第17話:代償の重みと、覚悟の残光
御前会議まで、あと三日。
王宮の図書室の片隅で、私は山積みになった法典とベルリッツ家の家系図を前に、珍しく筆を止めていた。窓から差し込む夕闇が、古い書架の影を長く伸ばしている。その静寂が、今の私の不安をさらに煽るようだった。
(……王者としての、冷徹な裁き。もし、殿下が長老たちの期待に応えられなかったら。ベルリッツ家の再興は潰え、私は教育係を解任される。それはつまり、殿下を一番近くで拝めるこの『聖域』から追放されるということ……!)
お家再興という重い義務感と、推しから引き離されることへの底知れない絶望。その二重の重圧に、私の心臓はいつになく重いビートを刻んでいた。指先が微かに震え、羽根ペンが頼りなく揺れる。そんな私の手の上に、ひんやりとした、けれど確かな熱を持った手が重なった。
「アンネ。また難しい顔をしてるね」
レオ殿下だ。いつの間にか私の背後に立っていた殿下は、椅子に座る私の肩を抱きしめるようにして、顔を覗き込んできた。その瑠璃色の瞳には、ロウソクの火が吸い込まれるような、静かな闇が宿っている。
「殿下……。申し訳ございません。私の力不足で、殿下にまで不必要なプレッシャーを……」
「プレッシャー? ……ああ、あの老人たちのことかな」
殿下は、私の頬を一筋流れた涙を、長い指先でそっと拭った。その指が頬に残す感触は、慈しみというよりは、逃げようとする獲物を繋ぎ止める鎖のような、鋭い力強さを帯びている。そのまま殿下は、私の背後から首筋へと腕を回し、私を椅子ごと自らの体へと引き寄せた。
「アンネが泣くのは、嫌だな。……君を泣かせるものは、たとえ何であっても僕が許さない。……たとえそれが、君が大事にしている『お家』であってもね」
(…………っ!? い、今の、聞いた!?
殿下は……殿下は、私の家系に対する責任感すらも察した上で、『君が一人で背負う必要はない、僕が王としてその重荷を半分……いいえ、すべて引き受けてあげる』と、仰ってくださったのよ!!
『許さない』……それは即ち、『不当な圧力をかける者たちから、全力で君を守り抜く』という、殿下なりの不退転の守護宣言!!
ああ……なんて……なんて責任感の強い、……っ、……天使、なの……?)
必死に変換しようとする私の脳内フィルター。けれど、殿下が私の首筋に深く顔を埋め、熱い吐息を吹きかけた瞬間、背筋に走ったのは「尊さ」を通り越した、抗いようのない「戦慄」だった。殿下の拘束は強まり、私の自由は物理的に奪われていく。
「アンネ。……君が苦しまなくていいように、僕、明日から本気で『大人』になるよ。……君が望むなら、あの人たちが望む通りの……冷酷な王にだってなってあげる」
殿下の声が、地を這うような低音で鼓膜を震わせる。耳元で囁かれるその声は、甘く、そして恐ろしいほどに冷たかった。
「だから……ベルリッツのことは忘れて。僕のことだけ、見ていて。……そうすれば、全部うまくいくから」
(な、な……っ!! 聞いた!? 全宇宙の全肯定オタクの皆様!!
殿下は……殿下は、自らの『優しさ』という本性を押し殺してまで、私の望み(お家再興)を叶えるために『非情な王』を演じる覚悟を決めてくださったのよ!!
『僕のことだけ見ていて』……それは即ち、『僕がすべての泥を被るから、君は清らかな場所で僕の勇姿を見守っていてほしい』という、究極の献身!!
ああ……なんて……なんて……自己犠牲の塊のような、……っ、……天使なの……!!)
「はい、殿下……っ! その……その高潔な志、私、死ぬまでお供させていただきます……!!」
私は溢れ出る涙と微量の鼻血を拭い、殿下の「覚醒」という名の重い慈愛に打ち震えていた。もはや私の視界には、理想化された殿下の後光しか見えていない。
……その時、図書室の重厚な書架の影で、フェリス王女が無言で魔導水晶を構え直したのが見えた。扇で隠された彼女の口元が、わずかに引き攣っていることに、私は気づかなかった。フェリス様だけは、殿下の言葉が「演技」などではなく、「アンネを外界から切り離し、自分だけのものにする」という真実の捕食宣言であることを、その本能で悟っていたのだ。
世界は今日も、殿下の学びへの情熱……いえ、愛で輝いている。
私は殿下の腕の中で、自分でも正体のわからない「震え」を、必死に「感動」という言葉で塗りつぶし続けていたのだ。




