(白目)
その夜。私は決死の覚悟で、再びレオ殿下の寝室の扉を叩いた。
手に持っているのは、自室で血反吐を吐きながら書き上げた『十四日間で学ぶ・王子的夜会作法(秘)』の教本だ。
「失礼いたします、殿下。……今夜は、昨夜よりも少し踏み込んだ内容になります」
「アンネ! 待ってたよ。……あ、教本なんて作ったの? 熱心だね」
ソファに座る殿下は、今夜も絶好調に輝いていた。
お風呂上がりなのか、少し湿ったプラチナブロンドの髪が、首筋に色っぽく張り付いている。
(――落ち着け! あれはただの水滴よ! 殿下から溢れ出した聖水ではないわ! さあアンネ、プロの顔になるのよ!)
「殿下。他国の王女殿下をお迎えするにあたり、最も重要なのは『安心感』を与えることです。そのためには、適切な距離感での……その、抱擁、すなわち『ハグ』の作法を身につける必要がございます」
「ハグ? ……ああ、挨拶とかでするやつだね。でも、父様が言ってた『夜の作法』のハグって、もっとこう……特別なものなんでしょ?」
殿下が小首を傾げ、純粋無垢な瞳で私を見つめる。
(グッ……! そう、その通りよ殿下! 本来はもっと情熱的で、服の布地越しに互いの鼓動を感じ合うような、そんな背徳的な行為なのよ! それをこの私が教えるなんて、宇宙の摂理が壊れてしまうわ!)
「……左様でございます。ですので、まずは練習台として、私をその……フェリス王女だと思って、抱きしめてみてください」
「アンネを、フェリス王女だと思って……?」
殿下は少し考える素振りを見せたあと、ふっと柔らかく微笑んだ。
「わかった。やってみるよ」
殿下が立ち上がり、私の方へ一歩、また一歩と近づいてくる。
私の心臓は、もはやドラムの連打を通り越して、壊れた時計のように不規則なビートを刻んでいた。
「失礼するよ、アンネ」
次の瞬間。
殿下の腕が、私の背中に回された。
(…………っ!!)
――密着。
私の鼻先に、殿下の首筋の香りが飛び込んできた。石鹸の香りと、殿下自身の体温が混ざり合った、この世で最も芳醇なフレグランス。
殿下の胸板は、昨日手を握った時よりもずっと広く、男性的で、温かい。
「……こうかな?」
殿下の声が、耳元でダイレクトに響く。
(ああああああああああああああああ!! 全細胞が昇天する! 殿下の腕の中に私がいる! 没落してゴミ溜めを這いつくばっていた私が、今、世界の中心にいる!! 尊い、尊すぎる、このまま心臓が止まればいいのに!!)
「殿下……っ、力加減は、その……よろしいかと。ですが、もう少し腰に手を……あ、いえ、やっぱり今のままで!」
「腰? ……こう?」
殿下が、さらにグッと私を自分の方へ引き寄せた。
密着度が上がる。私の胸元が、殿下の胸に押し付けられる。
「あ、アンネ。……アンネって、すごくいい匂いがするね。それに、すごく……柔らかい」
「――ひっ!?」
殿下が、私の肩に顔を埋めるようにして、深く息を吸い込んだ。
(な……っ、何を……!? 天然!? これ天然でやってるの!? それとも、私を殺すための高等な暗殺術なの!? 私の脳内は今、スーパーノヴァ(超新星爆発)が起きてるわよ!!)
「殿下! 殿下、離れてください! これは教育です! 私をアンネとして認識してはいけません! 私は……私はフェリス王女だと思って!」
「……無理だよ」
殿下が、腕の力を緩めるどころか、さらにぎゅっと抱きしめてきた。
「アンネはアンネだよ。他の誰かだなんて、思えない。……ねえ、アンネ。僕、これ、王女様にもやるの? ……嫌だな。アンネ以外とは、したくないよ」
(ドッカーーーーーーーーン!!)
私の脳内で、今夜二度目の超新星爆発が起きた。
殺し文句。まさにリーサルウェポン。
あの無垢なレオ殿下が、こんな……こんな「側室一確(確定)」なセリフを吐くなんて!
「……っ、殿下! 本日は! 本日はここまでです! アンネ、これ以上は酸素不足で倒れます!!」
私は力技で殿下を押し返し、またしても部屋を飛び出した。
廊下を全力疾走しながら、私は自分の頬が火傷しそうなほど熱いのを感じていた。
「(ぜぇ、ぜぇ……。無理、死ぬ。本当に死ぬわ。十四日? あと二週間もこんなことを続けるなんて、私の寿命が先に尽きるわよ……!)」
壁に寄りかかって呼吸を整えていると、またしてもあの忌々しい気配がした。
「……おいおい、今夜は『ハグ』だったか。アンネ、お前の悲鳴、昨日より一オクターブ高かったぞ」
天井の梁から、アルベルトが逆さ吊りで顔を出した。
「……貴様、また覗いてたわね。騎士団の恥さらしが」
「視察だって。陛下もあっちで『レオのやつ、なかなかやるな』って感銘を受けてたぞ」
通路の陰から、国王陛下が満足そうに親指を立てている。
さらに、カイル殿下が手帳に何かを書き込みながら通り過ぎた。
「『ハグによる呼吸困難の誘発』か。兄上の攻撃力、推定不能だな」
(――このロイヤル・野次馬軍団、いつか絶対にベルリッツ家の名にかけて粛清してやる……!!)
私は心の中で毒づきながら、震える脚で自室へと向かった。
レオ殿下の「アンネ以外とはしたくない」という言葉を、脳内で百万回再生しながら。
だが、その頃。
隣国では、一台の豪華な馬車が予定をさらに早めて国境を越えようとしていた。
中に座る美少女――フェリス王女は、アンネと同じく『ある熱烈な想い』を胸に秘めて。
フェリス王女襲来まで、あと数日。
アンネのレッスンは、もはや「教育」の域を大きく超えようとしていた。




