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第35話:小鳥の沈黙、あるいは「正妻」という名の絶対障壁



 王宮が「推しカプ論争」という名の熱病に浮かされる中、私の胸中には、それとは別の、湿った泥のような違和感が堆積していた。


 原因は明確だ。


 フェリス様――他国の王女であり、レオ殿下の婚約者であり、そして何より私のことを「お姉様」と慕って、金魚のフンのように(失礼、可憐な小鳥のように)まとわりついていた彼女の様子が、明らかにおかしい。


「……お姉様。本日のティータイムですが、私、少々急ぎの用件を思い出しましたの。失礼いたしますわ」


 そう言って、フェリス様は私と目を合わせることもなく、軽やかな足取りでサロンを去っていった。


 彼女と出会ってからというもの、彼女の口から放たれる「お姉様」の回数は一日に百回を下ることはなかったはずだ。それがどうだろう。ここ数日、彼女が私を呼ぶ回数は激減し、それどころか私と二人きりになるのを避けている節さえある。


「……寂しい」


 誰もいなくなったサロンで、私はポツリと独り言を漏らした。


(もしや、フェリス様は成長されたのではないかしら……)


 不吉な推測が脳裏をよぎる。多感な時期の彼女にとって、いつまでもメイドの私を「お姉様」と呼び、推し活にうつつを抜かす日々に、ついに「賞味期限」が来てしまった。あるいは、私の知らないところで、彼女は「本物の愛」を見つけた。


「……確かめなければ」


 それは、寂しさから目を逸らすための、自分勝手な言い訳だった。


 だが、プロデューサーとしての直感が告げている。彼女のあの瞳は、単なる卒業ではない。もっと切実で、もっと隠密な、何らかの「計画」を孕んだ輝きだ。


 その日の夜。レオ殿下を無理やり寝かしつけ、私は隠密行動用の黒いローブを纏った。


 フェリス様の部屋の明かりが消えてから数十分。バルコニーから、影が一つ、音もなく飛び降りるのが見えた。


「……当たり。やはり、こっそり出かけるつもりね」


 私は気配を殺し、彼女を追った。


 フェリス様は手慣れた様子で、警備の薄い通用口を抜け、王都の雑踏へと消えていった。王都の繁華街を抜け、さらに路地裏へと入っていく彼女の足取りには迷いがない。


 やがて、彼女が立ち止まったのは、下町の片隅にある看板も出ていない小さな店だった。


「……一体、あんな場所で何をしているの? 武器の調達? それとも裏社会との密談?」


 嫌な予感が背筋を走る。私はフードを深く被り直し、フェリス様が消えた地下階段へと足を踏み入れた。


 一歩、また一歩と降りるたびに、湿った空気と、どこか嗅ぎ慣れない甘く重たい香りが鼻を突く。


 半開きになった重厚な扉の隙間から、私は中の様子を窺った。


 そこは、薄暗いランプに照らされた、奇妙な店だった。壁一面に並べられた色とりどりのシルク。レース。そして、マネキンに着せられた、あまりにも扇情的な下着の数々。


「……は?」


 私の思考が停止する。


 店の奥で、フェリス様は店主と思われる老女と、真剣な面持ちで議論していた。


「……この『深淵の黒レース』、殿下の肌の色に映えるかしら? いえ、こちらの『情熱の真紅パッション・レッド』の方が……」


「お嬢さん、そちらの真紅は、一度身に付ければ並の男なら三秒で理性を失う代物だよ」


「……三秒……。足りませんわ。殿下には一秒で陥落していただかなければ。ついに『女』としての覚悟を決めるその瞬間に、これほど相応しい布切れはございませんもの……!!」


 フェリス様が、狂気を孕んだ瞳で真っ赤なレースの布を掲げた。


 それは、私の知っている可憐なフェリス様ではなかった。


(……フェリス様、殿下のことが本当に……?)


 私の推し活脳が、初めて「供給」として処理できない光景を前に、立ち尽くした。



 その店を出たフェリス様が次に向かった先で、私は心臓を完全に停止させることになる。


 下町の暗がりに、見間違えるはずのない、あの背中。


 銀髪を月光に光らせ、私の愛する「神」が、私の「妹」と密会していたのだ。


「……殿下、準備は整いましたわ」


「……ああ。アンネには、絶対に気づかれるなよ。あいつは鋭いからな」


 二人の低い囁きが、夜の静寂に溶けていく。


 私の世界が、音を立てて崩壊していくような感覚。



 下町の湿った夜気が、黒いローブ越しに肌を刺す。


(……待ちなさい、落ち着くのです、アンネ・ベルリッツ)


 プロデューサーとしての私の脳が、必死にこの状況を「尊い供給」として処理しようとフル回転を始める。


(これは……そう、これは『公式が用意した婚約者限定イベント』。私という教育係を介さない、血統と契約に裏打ちされた正統派ルートの開拓。……素晴らしい。なんて強固なシナリオ)


 だが。


 二人の唇が触れ合いそうなほど近づき、レオ殿下がフェリス様の肩にそっと手を置いた瞬間。


 私の脳内にある「超解釈」の歯車が、異音を立てて停止した。


(……あ。解釈……できない)


 いつもなら「尊い!」の一言で片付けられるはずの光景が、今はただ、鋭い氷のつぶてとなって胸の奥に突き刺さる。


「――そこにいるのは、誰だ」


 レオ殿下の鋭い声が、夜の静寂を切り裂いた。


 私は、幽霊のようにふらりと影から姿を現す。フードが脱げ落ち、青ざめた顔が月光の下に晒された。


「……アンネ? なぜ、お前がここに……」


「お、お姉様!? これは違いますの! 私と殿下は、その……!」


「……フェリス。もういい」


 フェリス様の弁明を、レオ殿下が冷たく遮った。


「アンネ。勘違いするなよ。……僕とフェリスは、公式な婚約者同士だ。二人が夜に密会していようが、何を買い込んでいようが……そこに問題があるのか?」


「……っ」


「僕たちが二人で会うのは、当然の権利だ。……側室候補に過ぎないお前が、正妻となる彼女との時間に口を挟むつもりか?」


 その言葉は、塔で私を抱きしめた時の熱さとは正反対の冷たさだった。問題はない。全く、その通りだ。


「……いえ。問題など、ございませんわ。殿下」


 私の喉は、砂を噛んだように枯れていた。


「理解したならいい。……さっさと王宮に戻れ。夜遊びが過ぎるぞ、アンネ」


 私は踵を返した。だから私は気がつかなかった。殿下の瞳が悲しみに揺れていることを。


 背後でフェリス様が「待ってお姉様、そうじゃなくて……っ!」と叫ぶ声が聞こえたけれど、私にはそれを「妹の照れ」として解釈する力は、もう残っていなかった。


 私は、一人の無力な女として、逃げるように暗い路地を駆け抜けた。


 「正妻」という名の絶対的な障壁の前に、私の九年間の献身が、ただの砂の城のように崩れ去っていく。


【第37話へ続く】


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