第44話:尊さのパラドックス
唇が離れた後も、視界は熱で歪んでいた。
九年間、私はこの人を「偶像」として、手の届かない場所へ祭り上げてきた。だが今、私の腕の中にいるのは、肌の温もりを、激しい鼓動を、そして剥き出しの執着を伝える一人の男だ。
私は震える手で、レオ殿下の背中にしがみついた。
プロ意識という名の鎧を脱ぎ捨てた今の私は、一人の無防備な女だ。恥ずかしさで顔が爆発しそうだが、それでも、この夜の果てを見届けたいという「ガチ勢」としての覚悟が、私を寝台へと誘わせる。
「……アンネ」
殿下が私を押し倒し、覆いかぶさる。
月光に縁取られた彼の貌は、まさに神が作り上げた最高傑作。その手が、私の首筋から、フェリス様が用意したあの真紅のレースへと伸びる。
いよいよ、その時が来る。
私は目を閉じ、彼のすべてを受け入れる準備をした。
――だが。
いつまで待っても、期待した(あるいは恐れていた)重みがやってこない。
「……っ、う、ううっ……!」
聞こえてきたのは、情熱的な囁きではなく、喉を詰まらせるような苦悶の声だった。
目を開けると、そこには信じられない光景があった。レオ殿下が私のすぐ隣で、顔を覆いながら畳に……いや、寝台に突っ伏して震えていたのだ。
「で、殿下!? どうなさいましたの、急に腹痛でも……っ!?」
「違う……、無理だ……。触れられない……!」
殿下は、まるで聖なる光に焼かれた魔王のように、私から距離を置こうと後ずさる。その瞳には、情欲ではなく、畏怖に近い驚愕の色が浮かんでいた。
「今の……、今のアンネは……、尊すぎて触れるなんて恐れ多い……! 以前の『教育係』だったお前も素晴らしかったが、今の、鎧を脱ぎ捨て僕を愛していると告げたお前は……もはや人の域を超えている……!!」
「……は?」
「見てみろ、この輝きを……。慈愛と、羞恥と、一途な情熱が完璧な調和を奏でている……。これこそが僕が求めていた究極の『輝き』だ……。だが、それゆえに……汚せない! この美しさを僕の欲望で汚すなど、一人の人間として許されない行為だ!!」
殿下の口から飛び出したのは、どこかで聞き覚えのある、極めて厄介な「オタクの論理」だった。
(……待って。それ、私が九年間ずっと殿下に叩き込んできた教えじゃないの!?)
「推しは尊ぶものであり、汚すものではない」「スターは常に神聖にして侵すべからざる存在である」――。
私が殿下を完璧な王子に仕立て上げるために使い続けてきた「推しを崇める姿勢」。それが今、巡り巡って、レオ殿下から私への「愛」として100倍の威力で返ってきたのだ。
これこそが、尊さのパラドックス。
私が彼を愛すれば愛するほど、彼は私を「尊い存在」として神格化し、結果として指一本触れられなくなるという、完全なる因果応報の逆転現象。
「ああ、アンネ……。そこにいてくれるだけでいい……。いや、やはり同じ空気を吸うことさえ畏れ多い……っ!」
殿下はついに、寝台の下で膝をつき、私に向かって深く頭を垂れた。
かつての私が殿下の手を握られて鼻血を出して倒れたように、今度は殿下が、私の「存在の尊さ」に当てられてダウンしている。
「――解釈一致いいいィィ!! 尊死ィィィ!!!」というフェリス様の絶叫と、何かが激しく壁に叩きつけられる音が響き渡っている。
教育係としての私のプロデュースは、完璧すぎたのだ。
あまりにも完璧に彼を「ガチ勢」に育て上げてしまった結果、私たちは結ばれる直前で、互いを崇め合うという奇妙な足踏み状態に陥ってしまった。




