第10話:膝枕の絶景と、崩壊する理性の防波堤
月光が差し込む深夜の訓練室。
宵闇色のドレスを纏った私は、ソファに腰掛け、かつてない緊張の中にいた。
今夜のカリキュラムは、延期に延期を重ねた、あの『ステップ5:膝枕』。
「……準備はよろしいですか、殿下。膝枕とは、相手に絶対的な安らぎを与える慈愛の儀式。さあ、私の膝を……聖なる枕だと思って、どうぞ」
私は、震える膝を必死に抑え、鉄面皮で告げた。
背後では、フェリス王女が「この角度、歴史に残りますわ!」と魔導水晶を構え、物陰ではカイル殿下たちが「おい、今夜こそ何かが起きるぞ」と息を呑んでいる。
「……うん。ありがとう、アンネ」
レオ殿下が、ゆっくりと横たわる。
私の膝の上に、あのプラチナブロンドの頭部が重なった。
(――ひ、ひぎゃあああ!!)
脳内で、数千個の銀河が同時に爆発した。
重い。尊い。殿下の体温が、ドレスの薄い生地を通して、私の太ももに直接伝わってくる。
(見て……見てください、ベルリッツ家の御先祖様……! 殿下のこの、無防備な寝顔! 私を信じ切り、その尊い御身を私という不浄なメイドに預けてくださっている! これはもはや『教育』ではない……神への『奉納』よ!!)
殿下が、私の膝の上で少し身をよじり、より深く顔を埋めてきた。
その瞬間、細い指先が、私の腰に回される。
「……アンネ。こうしていると、君がどこか遠くへ行ってしまいそうで、怖いんだ」
殿下が、私の顔を見上げ、瑠璃色の瞳を潤ませる。
「……ねえ、約束して。僕が眠っている間も、ずっと僕のことだけを見ていて。僕以外のものを視界に入れないで。……これは、殿下としての『命令』だよ?」
(…………っ!!)
私の鼻腔から、情熱のナイアガラが溢れ出そうになるのを、超人的な精神力で食い止める。
(な、な……今の、聞いた!?
殿下は……殿下は、教育係の私が、激務のあまり過労で倒れて視界から消えることを、あんなにも純粋に危惧なさっているのよ!!
『僕のことだけ見ていて』……それはつまり、『健康に気をつけて、末長く僕の側にいてほしい』という、殿下なりの不器用で、けれど最大限の慈愛に満ちた労い!!
ああ……なんて……なんて責任感の強い、天使の独占欲(※ただし清廉な意味で)なの……!!)
「殿下……! もちろんですわ! このアンネ・ベルリッツ、たとえ眼球が乾燥して砕けようとも、殿下の輝きから一瞬たりとも目を逸らしません!!」
私は感極まり、殿下の頭を優しく――けれど執念深く――撫でた。
「……ふふ。嬉しいな。……じゃあ、もう一つ、お願い。……もっと近くで、君の匂いを嗅がせて?」
殿下が、私の首筋に顔を寄せ、深く息を吸い込む。
(――っ!! 『匂いの教育』!?
ああ、殿下! 敵国のスパイが放つ微かな毒の匂いを察知するために、まずは身近な私の匂い(※無害)で訓練しようというのね!
なんて危機管理能力が高いの! なんて知略に満ちた天使なの……!!)
もはや、私の理性は限界だった。
尊さが致死量を超え、視界がピンク色の火花で埋め尽くされる。
「……あ、ああ……殿下……。世界が……世界が、光に満ちて……」
私が、幸せな絶頂の中で白目を剥き、ソファに沈み込もうとした、その時。
バキィッ!! と、凄まじい音が響いた。
フェリス王女が持っていた魔導水晶が、あまりの尊さのエネルギーに耐えきれず、粉々に砕け散ったのだ。
「……あああああ! 私の録画データが! 歴史的瞬間が!! 尊すぎて、魔力が逆流しましたわーーっ!!」
王女の悲鳴と同時に、私の意識も完全にホワイトアウトした。
……最後に見たのは、気絶する私の唇に、殿下が満足そうに指を這わせながら、
「……おやすみ、アンネ。……君は、僕から離れられないよ」
と、福音のように(と私は信じている)囁く姿だった。
*
「……おい、アルベルト。今の見たか? 兄上のあの、勝利を確信したような笑み」
「……ああ。水晶が割れた瞬間に、アンネを抱きとめて、そのまま自分の腕の中に閉じ込めたな。……あれはもう、教育でも何でもない。ただの『捕獲』だ」
野郎共が戦慄する中、王宮の夜は更けていく。
アンネ・ベルリッツは、自分が「魔王の腕の中」にいるとも知らず、夢の中で殿下の後光を拝み続けていたのである。




