第31話:不在の輪郭、あるいは「人間」に成った日の追憶
離宮の森を揺らす夜風が、不気味なほどに冷え込んでいた。
別宮へと向かったはずのアンネが、夜の帳が下りても戻ってこない。ただそれだけの事実が、この豪華絢爛な夏の離宮を、音を立てて崩壊させようとしていた。
「――アンネ。どこだ、アンネ……!!」
本館の廊下を、レオ殿下の怒号が切り裂く。先ほどまで「目に毒だ」と顔を背けていたはずのその瞳は、今や獲物を探す獣のような狂気を帯び、行き交う侍女たちは腰を抜かして壁際にへたり込んでいた。
「兄上、落ち着いてください。貴方のその覇気だけで、無関係な使用人たちが死に絶えてしまいますよ」
カイル様が淡々と声をかける。
「落ち着けだと! あいつが、この夜の闇の中で一人でいるんだぞ!」
「……いいや、兄上。アンネがいないと何もできないのは、兄上の方でしょう?」
痛烈な一言に、殿下が言葉を詰まらせる。アルベルト様に肩を掴まれ、力なくその場に膝を突いた。
「……あいつがいなくなったら、僕はまた、ただの『記号』に戻ってしまう……」
レオ殿下の脳裏に、九年前のあの日が蘇る。
当時の彼は八歳。周囲の大人たちは彼を「王子」としてしか見ていなかった。腫れ物に触れるような敬意という名の疎外。子供らしい我が儘も、泣き顔も、誰かに甘えることさえ、レオという名の記号には許されていなかった。
そんな氷の張った池のような静寂の中に、彼女は現れたのだ。
『――まぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ!! なんて、なんて尊いお姿……っ!!』
王宮の庭園で本を読んでいたレオへ向かって、近衛騎士たちの制止を無視して突進してきたベルリッツ公爵家の令嬢。それがアンネの第一声だった。
『レオ殿下! あぁ、その瑠璃色の瞳、その雪のような肌……っ! 可愛い、可愛すぎますわ殿下! 生きてそこに存在しているだけで、このアンネ、一生分の税を納める覚悟ができましたわ!!』
彼女の瞳には、恐怖も計算も敬遠もなかった。ただ純粋な、狂気にも似た「熱」と「全肯定」だけが渦巻いていた。
それまで、レオを「可愛い」と呼び、なりふり構わず「好きだ」と叫んだ者は誰もいなかった。誰もが王子という盾の向こう側を見ようとしなかったのに、彼女だけは、盾ごと彼を抱きしめてきた。
その瞬間、レオの中の何かが音を立てて溶けた。
アンネだけが、彼を「王子」という牢獄から引き出し、「レオ」という一人の人間にしてくれた。だからこそ、お家が没落し、彼女がすべてを失った時、レオは狂喜したのだ。これでようやく、彼女を自分だけのものとして縛り付けておける、と。
「……あいつは、僕に初めて『自分』というものを教えてくれた女だ」
殿下は、確固たる意志を込めて立ち上がった。
「カイル、アルベルト。アンネを連れ去ったのはマリアだ。場所は一つしかない」
「……岬の先の、『沈黙の塔』ですね」
カイル様の手には、既に離宮の地図と塔の鍵が握られている。
「……今さら『目に毒だ』なんて言ったことを、死ぬほど後悔しているよ。あいつは毒なんかじゃない。……僕の命を繋ぐ、唯一の酸素なんだ」
「行くぞ。……僕のアンネを、返してもらう」
夜の闇を裂いて、三人の男たちが走り出した。
【第32話へ続く】




