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第2話:レッスン1・まずは手合わせ(物理)から始めましょう


(落ち着け。落ち着くのよアンネ・ベルリッツ。私はメイド。プロのメイド。そして今は、殿下の将来を預かる栄えある『教育係』。……決して、私利私欲で殿下の聖域を汚そうとしているわけではないわ!)

 殿下の寝室、その扉の前で、私は深呼吸を繰り返していた。

 陛下からは「好きにやってよい」と言われた。お家再興の約束も取り付けた。だが、その代償はあまりにも大きい。

 これから私は、あの「歩く清廉潔白」ことレオ殿下に、夜の作法を教えなければならないのだ。

「……よし。心頭滅却すれば火もまた涼し。殿下は仏像。私は彫刻家。これはただの、技術伝達作業よ……!」

 顔に「鉄の仮面」を貼り付け、私は意を決してドアをノックした。

「殿下、失礼いたします。教育のお時間です」

「あ、アンネ! 待ってたよ。さあ、入って」

 中に入ると、殿下は既にくつろいだ格好でソファに座っていた。

 ……待って。

 その、少しだけボタンを外したシャツの着こなしは何? 鎖骨が見えてる。鎖骨が。殿下の鎖骨は国宝級だとあれほど(私の心の中で)言ったはずなのに、本人がこんなに無防備でいいの!?

(グッ……! いきなりのクリティカルヒット! でも負けない! 私は今日、教育を完遂しに来たのよ!)

「さて、殿下。まずは基本中の基本……『女性との接触』から始めます。他国の王女殿下をお迎えした際、殿下が緊張で震えてしまっては不作法となりますから」

「うん、わかった。僕、アンネの言う通りにするよ。……で、何からすればいい?」

 殿下が素直に首を傾げる。そのキラキラした瞳が眩しすぎて、直視できない。

「まずは、手を……手を握るところから始めましょう。殿下、手をこちらへ」

「こう?」

 殿下がそっと手を差し出す。

 私は、震える指先でその手を受け止めた。

(ひ、ひいいいいいいい! 触れた! 触れちゃった! 殿下の体温! しっとりとしていて、かつ力強い男の子の手! 私のガサガサした手が触れていい場所ではないのに! あああああ、全細胞が歓喜の悲鳴を上げている!!)

「……殿下。女性の手を握る際は、優しく、かつ包み込むようにするのがコツです」

「包み込むように、ね。……こうかな?」

 殿下が、逆に私の手をぎゅっと握り返してきた。

 しかも、なぜか指と指を絡める、いわゆる『恋人繋ぎ』の形に。

「…………っ!?」

「あ、ごめん、強すぎた? でも、こうするとアンネの鼓動がすごく伝わってくるね。……アンネ、心臓がすごく速いよ? 大丈夫?」

 殿下が至近距離で顔を覗き込んでくる。

 近い。まつ毛の長さまで数えられる距離だ。

(無理! 無理無理無理!! その上目遣い、反則ですから! しかも何よその『恋人繋ぎ』! どこで覚えたの!? 天然!? 殿下は天然の魔性なの!? 私の心臓は今、ドラムセットの連打みたいになってるわよ!!)

「だ、大丈夫です! これは……その、教育に対する熱意です! 次は、手の甲にキスをする練習を――」

「あ、それなら知ってるよ。物語とかでよく見るよね。……やってみていい?」

 言うが早いか、殿下は私の手を引き寄せ、恭しくこうべを垂れた。

 そして。

 ――チュ。

 熱い。

 手の甲に、柔らかい感触が触れた。

(………………終了。私の人生、ここで終了です)

 脳内でファンファーレが鳴り響き、視界がピンク色の花吹雪で埋め尽くされる。

 殿下が私の手にキスをした。あの、神聖なるレオ殿下が。

「……どうかな? 合ってる?」

 殿下が、期待に満ちた瞳で見上げてくる。

(合ってるどころか、正解を超えて真理です! 宇宙の真理がここにあります! でもダメ! これ以上続けたら、私の理性が蒸発して殿下を押し倒しかねない!!)

「は、はい! 満点です! 五千億点です! 今日はここまで!!」

「えっ、もう終わり? まだ『実技』の入り口だって父様が言ってたけど……」

「これ以上は心臓が……いえ、殿下の集中力が持ちません! 解散! 撤収!!」

 私は脱兎のごとく部屋を飛び出した。

 廊下を走りながら、私は自分の顔が沸騰しているのを感じていた。

 その時。

 角を曲がったところで、数人の影にぶつかりそうになった。

「……おっと。アンネ、もう終わったのか?」

 ニヤニヤと笑いながら立っていたのは、国王陛下。

「兄上をもう落としたのかよ。早えな、アンネ」

 冷ややかな、けれど面白がっている瞳をしたのは、第二王子のカイル。

「おい、今の悲鳴みたいな声、外まで聞こえてたぞ。もっとスマートにリードしてやれよ」

 呆れた顔をしているのは、殿下の親友である騎士のアルベルト。

(……待って。この人たち、まさか覗いてたの!?)

「アンネ、お前には期待しているぞ。レオを立派な『男』にしてやってくれ。ガハハ!」

「兄上の『初めての表情』、後で詳しく報告しろよ。あ、兄上には内緒な」

「とりあえず、今のアンネの顔、真っ赤で茹でダコみたいだな」

 ……地獄だ。

 教育相手は尊すぎて手が出せない天使。

 周囲は、早く既成事実を作れと騒ぎ立てる外野。

 そして私は、独占欲と尊みの狭間で死にかかっている没落メイド。

(フェリス王女が来るまで、あと三十日……。……それまでに、私の命、絶対持たないわ……!!)

 アンネの絶叫が、王宮の廊下に空しく響き渡った。



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