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第32話:奪還、あるいは「唯一」を繋ぎ止める檻


 「沈黙の塔」の最上階。石造りの冷たい小部屋は、海鳴りの音だけが反響する孤独な牢獄だった。窓から差し込む月光は、マリア様から投げ渡された古びたローブを羽織った私の姿を、青白く照らし出している。

(……これで、いいのだわ。きっと)

 私は膝を抱え、ガチガチと震える体を抱きしめた。マリア様は「貴女がいなくなれば、私が代わりに王子の側にいられる。権力を、殿下の愛を、すべて手にする」と言い放った。

 本来ならば、プロデューサーとして「殿下の愛は私だけのものです!」と抗議すべきところだろう。けれど、今の私にはその資格がない。

 海中での密着、殿下の真っ赤な顔、そして冷徹な「目に毒だ」という一言。私が良かれと思って施した供給が、殿下を苦しめる毒になっていた。

(私が消えれば、殿下はまた、あの清らかな『神』に戻れる。マリア様のような方が側にいる方が、殿下の未来のためには……)

 私は、ただの没落令嬢だ。九年前、泥の中で殿下に拾われただけの存在。殿下が与えてくれた「教育係」という椅子に、私は甘えすぎていたのだ。

「……何、そんな顔をして。絶望に震える没落令嬢なんて、三流小説の読みすぎじゃないかしら?」

 鉄格子の向こう側で、マリア様が嘲笑を浮かべて立っていた。その手には、王宮の紋章が刻まれた重々しい書類が握られている。

「殿下も今頃、目障りな不純物が消えて、清々した気分で夕食を楽しんでいらっしゃるわ。さあ、ここにサインをしなさい。殿下への教育権を放棄し、二度と王宮の敷地を踏まないという誓約書に。そうすれば、命だけは助けてあげてもよろしくてよ?」

 私は力なく手を伸ばす。これで、私の推し活は終わる。殿下の美しい未来から、私という汚れを消し去るための、最後のご奉公――。

 その時だった。

 ――ズ、ドォォォォォォォォォォォォォンッ!!

 塔の最下層から、地響きのような爆鳴音が鳴り響いた。小部屋が激しく揺れ、マリア様が悲鳴を上げて床に倒れ込む。

「な、何!? 何が起きたの……!?」

「……アンネ。……アンネ、どこだぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 廊下の向こうから響いてきたのは、獣のような、あるいは地獄の底から這い上がってきた魔王のような咆哮。聞き間違うはずがない。九年間、世界で一番近くで聴き続けてきた、私の「神」の声。

「で……んか?」

 バキィィィッ!! と、鉄の扉が枠ごと吹き飛んだ。

 砂塵の中から現れたのは、剣を抜き放ち、肩で激しく息をするレオ殿下だった。背後には、冷や汗をかきながら「兄上、やりすぎです」と呟くカイル様と、周囲を警戒するアルベルト様が控えている。

「殿……下? なぜ、ここに……?」

「……黙れ」

 殿下は、よろよろと立ち上がろうとしたマリア様を一瞥すらすることなく蹴散らした。そして震える足取りで私へと歩み寄り、私の肩を掴むと、そのまま床に膝を突き、私の胸元に顔を埋めた。

 伝わってくるのは、尋常ではない体の震え。魔王のような覇気を纏っていたはずの殿下が、捨てられた子供のように私のローブを握りしめている。

「……バカか。お前は、死ぬほどバカなのか!?」

 殿下の震える声が、密着した体から直接響く。

「僕が『視界から消えろ』と言ったのは……お前のあの姿が、直視できないほどに理性を狂わせそうだったからで……っ! それなのに、お前、本当に消えるなんて……!! アンネがいなかったら、誰が僕の髪を解くんだ? 誰が僕に『尊い』なんて言葉をかけてくれるんだ!? お前がいない世界なんて、僕にとってはただの暗闇だ……!!」

 そのあまりにも不器用で、重すぎる愛の告白。私は、自分が抱いていた「誤読」がいかに浅はかなものだったかを悟った。殿下は私を嫌ったのではない。殿下もまた、私に「狂わされて」いただけなのだ。

「……よしよし。怖かったですね、レオ殿下」

 私は、九年前のあの日のように、そっと殿下の銀髪を撫でた。あの日、私を「唯一」として選んでくれた少年の面影が、今の殿下と重なる。

「申し訳ございません。私の解釈が足りませんでしたわ。……殿下、貴方はやはり、世界で一番『尊い』お方です」

 殿下は私の腕の中で、ようやく安堵の息を吐き、ぐったりと身を預けてきた。

 ――その光景を、部屋の隅で魔導水晶を構えながら観測していたフェリス様が、

「ブハッッッッッ!!!」

 噴水のような勢いで鼻血を垂らし、そのまま床に崩れ落ちた。

「あ……あぁぁぁぁ……! 公式の『逆転母性ハグ』……! 尊い……尊すぎて……私の……三半規管が……終わる……っ!!」

「フェリス様! 落ち着いてください、これをお使いに!」

 アルベルト様が慌てて膝をつき、敬意を払いながらも必死にハンカチを差し出す。一方でカイル様は、「素晴らしいデータだ。兄上のあの泣き顔、王宮の歴史資料として保存しておこう」と水晶を回し続けている。

 塔を吹き抜ける夜風はまだ冷たいけれど。私の腕の中にある殿下の体温は、この世の何よりも熱く、確かに私を繋ぎ止めていた。

【第34話へ続く】



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