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第1話:その「初めて」を、解釈違いの女に渡してなるものか



 王宮一の問題メイドは、今日も一分の隙もない完璧なカーテシーでレオ殿下の寝室に入室した。


(あああああああああああ! 今日も! 今日も殿下の寝癖が五千万点!! 見てあの、右側のぴょこんと跳ねた一束! 朝日を浴びてプラチナブロンドが発光している! 聖画? これはルーブルに飾るべき聖画なの!? おはようございます、私の光! 私の酸素! 地上の奇跡!!)


 背筋は垂直。指先の角度はミリ単位で固定。かつて『王国の至宝』と謳われたベルリッツ公爵家の令嬢であったプライドが、今のメイド服という身なりにあっても、私の立ち居振る舞いを支えている。


 脳内が未曾有の大洪水に見舞われていることを除けば、完璧なメイドだった。


 五年前に我がベルリッツ家が政争に敗れ、没落し、家族が散り散りになった絶望の淵――私を救ってくれたのが、当時まだ幼かったレオ殿下だった。


 以来、私は身分を隠し、一介のメイドとして彼に仕え続けている。


「……ん、アンネ? おはよう。今日も早いんだね」


 ベッドから身を起こした第一王子、レオ・ル・ヴィトール殿下が、眠たげな瞳をこすりながら私に微笑む。


 わずか十八歳。成人の儀を終えたばかりの彼は、少年特有のしなやかさと、青年特有の精悍さが絶妙なバランスで同居する、まさに「至高の造形物」だった。


「はい。殿下がお目覚めになる一秒前に、最高の温度で紅茶を淹れるのが私の使命ですので」


(嘘です。一秒でも長く殿下の寝顔を拝むために、心拍数二〇〇を超えながらドアの前で待機していました。今の「おはよう」の声、低音の響きが耳に心地よすぎて、鼓膜が浄化されたわ。一生耳を洗いたくない……!)


「アンネがいれば、僕は一生何も困らない気がするよ。……ねえ、こっちに来て? ボタン、うまく留められなくて」


 レオ殿下が、はだけた寝衣の首元を指さして、小首を傾げる。


(グハッ……!!)


 脳内で、私の理性という名のダムが決壊した。


 近い。近すぎる。殿下の体温、そして朝露のような清らかな香りが鼻腔をくすぐる。


 その白く滑らかな指先が、ボタンと格闘している。あざとい。天然でやってるなら罪だし、計算でやってるなら私は喜んでその計算式の一部になりたい。


「……失礼いたします」


 震える指先を鉄の意志で抑え込み、私は殿下のボタンを一つずつ留めていく。


 至近距離で拝む殿下の肌は、毛穴という概念が存在しないのではないかと思うほど美しい。


(尊い。……尊すぎる。我がベルリッツ家は没落したけれど、この光景を独占できるなら、公爵令嬢という地位を捨てた価値はあったわ……!)


「アンネ? 顔、赤いよ? 熱でもあるの?」


「いえ……っ、朝の室温が少々高いようで。お気になさらず」


 心配そうに顔を覗き込んでくる殿下の「天使の瞳」から逃げるように、私は深く頭を下げた。危なかった。これ以上見つめられたら、私の鼻から赤い情熱が噴き出すところだった。



 幸せな朝の時間は、一通の呼び出しによって、あまりにも呆気なく終わりを告げた。


 王宮の奥まった一室。そこに待っていた国王陛下は、深刻そうな、それでいてどこか楽しげな矛盾した表情で私を迎え入れた。


「アンネよ。お前を呼んだのは他でもない。レオのことだ」


「殿下になにか……?」


「喜ばしいことだ。……隣国のフェリス王女との縁談が、正式にまとまった」


 その瞬間、私の頭の中が真っ白になった。


 ……そう、分かっていたことだ。殿下は王子なのだ。いつかは誰かと結ばれ、この尊い血を次代に繋がねばならない。


(……ああ。そうですよね。やっぱり、そうなっちゃいますよね……)


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


 いつまでも、朝のボタンを留めていられるわけではない。殿下は私の「推し」であって、「所有物」ではない。分かっている。分かっているけれど。


(フェリス王女……。どんな方なのかしら。殿下を、私以上に大切にしてくれるのかしら。お家再興の夢も、殿下の傍にいられる日々も、これで終わり……)


 ズキズキと痛む心を抱え、私が「メイドとしての正しいお祝いの言葉」をひねり出そうとした時、国王が声を潜めて続けた。


「だがな、アンネ。問題がある。レオは……その、あまりにも純粋すぎる。あやつ、男女の『夜の作法』について、微塵の知識も持っておらんのだ。このままでは初夜の席で、あの正体不明の王女を前に恥をかかせることになりかねん」


 私は沈黙した。確かに、レオ殿下は「お花が咲くと妖精さんが来る」と信じていてもおかしくないほどの清廉潔白さだ。


「そこでだ。フェリス王女が来る前に、レオに夜の作法を教える者が必要になった。……候補がおってな」


 国王が二枚の肖像画を机に並べた。


 一枚は、野心の滲む笑みを浮かべた若い未亡人。もう一枚は、感情を削ぎ落としたような、人形めいた美貌の女。


 その瞬間、私の悲しみは、猛烈な「殺意」……もとい「危機感」へと塗り替えられた。


(……ちょっと待ちなさい。あの野心まみれの笑顔は何? 殿下の清廉な初めてを『出世の踏み台』にするつもり? 万死に値するわ!! そしてもう一枚のあの人形、感情ゼロで事務的に叩き込むつもり!? 殿下の戸惑いも、高鳴る鼓動も、全部マニュアル処理するっていうの!? それはただの虐待よ!!)


 私の握りこぶしが、ぶるぶると震える。


 どっちもダメだ。どちらも、私のレオ殿下には相応しくない。


 気づいたら、私は立ち上がっていた。


「――陛下。申し訳ございませんが、その方々は、どちらも殿下の教育係には相応しくありません」


 国王の眉が微かに上がった。「ほう。理由を聞こうか」


「殿下は、九年間、私が誰よりも近くで見守ってきた御方です。殿下が何に安心し、何に傷つくか、私は熟知しております。野心を持つ者は殿下を道具にし、感情を持たぬ者は殿下の心を置き去りにする。……どちらも、断じて許容できません」


(言ってしまった。でも、これだけは譲れない。殿下の初めての夜が、あんな女たちの手に渡るくらいなら……!)


「代わりにこの私が――不肖アンネ・ベルリッツが、殿下の教育係を務めさせていただきます!!」


 沈黙。


 国王は、しばらく私を無言で眺めた後、ゆっくりと口の端を上げた。まるで最初から、この答えを待っていたような顔で。


「……ほう。そこまで言うか、アンネよ」


 国王は椅子の背にゆったりと凭れ、組んだ指の上に顎を乗せた。その瞳に、何かを面白がるような、底光りする光が宿る。


「よかろう。ならば一つ、条件を出そう。レオを一人前に育て上げた暁には、お前をレオの側室として迎え、ベルリッツ公爵家を再興させてやろう。散り散りになった家族も、父の無実も――すべて、取り戻させてやる」


 全身に、電流が走った。


(……お家再興。それは私の悲願。そして何より――殿下の初めてという聖域を、あんな女たちに渡さずに済む!)


「……謹んで、お受けいたします。陛下」



 廊下を歩きながら、私は自分の顔が沸騰しているのを感じていた。


(言ってしまった。お家再興のため。そう、これはベルリッツ家のためよ! 決して、殿下とああしたいこうしたいという私の不純な動機がメインではないわ!……多分!)


 プルプルと震えながら殿下の部屋の前に戻ると、中からひょっこりとレオ殿下が顔を出した。


「あ、アンネ。お帰り。父様と何をお話ししてたの?」


「……殿下」


「実は……父様から聞いたよ。今日から、アンネが僕に『大人の作法』を教えてくれるんだって? アンネが相手なら、僕、安心だよ。他の人だと怖いけど、アンネなら……優しく教えてくれるよね?」


 レオ殿下が、私の手を取り、期待に満ちた瞳でじっと見つめてくる。


(ア、ア、アアア……!! 『優しく教えて』!? その台詞、自分がどれだけ破壊力のある言葉か分かって仰ってます!? あああああ、その無垢な瞳が眩しすぎて視界がホワイトアウトする……!!)


「……っ、ふ、不束者ですが、全力でお導きいたします!!」


 没落令嬢、アンネ・ベルリッツ。


 お家再興という大義名分と、限界オタクとしての独占欲を胸に。


 今、禁断のレッスンの幕が開ける――!


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