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第8話 虎ディジーザー①

 刃神大学のキャンパス。

 中心部にある小高い丘の上に位置している。


「次は久々の空きコマか」


 周囲を深い森と険しい山々に囲まれた、外界から隔絶されたような場所だ。

 講義が始まると、この丘の上は妙に静かになる。

 午前の講義が終わり、昼休みも終盤に差し掛かった時間帯。

 学生の多くはすでに午後の教室へ戻り、広大な芝生の広場や点在するベンチには、人影がほとんど残っていない。


「あれから、三週間……」


 山から吹き下ろす冷たい風だけが、青々とした木々を揺らしてゆっくりと通り抜けていく。

 犬塚秋人は、誰もいない日当たりのいいベンチに腰を下ろした。

 購買で買った紙袋から、お気に入りのフライドチキンを取り出す。

 ビリッと破ると、香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。


 ぱりっ。


 一口かじると、小気味良い音が鳴った。


「……相変わらず旨い。やっぱフラチキなんよなぁ」


 サクサクの衣の香ばしさと、ジャンクな油の匂いが口腔に広がる。

 ジュワッと溢れ出す肉汁が、脳内に幸福ホルモンを溢れさせる。


「地方国立大学の売店にしては、これだけは妙に出来がいい」


 秋人はもう一口かじりながら、丘の下の景色をのんびりと眺めた。


 眼下には、刃神市の学生街が一望できる。

 山を切り拓いて巨大な大学が出来たことで、まずは学生用の賃貸住宅が建った。

 すると、そこに寄生するように急速に街が発展した。

 古びた学生アパートがパズルのように密集し、その隙間を埋めるように、コンビニ、コインランドリー、赤提灯の安居酒屋、そして油の匂いが染み付いた小さな弁当屋が入り込んでいる。


「借金してる以上、留年は流石に勘弁だけど。何を目指すか……」


 上から見下ろすと、昼間でもどこかゴチャゴチャと雑多で、泥臭い生活の匂いが濃い街だった。


 秋人は揚げたてチキンを咀嚼しながら、片手でジーンズのポケットからスマホを取り出した。

 画面をタップして開いたのは、見慣れた動画サイトのアプリだ。

 自分のチャンネルのダッシュボードを表示させる。


 『ギアトちゃんねる』


 秋人アギトを文字っただけのチャンネル名。

 登録者数、現在18人。


「……う。増えてねぇ。世の中甘くはないかよ」


 小さく溜め息混じりに呟く。

 スクロールして表示されている動画の一つに、ふと目が止まった。


 『歯は怖いのだ』


 あの日、思いつきでアップロードした動画だ。

 絶望的に歯が痛かった日の夜、そこから始まる借金の日々。

 キャラクターの絵と声を借りて、愚痴を投稿しただけのクオリティの低い配信。

 当然、再生数はほとんど付いていない。

 何となく気になり、秋人はその動画のコメント欄を開いた。

 そして、スワイプする指がピタリと止まる。


「……あ? 増えてる?」


 コメントが増えている。

 再生数の割にコメント数が多い。

 しかも、最近のものばかりが立て続けに投稿されていた。


『大学で巨大な牛見た』

『歯医者の車来てた』

『牛に建物が壊された』


 秋人は画面を見つめたまま、ゆっくりと眉を寄せた。

 牛ディジーザーの事件だ。

 あの巨大な牛が暴れ回ったのは、昼間の大学キャンパス。

 逃げ遅れた学生もたくさんいたし、あれだけの大きな騒ぎだったのだ。


 それなのに


 朝のローカルニュースにも。

 SNSのトレンドにも。

 大学の非公式な裏掲示板にも。

 事件の痕跡は、何一つ残っていなかった。

 最初からそんな出来事は存在しなかったかのように、見事に揉み消されている。


「大学絡み……。いや、警察だって……。って、俺が考えることじゃないか」


 秋人は薄気味悪さを感じながら、無言でさらに画面をスクロールした。

 そこで別の恐怖を感じる。


『俺も歯が痛い』

『頭が割れるみたいに痛い』

『私も歯が痛い』

『その歯科医院どこ?』


 再生数よりも伸びるコメント欄。


「こ、これが伝説のバズり……かよ」


 投稿時間を確認する。

 その、すべて。

 ほんの数日前だった。


「っていうか、歯が痛い。敢えて書くことか?」


 思わず声に出して呟く。

 コメントが増えるのは嬉しい。

 だが、背中を冷たいものが這い上がるような、妙な気味の悪さもあった。


「歯医者に行けって。とか、書いとくか……? でも、バズってるし」


 ふわ、とジャンクな油の匂いが再び鼻に戻ってきた。

 秋人はスマホの画面から目を離す。

 手の中に握られたフライドチキンは、まだ半分ほど残っている。

 秋人はそれを、一口で放り込んだ。


 ぱりっ、と衣が砕ける。


 しばらくの間、何も考えずにただひたすらに噛む。

 塩分と脂質の味がはっきりしていると、不安な思考が少しだけ鈍ってくれる。


「……そもそも、さ」


 チキンを飲み込むと、ふと、ディジーザー事件のやり取りを思い出す。

 絵里奈も、透子も言う。


「犬って、なんなんだ?」


 誰もいない丘の上で、ぽつりと呟く。

 透子のしっとりとした声が頭に浮かんだ。


 ——犬を意識しなさい


「いや、犬って言われてもな……」


 次に思い出すのは、絵里奈の無慈悲な声だ。


 ——犬っぽくしてみてください


「犬っぽくって何だよ」


 秋人は、食べ終えたチキンの骨を虚無の目で見つめながら呟く。


「尻尾振るのか? 『ワン』って言うのか?」


 想像して、全力で首を振った。


「……ないな。絶対ない」


 自分は『犬塚』という名字なだけだ。

 透子に「祖先返りの犬系」と一方的に言われただけ。

 別に、今まで犬として生きてきたわけではない。


「ま、先祖は知らんけど。……いやいや、人間だっての」


 秋人は溜め息をつき、紙袋からもう一つのチキンを取り出して一口かじった。


 その時。

 ブブブブッ。

 ポケットに入れたままのスマホが、着信を告げて激しく震えた。

 画面に表示された名前に、秋人は動きを止める。


『枢木院歯科医院』


「は……?」


 秋人は少し首を傾げ、油のついた指を拭ってから通話ボタンを押した。


「もしもし」

『秋人さん、今どこですか?』


 電話の向こうから、絵里奈の切羽詰まったような声が響く。


「何処って……絵里奈?」

『まだ大学にいます?』


 秋人は丘の下の学生街を見下ろした。


「大学だけど。一番高の丘の上のベンチにいるけど」

『よかった……すぐ降りてください!』

「は?」


 秋人はチキンをもう一口かじり、のんびりと尋ねる。


『アタシの親知らずが痛むんです!』

「そりゃ大変だな。 お前も」


 秋人は他人事のように、落ち着いた声で言う。

 チャンネルのコメントと重なる。


「歯医者で診てもらえよ」


 一瞬の沈黙。

 そして、スピーカーが割れんばかりの叫び声が響いた。


『うちは歯科医院です!!』

「……あ、そうだった」

『そうだった……じゃなくて! 邪歯が疼くんです』

「え……邪歯?」


 秋人は眉をひそめ、咀嚼の手を止めた。


「ってか、絵里奈も?」


 電話の向こうが、不自然なほど静かになる。


『……え? 言ってませんでしたっけ』

「聞いてないけど? それってつまり」

『はい。アタシもトリーテッドです』


 秋人は油まみれのチキンを持ったまま、しばらくの間黙り込んだ。


「マジ……?」

『親知らず型です』

「今言う!?」

『今まで、言うタイミングなかったじゃないですか!』

「いや、絶対あっただろ! 俺の治療から、一か月は経ってるし!」


 秋人は苛立ちながらベンチから立ち上がった。

 目の前の青々とした芝生が、山風に吹かれてザワザワと揺れている。

 そこに獣がいるわけではなく、生暖かい、普通の風。


「って……、もしかして」

「はい。 邪歯絡みのことがそっちで起きてます!」

「起きてねぇよ!」

「起きてます。アタシには分かるんです!」


 だが、絵里奈は言う。

 そういえば、牛が現れた時も


「マジ……かよ。でも、前みたいにさ」


 丘から下る階段に向かって、歩き出しながら言う。


「枢木院先生と絵里奈が、往診車でパッと来るんじゃないのか? また、ひきつけ役で走らされるってこと?」


 それで十万。因みに、バイトはしていない。

 走るだけで、十万。どこかで待っていたかもしれない。


 だが、今回は違った。

 絵里奈が、電話の向こうでヒュッと息を吸い込んだ。


『……それが無理なんです。この感じ……』


 絵里奈の声が、恐怖を含んだように一段階低くなる。


「は……?」

『アタシの、完全な上位互換です!』

「いやいや。何の話してんだよ」

『ですから、アタシたちは行きません。行けません。アタシは猫です! この凄まじい痛み……気配……絶対にトラです!』


 秋人は、長い階段の途中でピタリと足を止めた。


「トラ……」


 少し考える。


「虎ってタイガーの虎?……んで、絵里奈は猫」


 さらに数秒の思考。

 秋人は、妙に納得したような声を出した。


「成程。ネコ科の上位存在か!」

「そういうことです」


 小さく、何度も頷く。


「確かに!」


 電話の向こうが、ドン引きしたように一瞬静まり返った。


『……秋人さん。それ、納得するとこじゃないです』

「そうか? ネコ科なら、言葉とか通じるんじゃないのか?」

『相手はトラですよ!? アタシ、ただの猫なんです。 言葉とか通じません! だそれに、怖くて近づけないんです!』


 秋人は溜め息をつき、また階段を下り始める。


「まぁ、猫じゃなくても近づけないな。俺も犬だし、近づけるわけないな」


 電話の向こうで、深い沈黙が落ちた。

 その沈黙のあと。

 スピーカーから聞こえる声が変わった。


『秋人』


 絵里奈の甲高い声ではない。

 低く、しっとりとした、大人の女性の落ち着いた声。

 秋人は思わず少し姿勢を正した。


「って……先生?」

『ええ。 絵里奈が動けない以上、私もいけないの」

「え? 先生も来ないんすか?」

『行かないわ。秋人だけでどうにかしてくれる?』

「いや、犬でも無理だって! そもそも武器は!?」


 秋人は抗議するように声を張る。


「麻酔とか、昨日みたいな医療用の剣とか、処置はどうすんだよ!」


 少し間が空く。

 透子が、秋人の心を見透かしたように静かに言った。


『そろそろ、感じている筈よ。貴方のその犬歯が。四本の疼きが』


 秋人は、無意識のうちに自分の口元——両側の頬に触れていた。

 確かに、穴の空いた四本の犬歯が、微かに熱を持っている。


『それに……』


 透子は、効果的な交渉のタイミングを図るように、少し考えるような間を置いた。


「それにとか! 相手はトラだぞ」

『そうね。百万円』


 秋人の足が、階段の一段目で完全に止まる。


「……え?」

『今回の成功報酬よ』


 秋人の脳内で、四百六十万という借金残高と、百万という報酬が激しく交錯する。


 そして


 秋人は、キャンパス中に響き渡るような裏返った声を上げた。


「まじで?!」

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