第34話:日常という名の狂乱、あるいは供給過多による王宮崩壊
バカンスという名の「伝説」を終え、私たちは王都にある本宮へと帰還した。
だが、馬車が王宮の重厚な門を潜った瞬間、肌を刺す空気の密度が明らかに変わっていることに気づく。
本来ならば、長旅の疲れを癒やすための静謐な日常が待っているはずだった。しかし、そこに広がっていたのは、私たちの想像を遥かに超える**「熱狂」**という名の磁場だった。
離宮での出来事は、もはや隠し通せるものではなくなっていた。
フェリス様が執念で撮影した「神の構図」の数々、そしてレオ殿下が「沈黙の塔」を物理的に破壊して私を救い出した際の「魔王の咆哮」。それらの断片的な情報が、先行して帰還した侍女や騎士たちの口を通じて、尾鰭を付けて王宮内へと拡散されていたのだ。
宮殿の廊下を歩けば、角を曲がるたびに無数の視線が突き刺さる。
それは以前のような、没落令嬢を蔑む冷ややかなものではない。歴史的瞬間の証人を凝視するかのような、あるいは「聖典」の続きを渇望する信徒のような、ギラついた熱を帯びた視線だ。
「……アンネ。聞こえるか。あいつら、掃除もせずに何を見ている」
レオ殿下が私の腕を引き寄せ、不快そうに眉を寄せた。
バカンスを経て、殿下は私の姿が視界から一瞬でも消えることを極端に嫌うようになっている。今も公務に向かう廊下で、私のエプロンの端を当然のように指先で絡め取り、自らの所有物であることを周囲に誇示していた。
「殿下、あれは皆様、殿下の神々しさを網膜に焼き付けているのです。教育係としては、殿下がそれほどまでに注目されるのは誇らしいことですが……少々、実務に支障が出ているようですね」
私が言い終える前に、前方で激しい怒号が聞こえてきた。
「いいえ! 昨夜、塔からアンネ様を抱きかかえて降りてこられた際の殿下は、間違いなく『独占欲に狂った魔王』でした! これこそが至高、これこそが真理です!」
「甘いですわね! ビーチでの『あーん』を見なさい! あれは守るべき対象への、不器用な少年の純愛……いわば『大型犬の慈愛』です! 私はこちらに命を懸けます!」
廊下の向こうで、掃除用具を投げ捨てた侍女たちが真っ赤な顔で論争を繰り広げている。
見れば、一方の派閥はレオ殿下の冷酷さを象徴する「黒いリボン」を、もう一方は純愛を象徴する「白いリボン」を腕に巻いていた。もはやそれは単なる噂話の域を超え、組織化された勢力抗争へと発展している。
「……カイル様。あれ、そろそろ止めないと物理的な衝突に発展しますよ」
アルベルト様が、溜息をつきながら腰の剣をガチャつかせた。
「手遅れだよ、アルベルト。バカンスで供給された情報が多すぎたんだ。今や王宮内は、『アンネ×レオ』の解釈の違いによって、いくつもの武装組織に分断されつつある」
カイル様は淡々と手帳に記録を続けているが、その瞳には「面白いものを見つけた」という知的な愉悦が宿っている。
「僕の観測データによれば、この三日間で職務放棄による処罰者が通常の五倍に達している。侍女だけでない。近衛騎士団の若手連中までもが、どちらの解釈が正しいかで演習場を血に染めているからね」
そんな混沌とした状況を、あの方が黙って見ているはずがなかった。
ついに、国王陛下――レオ殿下の父上から、直接の呼び出しがかかった。
謁見の間。そこには、普段の威厳ある姿とは裏腹に、こめかみを指で押さえ、深い絶望の淵にいるような表情の陛下が座っていた。
「……レオ。そしてアンネ・ベルリッツ。よく戻った」
「父上。……何か、問題でも?」
レオ殿下は私の手を放さないまま、不遜に問いかけた。陛下はその様子を一瞥し、さらに深く、魂を吐き出すような溜息をついた。
「問題……か。問題しかないのだ、レオ。お前たちが持ち帰った『推し熱』という名の疫病が、私の家臣たちを狂わせている。今日の朝食のスープを見たか? 過熱した支持者の一人が『お祝い』として入れた、食用ではない大量の花びらが浮いていたのだぞ。おかげで私は一口も飲めなかった」
陛下は、テーブルの上に置かれた一通の報告書を叩いた。
「王宮が機能していない。お前たちが仲睦まじくすればするほど、廊下で鼻血を吹いて倒れる者が増え、政務が滞る。……アンネ・ベルリッツ、教育係として、お前はこの事態をどう考えている」
「はっ。陛下、お言葉ですが……」
私は深く頭を下げた。胸の奥では、プロデューサーとしての血が騒いでいる。
「皆様の熱意が、殿下の真の価値を理解した結果であるならば、これほど喜ばしいことはございません。ですが、国家の運営に支障をきたすことは、殿下の美学に反します。速やかに、皆様の情熱を正しい方向へ導く『公式ガイドライン』を制定すべきかと存じます」
「……違う。そうではない! 私が言いたいのは――」
陛下が何かを言いかけた、その時。
宮殿の外から「公式供給、万歳!!」「解釈違いを許すな!!」という野太い雄叫びが響き渡った。
バカンスを経て、もはや誰にも止められないほどに膨れ上がった「推し熱」。
それは、私とレオ殿下の関係を、単なる主従の枠から、さらなる波乱の渦中へと押し流そうとしていた。
【第36話へ続く】




