第12話:胸のチクチクは成長痛、あるいは
「スキャンダル回避」の特別演習
その日の午後、私は中庭の回廊で騎士アルベルトに呼び止められていた。
「おいアンネ。さっきの『あーん』の件だが、ちょっと殿下を甘やかしすぎじゃないか? 教育係なら、もう少し厳しく手綱を握れよ」
「アルベルト様、あれは給餌ではなく『ロイヤル・チャリティ』ですわ。殿下の慈悲を全身で浴びるのも、私の職務の一環なのです」
私が鉄面皮で反論していると、アルベルトが「たく、お前は……」と呆れたように私の肩に手を置いた。
その、瞬間だった。
「……アンネ? アルベルトと、何のお話をしてるの?」
背後から響いたのは、鈴の音を転がしたような、けれどどこか「冷気」を孕んだ美しい声。
振り返ると、そこには一輪の白百合のように佇むレオ殿下の姿があった。
「あ、殿下! 次の『エスコート演習』の準備を――」
「……なんだか、胸がチクチクするんだ」
私の言葉を遮り、殿下が自らの胸元をギュッと掴んで、切なげに眉を寄せた。
(――ひっ!? 殿下!? 聖なるお体に異変が!?)
「アンネがアルベルトと楽しそうに笑って、肩を触られているのを見たら……なんだか、すごく苦しくて。……僕、何か悪い病気にかかっちゃったのかな?」
殿下が、潤んだ瞳で私を見つめてくる。その表情は、今にも消えてしまいそうなほど儚く、守ってあげたい衝動をこれでもかと煽ってきた。
(な、な……今の、見た!?
殿下は……殿下は、教育係の私が他の男性と密談しているのを見て、『王宮の風紀を乱すスキャンダルの種』を、本能的な危機感として察知なさったのよ!!
『胸が苦しい』……それはつまり、主君としての責任感があまりに強すぎて、臣下の不徳な(ように見える)振る舞いに、心が悲鳴を上げていらっしゃるのだわ!
ああ……なんて……なんて誠実で、王族としての規範意識が高い天使なの……!!)
「殿下、申し訳ございません! 私の不注意な行動が、殿下の高潔な精神に負担を……!!」
私が膝をついて謝罪しようとすると、殿下がスッと私の顔を両手で包み込んだ。
ひんやりとした指先が、私の頬に触れる。
「……ねえ、アンネ。お願いがあるんだ。……これから、僕以外の男の人と、そんなに近くで話さないで」
「……殿下?」
「僕が教えたこと、僕に見せる笑顔……それは全部、僕だけのものにしておいてほしいんだ。……そうじゃないと、僕、本当に『壊れちゃいそう』だよ」
(…………っ!!)
私の脳内で、本日二度目のアンネ聖歌隊が「歓喜の歌」を絶叫し始めた。
(な、なななな……聞いた!? 全宇宙の全肯定オタクの皆様!!
殿下は……殿下は、教育の内容が外部に漏洩することを防ぐために、あえて『僕だけのもの』という強い言葉を使い、情報漏洩の禁止(守秘義務)を徹底なさったのよ!!
『壊れちゃいそう』……それは即ち、『教育の成果が他人に盗まれたら、これまでの努力が水の泡になってしまう』という、殿下の純粋すぎる熱意の裏返し!!
ああ……なんて……なんて勤勉で、成果主義な天使なの……!!)
「分かりました殿下! このアンネ・ベルリッツ、本日より殿下以外の男性とは半径三メートル以内の接近を禁じ、会話も最小限の業務連絡のみに留めますわ!!」
私は感涙にむせび、殿下の「完璧なセキュリティ意識」に改めて心酔した。
「……うん、いい子だね。……じゃあ、今すぐ僕を消毒して? アルベルトが触ったところ、全部僕の匂いで上書きしなきゃ……」
殿下が、陶酔したような甘い声で私を腕の中に引き寄せる。
(――っ!! 『匂いの上書き』!?
ああ、これは高度な『マーキング教育』! 将来、殿下が愛する女性を悪い虫から守るための、実戦的な防衛術の訓練なのね!! さすが殿下、学習意欲が青天井だわ!!)
「……おいアルベルト、見ろ。兄上のあのドヤ顔。完全にお前を視界から消し去ってるぞ」
「……ああ。しかも『消毒』とか言いながら、アンネの首筋に思いっきり顔を埋めてるな。……あれを『教育』と言い張るアンネの脳内、一度解剖したほうがいいんじゃないか?」
物陰で震えるカイル殿下たちの声も、フェリス王女が「今の『壊れちゃいそう』、魔導水晶がなくても脳裏に永久保存しましたわ!!」と叫ぶ声も、今の私には心地よい祝福の鐘の音だった。
(世界は今日も、殿下の高潔な志で満たされているわ……!!)
鼻から情熱の雫をこぼしながら、私は殿下の「上書き(ハグ)」という名の、重くて甘い教育を全身で受け止めていた。




