第29話:水中のマウント、あるいは母性(仮)の崩壊
「殿下! しっかりなさいませ、殿下!!」
押し寄せる波の抵抗など、今の私にとっては空気の揺らぎも同然だった。
視界の端で銀色の髪が水面に没するのを見た瞬間、私の脳内ではあらゆる理性が焼き切れ、「推しを守る」という本能だけが全身の細胞を掌握していた。
私は猛烈な勢いで腕を回し、もがくレオ殿下の腰を背後から力強く抱きしめた。
バシャリ、と波間から顔を出すと、濡れて重たくなった殿下の銀髪が私の頬を激しく打った。
同時に、冷たい海水の層を突き抜けて、殿下の驚くほど熱い体温がダイレクトに伝わってくる。密着した背中越しに、殿下の心臓が耳元で、かつてないほど速く、激しく、警鐘のように打ち鳴らされているのが分かった。
「……っ、ア、ンネ……!? は、離せ……っ! 僕に、触れるな……!」
「離しません! このまま波打ち際までお運びいたします!!」
殿下は何かを必死に拒もうとして、その細い指先で私の腕を押し返そうとしていたけれど、今の私の腕力は教育係という枠をとうに超えた、執念の檻だ。救助を最優先するあまり、私の体は殿下の背中に、文字通り一分の隙もなく密着していた。
水を吸って肌に張り付いた水着という薄い布は、もはやお互いの境界線を守る役目を果たしていない。混ざり合う吐息、重なる鼓動。逃げ場のない、そして呼吸を忘れるほどのゼロ距離。
「殿下、意識が遠のいていらっしゃるのですね!? お顔が真っ赤です、すぐに砂浜へ!!」
私が必死に叫ぶと、殿下は抵抗するどころか、急に全身の力が抜けたように、私の腕の中にぐったりと身を預けてしまった。
私は焦燥に駆られながらも殿下を抱え直し、渾身の力で波打ち際へと這い上がった。
白い砂浜に殿下を横たわらせ、私はその上に覆いかぶさるような姿勢で、真っ赤な顔をして荒い息を吐く殿下を覗き込んだ。滴り落ちる海水が、私の顎から殿下の鎖骨へと伝い落ちる。
「殿下! 大丈夫ですか!? どこかお苦しいところは! 水を飲まれましたか!? それとも、やはり私の……この姿に、毒されたのですか……!」
「……もう……無理だ……。お前、自分が何を……何を、しているのか……分かっているのか……」
殿下は片手で顔を覆いながら、消え入りそうな声で呟いた。その指の隙間から覗く肌は、夕焼けよりも深く、痛々しいほどに赤く染まっている。
少し離れた場所で、日傘を回しながら立っていたアルベルト様が、首を傾げてこちらの惨状を眺めていた。
「……なあ、カイル様。見てるか、あの殿下の顔。あんな情けないほど真っ赤な殿下、九年間で一度も見たことないぞ」
「不思議だよね。アンネは八歳の頃から兄上の世話をしてきたし、一緒にお風呂に入ったり添い寝したり、文字通り四六時中肌を接していたはずなんだけど。今さら救助で抱きつかれたくらいで、なんであんなに心臓を爆発させそうなほど動揺してるんだろうね」
「……ああ。あいつ、いつの間にあんなに『女』になってたんだ、って、殿下は今初めて物理的に突きつけられてるんだろうな。今までは母や姉に対するような、あるいは自分の一部であるかのような、無邪気で傲慢な執着だった。でも、さっきのあの水着姿を見てからは、もう無理なんだろうよ」
「自分の所有物だと思って舐めていた相手に、理性を完膚なきまでに敗北させられる。兄上も、もう『空気のような関係』には戻れないね」
私は、震えながら顔を伏せる殿下を見て、内臓を素手で掴まれるような絶望的な確信を深めていた。
九年間、私はこの方の全てを知っているつもりだった。この方の安らぎであり、この方を輝かせるプロデューサーであると自負していた。
けれど、今の殿下の拒絶はどうだ。私に触れられたこと自体が、生理的に耐えがたい苦痛であるかのように身を震わせている。
(ああ……やはり、そうなのだわ。殿下は、私に触れられたこと自体が、これほどまでに不快なのだ。救い出した直後だというのに、目も合わせてくださらない。あんなに赤くなって震えているのは、救われた喜びでものぼせでもない。不快な女に抱きつかれ、肌を汚されたことへの、生理的な嫌悪と怒り……)
私は、自分が着ているこの水着が、呪いの装備のように思えて仕方がなかった。フェリス様に言われるがまま、色気づいた格好をした自分が愚かだったのだ。殿下が愛したのは、公爵令嬢という虚飾を剥がされ、ただ「自分だけ」を見つめて尽くす、無色透明なメイドとしての私だったはずなのに。
「殿下……。申し訳ございません。私の不浄な体が触れたこと、万死に値します。すぐに、すぐにフェリス様と医官を呼んでまいりますから……」
私は震える声でそう告げ、殿下の体から離れようとした。
その瞬間、殿下が覆っていた手を退け、鋭い眼差しで私を射抜いた。
「……もういい! どこへでも行け!!」
叩きつけるような言葉だった。殿下の瑠璃色の瞳は潤み、その視線は私の顔、そして水に濡れて透けた水着のラインをなぞり、弾かれたように再び逸らされた。
「……お前の姿なんて、もう、一秒も見たくない。……これ以上、僕を……。行け! 早く、視界から消えろ!!」
「……っ、はい……。失礼、いたしました……」
殿下の最後の一押しが、私の心臓を正確に貫いた。
「一秒も見たくない。……そうですわね、殿下。私という不出来なプロデューサーが視界に入るたびに、殿下の精神環境が乱される。これは教育係として最悪の失態ですわ。素材を輝かせるどころか、素材の集中力を削いでいる。……ここは一度、舞台袖に引っ込むべき場面ですわね」
私はよろよろと立ち上がり、砂浜に足跡を刻みながら、逃げるようにその場を後にした。
背後で殿下が「……クソ……、なんで、あんな……」と、砂を掴んで呻いている声が聞こえたような気がしたけれど、私は振り返る勇気すら持てなかった。
(……それでも、なぜかしら。プロデューサーとして冷静に判断しているはずなのに、今日だけは、胸の奥が少しも、笑えない)
海辺を吹き抜ける風は、火照った肌には涼しすぎるはずなのに。
私たち二人の間には、今まで培ってきたはずの信頼と安寧を焼き尽くすような、重苦しく、そしてひりつくような「熱」が、消えない火種として残り続けていた。
【第30話へ続く】




