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第30話:沈黙のバカンス、あるいは「教育係」の終焉



 夏の離宮に二度目の朝が訪れた。本来ならば、昨日の不慮の事故を笑い飛ばし、今日こそはエメラルドグリーンの海を満喫する、黄金色のバカンスが展開されるはずだった。


 だが、離宮のテラスに漂う空気は、まるで嵐の前の静止した湿った空気のように重く、冷え切っていた。


「……殿下、お召し替えの準備が整いました」


 私は、殿下の寝室の扉の前で、床のタイルを見つめたまま声をかけた。


 いつもなら、この時間は私の独壇場だ。殿下の寝顔を「国宝」として拝み、寝癖のついた銀髪を「芸術」として整え、今日一日のスケジュールをプロデューサーとして指示する。それが九年間、一日の欠かさず繰り返されてきた、私の「聖域」だった。


 しかし、扉の向こうから返ってきたのは、かつてないほどに低く、刺すような声だった。


「……勝手に入るな。……着替えは、もう済ませた。自分一人でできる。お前は、下がっていろ」


 その言葉に、私の指先が凍りついた。


 九年間。殿下が八歳のあの日から、「アンネ以外のメイドは認めない」と駄々をこねて私の手を引いたあの日から、殿下が自分の着替えを他人に、ましてや自分一人で行うことなど一度もなかった。


 それは、殿下からの明確な「絶縁状」に等しかった。


(……やはり、そうなのだわ。殿下にとって私は、もう側にいるだけで生理的な苦痛を強いる存在になってしまった)


 私はトレイを持つ手に力を込め、溢れ出しそうな涙を必死に堪えた。


 テラスでの朝食も、惨憺たるものだった。


 広いテーブルに並べられた色鮮やかなフルーツや焼きたてのパンには、誰も手をつけようとしない。


 レオ殿下は一度も私と目を合わせず、ただ遠くの水平線を睨みつけるようにして座っている。その耳の付け根が、今も微かに赤らんでいるのを見て、私はさらに自己嫌悪を深めた。


「……なあ、カイル様。この空気、どうにかしてくれよ。せっかくの最高級のオムレツが、砂の味がするぜ」


 アルベルト様が小声で、隣に座るカイル様に囁いた。


「無理だよ。兄上は今、九年間の『甘え』と、昨日爆発した『本能』の間で、精神がぐちゃぐちゃになっているんだ。アンネを視界に入れるだけで、脳内の処理能力がオーバーフローしているんだろうね」


「……あいつ、本当に気づいてないのか? 殿下が嫌がってるんじゃなくて、意識しすぎて壊れかけてるってことに」


「アンネは『推し』を崇拝しすぎているからね。自分を、殿下という完璧な世界を汚すノイズだとしか定義できないんだ。プロデューサーとしては優秀だけど、一人の女としては絶望的に自己評価が低い。……まあ、この停滞も観測データとしては面白いけど」


 私は、殿下の紅茶が冷めていくのを、ただ無力に見つめることしかできなかった。


「……殿下、紅茶をお淹れ直しいたします」


「……いいと言っただろう! 近くに来るな!」


 殿下が激しく椅子を引いて立ち上がった。その拍子に、カップの紅茶が白亜のテーブルクロスを汚す。


 殿下は、私の顔を見る直前で弾かれたように視線を逸らし、そのまま荒い足取りでテラスを去っていった。


「あ……」


 私の手が、空を切る。


 あんなに、あんなに私を必要としてくれた殿下が。没落した私を拾い、「僕には君しかいない」と言ってくれた殿下が、今は私の接近を拒絶している。


 心臓が、ナイフで細かく刻まれるような痛みに支配される。


(……なのに。なぜ、殿下の背中がこんなに遠く見えるのかしら。これは単なる演出上の距離のはずなのに)


「お姉様……。少し、休まれてはいかがですの? 今のお姉様の顔、殿下に見せたらそれこそ殿下の心臓が止まってしまいますわ」


 フェリス様が心配そうに声をかけてくれるが、私は首を振ることしかできない。


「演出の設計が根本から間違っていたのだわ。バカンスという特別な舞台で、殿下の新しい魅力を引き出すはずが、逆に殿下の日常という聖域を私が乱してしまった。……公式プロデューサーとして、今は静かに素材の回復を待つべき局面。ここで焦って近づくのは悪手ですわ」


 午後になり、カイル様たちの提案で無理やり行われた浜辺の散歩も、ただの「苦行」だった。


 数メートル先を歩く殿下の背中は、かつてないほど遠く、険しい。


 私は、殿下の影を踏まないように、その数歩後ろをうつむいて歩く。


 太陽の光は残酷なほどに眩しく、砂浜は白く輝いている。


 九年前、凍てつく雪の中で殿下が握ってくれた手の熱さを思い出す。あの時の殿下は、私という存在を「光」だと信じてくれた。なのに、今の私は殿下にとって、避けるべき「影」でしかない。


 波の音が、嘲笑うように響く。


 プロデューサーだ、教育係だと浮かれていた自分の愚かさを、潮風が容赦なく暴き出していく。


「……アンネ」


 ふと、前方で立ち止まった殿下が、背中を向けたまま私の名を呼んだ。


 私は弾かれたように顔を上げる。「はい、殿下!」


「……今日はもう、僕の側にいなくていい。……別宮の掃除でも、何でもいい。……とにかく、僕の視界から消えろ」


 震える声だった。殿下の拳は、白くなるほどに握りしめられていた。


「……承知、いたしました。殿下」


 私は深く、深く頭を下げた。


 頬を伝う熱い雫が、白い砂に吸い込まれて消えていく。


 私は、逃げるように殿下の背に背を向けた。


 その背後で、殿下が「違う、そうじゃないんだ……っ!」と、砂浜に崩れ落ちるような音を立てたことにも気づかずに。



 別宮へと向かう道の途中、森の影から音もなく姿を現した女がいた。


「……あら、悲劇のヒロインの真っ最中かしら? アンネ・ベルリッツ」


 かつて殿下の教育係を巡って私と争い、敗北したはずの女――マリア・ダヴェンポートだった。王宮直属の教育諮問委員会の調査員として、正当な手続きでここに入り込んだらしい。なるほど、手が込んでいる。


(……保守派貴族の差し金ね。私を排除するための、嫌がらせにしては周到すぎる手口だわ)


 だが、今の私には、それを看破して戦う気力がなかった。マリアが畳み掛ける「正論」――殿下の飼い殺し、成長の妨害、執着という名の毒――それらはすべて、今の私が自分自身に向けていた言葉と、寸分も違わなかったから。


「……あそこにある『沈黙の塔』へ行きなさい。一晩かけて、自分がどれほど殿下の害になっているか、省みるべきだわ」


「……分かりました」


 私は箒を置き、幽霊のような足取りで歩き出した。


 背後でマリアが蛇のような笑みをもらし、影から屈強な男たちが私を囲んだことに、気づく余裕さえなかった。



 一方その頃、離宮本館のテラスでは。


「……おい、カイル様。アンネはまだ戻らないのか? 別宮へ行けと言ったのは僕だが、あいつ、本当に行きやがった……」


 レオ殿下が、真っ青な顔でカイル様に詰め寄っていた。その耳の先は、いまだに熱を持ったように赤い。


「兄上、あんなに突き放すような言い方をしたんだ、当然だろう。アンネは君の言葉を『神託』として受け取るんだからね」


「……そんなつもりじゃなかったんだ。ただ、あいつの顔を見ると……昨日の、あの……感触が、どうしても思い出されて。心臓がうるさすぎて、まともに話ができなかっただけなのに……っ!」


「兄上のあのこじらせ方、九年間アンネを空気だと思って舐めてきた罰だな」とアルベルト様が呆れたように海を指差した。「それより、さっきマリア・ダヴェンポートが別宮の方へ歩いていくのを見た。あいつ、九年前の恨みを忘れてないだろう」


「……マリアだと?」


 レオ殿下の動きが、ピタリと止まった。次の瞬間、その瞳には周囲を凍りつかせるような「魔王」の光が宿る。


「……あの女が、僕のアンネに近づいたのか」


 殿下は椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。


「行くぞ。……あいつは僕の教育係だ。僕の、ものだ。誰にも、触らせるものか……!!」


 しかし、その時既に、アンネ・ベルリッツは「沈黙の塔」の地下室へと閉じ込められ、鉄の扉が冷酷な音を立てて閉ざされていた。


【第31話へ続く】


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