第43話:フェリスの総仕上げ
「お姉様、殿下! 全て私におまかせくださいませ!」
豪快な音を立てて扉が蹴り開けられた。乱入してきたフェリス様は、立ち尽くす私たちを交互に見やり、大仰に溜息をつく。その瞳に宿っていたのは、どこか乙女の純真さと……それを遥かに凌駕する「マニア」の熱だった。
「フェリス様、なぜここへ……。今は、その……」
「決まっているではありませんか、お姉様。……わたくし、今日という日をずっと待っておりましたのよ」
フェリス様は迷いのない足取りで歩み寄ると、私の手をそっと包み込んだ。その掌は驚くほど熱く、震えていた。見上げる彼女の瞳は潤み、そこには一人の女性としての、真実の独白があった。
「お姉様は私のたった一人の同志。同じ人を愛し、推し、手を取り合い歩いて行ける仲間……」
その言葉には、同じ茨の道を行くものだけが共有できる、切実な響きがあった。
「だからわかってくださるでしょう? わたくしが愛したレオ殿下の『初めて』という奇跡は、あの方が最も執着し、最も心を乱し、その仮面を剥ぎ取られる相手……そう、お姉様でなければなりませんわ! これこそが、殿下の尊さを守り抜きたいと願う、同志としての魂の叫びなのです!」
ああ、この人もまた、私と同じなのだ。殿下を愛し、その「輝き」が最も純粋な場所で結実することを願う共犯者。教育係としてのプロ意識を超え、一人の「レオ殿下ガチ勢」としての深い絆が結ばれたような気がして、私は不覚にも目頭を熱くした。
「フェリス様……。貴女も、私と同じ気持ちだったのですわね。殿下の、あの尊い瞬間を……」
「ええ、お姉様。お一人が恥ずかしいなら、わたくしが手伝って差し上げますわ」
「なっ、フェリス様……?」
「三、二、一。はい、換装完了ですわ!」
「――えっ?」
何が起きたのか分からなかった。フェリス様の手が残像を刻んだかと思った次の瞬間、私のドレスは足元に崩れ落ち、気がつけば私は、あの視神経を焼き切るような真紅の勝負下着を完璧に纏わされていた。着せられた自覚も、脱がされた記憶もない。ただ、肌を撫でるレースの感触だけが、彼女の「神速」という名の狂気を証明していた。
振り返った殿下は、私の姿を見た瞬間、激しく狼狽して目を逸らす。
「……っ!! アンネ、お前、その格好は……!」
「さあ、お二人とも! 恥じらい、震え、それでも求め合うその『神絵面』を、わたくしの網膜に焼き付けてください。さあ、案ずることはありませんわ! 私はここで一晩中、歴史の証人となりますから!」
私は深呼吸をし、とうとう覚悟を決めた。
「わかりました……。フェリス様、あとは私におまかせください」
そう言って退室を促すが、彼女は一歩も動かない。
「あの……フェリス様?」
「言っているではありませんか。ここで一晩中、歴史の証人となると」
その目は完全に据わっていた。
「ひょっとして……あの、私たちの目の前で?」
「無論です」
彼女は本気だ。正妻という立場を最強の「観測席」に変え、私たちの愛を一生の糧にするつもりなのだ。
広い寝室、月光に照らされた寝台。私は、フェリス様の言葉を反芻し、ようやくこの異常な状況の本質を理解し始めていた。彼女は「正妻」という名の盾になることを選んだのだ。面倒な社交、泥沼の派閥争い、王家の家政――それら「愛」を阻害するすべての不純物を彼女が引き受ける。それは、レオ殿下と私が愛を深めるためだけの、完璧な**「インフラ整備」**に他ならない。
フェリス様の凄まじい「執念」に、私のプロデューサーとしての本能が共鳴した。私たちが幸せにならなければ彼女の観測は成立せず、私たちが愛を深めなければ、彼女の生きる糧は生まれない。
これまでの私は、殿下を「推し」という安全な距離から眺めることで、一人の女として向き合うことから逃げてきた。観測者の位置に身を置くことで、傷つくことや責任を負うことを回避していたのだ。けれど、フェリス様がこれほどまでの覚悟で「愛される場」を整えた以上、側室である私が観測者の振りを続けることは、もはや許されない。
いやもうそんな理屈どうでも良かった、これは魂の共鳴だ。彼女が見たいものは私の見たいものなのだ。
痺れを切らした殿下が「フェリス、いい子だから」と言いかけたその時、私はそれを制した。
「殿下。……フェリス様がああおっしゃるのです。私たちは、彼女の期待に応えるべきだとは思いませんか?」
胸の奥から湧き上がるのは、恐怖ではない。フェリス様に「最前列」を譲ったとしても、その中心で殿下のすべてを独占し、彼を「男」として完成させたいという、プロデューサーとしての、そして一人の女としての傲慢な渇望だった。
「……アンネ。お前がそこまで言うなら、もう何も言わない」
殿下が音もなく詰め寄り、私の腰を引き寄せる。至近距離で見つめ合う瞳の中に、情欲と、それを上回るほどの深い慈しみが渦巻いている。
推しを崇める姿勢が、今、自分自身を捧げる覚悟へと昇華していく。私はもはや観測者ではない。フェリス様という最強の盾に守られながら、殿下の愛という名の濁流に呑み込まれる、たった一人の「当事者」になったのだ。
寝室を支配するのは、重苦しいほどの沈黙。そして、すぐ隣で静かに見守るフェリス様の「……っ、ふぅ……ッ!」という、歴史の証人としての荒い鼻息だけ。
(……何が、プロデューサーよ)
胸の奥が、焼けるように熱い。殿下を輝かせるのが使命だと、自分はただのファンだと、そう定義することで殿下から向けられる剥き出しの熱量から、臆病な自分の心を守ってきた。それは、誇り高い教育係の矜持などではない。ただの、分厚くて無機質な「鎧」だったのだ。
「……アンネ。まだ、僕を『推し』として眺めているつもりか」
殿下の声が、すぐ耳元で響いた。彼の手が私の指に重なり、固く握られた拳を一本ずつ解いていく。その大きな掌の熱が、私の防壁をじわりと溶かしていく。
「フェリスの言う通りだ……お前が、僕を偶像として崇めることで、僕という『男』から必死に逃げていることを」
図星だった。彼を一人の男として認めてしまえば、この九年間で築き上げた「安全な場所」を失ってしまう。畏れ多い、自分には勿体ない。そんな言い訳を並べて、私は彼を神棚に上げ、自分を脇役に据え続けてきた。
でも、もう無理だ。目の前で人生を賭けて「実況(観測)」しているフェリス様の狂熱も。私だけを求め、焦がれるような瞳を隠さないレオ殿下の情念も。すべてが、私の偽りの鎧を粉砕していく。
「……違います。殿下」
私は震える唇を噛み切り、顔を上げた。視界が涙で滲む。
「私は……貴方をプロデュースしたいのではありません。……貴方を、誰にも渡したくないだけです。貴方が他の誰かの肌に触れることを、想像するだけで狂いそうになる。……貴方を、一人の女として、愛しているんです」
ついに、言ってしまった。それは「尊い」という賛辞でも、プロとしての報告でもない。ただの、泥臭くて独占欲に塗れた、愚かな女の告白。
殿下の瞳が、大きく見開かれる。次の瞬間、私は抗う間もなく引き寄せられ、彼の腕の中に閉じ込められた。
「……やっと言ったな、アンネ。その言葉を、どれほど待ったと思っている」
掠れた声が鼓膜を震わせた直後、視界がレオ殿下の端正な貌で塗りつぶされた。
重なる唇。それはこれまでの「教育」という名の儀式的な接触ではない。互いの体温を、魂を、一滴残らず吸い尽くそうとするような、真実のキス。
推し活という名の鎧が音を立てて砕け散り、私は初めて、レオ殿下という巨大な熱量の中に、無防備な私自身を投げ出した。
すぐ隣で「――あああああアアアアッッ!!」とフェリス様の魂が昇天するような絶叫が聞こえたが、今の私には、それさえも心地よい祝福のように感じられていた。




