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第28話:はじまりの残像、あるいは「唯一」を許された日の記憶


 波打ち際に膝を突き、私は砂浜を指先でなぞっていた。

 アルベルト様やカイル様は呆れていたけれど、私にとってはこれこそが今の心境にふさわしい儀式だ。あの拒絶するような視線、そして「目に毒」という言葉。それは、私が積み上げてきた歳月への、あまりにも残酷な宣告だった。

「……お姉様。そんなに砂に文字を書いては波に消される遊びを繰り返さないでくださいまし。見ていられませんわ」

 いつの間にか、フェリス様が私の隣に座り込んでいた。彼女は手に持った魔導水晶を脇に置き、そっと私の肩に手を置く。

「……フェリス様。私は、殿下の『解釈』を根本から間違えていたのかもしれません。私の存在が、殿下の高潔な瞳を汚す不純物になっていたなんて」

「お姉様、また極端な方向へ……。そもそも、公爵令嬢だった貴女がすべてを失った時、殿下と再会したあの日のことを忘れたのですか?」

「……忘れるはずもありません。あの日こそが、私の人生のすべてなのですから」

 フェリス様の言葉に、私は重い瞼を閉じた。

 脳裏に浮かぶのは、今から9年前。私が13歳だった、あの雪が降り積もる凍てつく日の記憶だ。

【回想:9年前・運命の再会】

 ベルリッツ公爵家が没落し、私は一夜にしてすべてを失った。

 過酷な環境、明日をも知れぬ暮らし。身体的な辛さはもちろんだが、何よりも私の心を切り刻んだのは、もう二度と殿下にお会いできないという絶望だった。

 初めて殿下をお見かけしたあの日、私は一目惚れをした。

 この世にこれほどまでに可愛らしく、尊い方が存在していいのだろうかと。その瞬間、私は自分の全人生を懸けてこの方を推し続けると、そう心に決めたのだ。

 けれど、公爵令嬢という身分を追われた今の私に、殿下とお会いする資格などない。

 二度とそのお姿を拝むことも、その声を聴くことも叶わない。その事実が、凍えるような寒さよりもずっと、私を苦しめていた。

 そんな時だった。泥を啜るような生活の中で、聞き慣れた高貴な声が響いたのは。

「――アンネ。アンネか?」

 心臓が止まるかと思った。

 恐る恐る顔を上げると、そこには信じられない光景があった。

 白雪のような髪を揺らし、私を見つめていたのは――他ならぬ、レオ殿下だった。

「なぜ、そのようなみすぼらしい格好をしている?」

 呆然とする私に、殿下は真っ直ぐに歩み寄り、汚れきった私の手を取った。そして、有無を言わせぬ口調でこう言い放ったのだ。

「行くところがないなら、僕のところへ来い。……僕のメイドになればいい」

 その言葉は、絶望の淵にいた私の魂を、力強く引き揚げてくれた。

 それだけではない。殿下は、戸惑う周囲の大人たちを制して、確固たる意志でこう宣言したのだ。

「これからは、アンネ以外のメイドは認めない。僕の世話は、彼女一人に任せる」

 殿下が私に与えてくれたのは、単なる居場所ではなかった。「アンネでなければならない」という、唯一無二の、絶対的な肯定だったのだ。

【現在:離宮の砂浜】

「……あの日、殿下が私を『唯一』の存在として選んでくださったから、今の私があります。だからこそ……今の私が殿下に『醜い』と言われてしまったことが、耐えられないのです」

 私は砂を握りしめた。

 あの日、泥にまみれた私を「自分だけのメイド」として拾ってくださった殿下が、今は私の水着姿を見て「目に毒だ」と顔を背ける。それは、私が殿下の「唯一」である資格を、ついに失ってしまったということではないのか。

 フェリス様が何かを言いかけた、その時だった。

「――アンネ!! 大変だ、兄上が!!」

 海の方から、アルベルト様の焦ったような怒号が響いた。

 弾かれたように顔を上げると、入り江の少し深い場所で、レオ殿下が波に煽られて激しくもがいているのが見えた。

「……っ、殿下ぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーッ!!!」

 絶望なんて、一瞬で吹き飛んだ。

 私の天使が、私の神様が、今、危機に瀕している!

 嫌われようが、不浄だと思われようが、そんなことはどうでもいい。

「待っていてください、殿下! 今、不浄な私が貴方を地獄の底から引きずり上げて差し上げますわ!!」

 私は砂を蹴り、全力で海へとダイブした。

 9年前から、殿下が私を拾ってくれたあの日から、私の命は殿下のものなのだから。

 猛烈な勢いで水を掻き、沈みかけた殿下の元へ到達した私は、そのしなやかな体を背後から力いっぱい抱きしめた。

【第29話:水中のマウント・初めての『女』の重み編へ続く】




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