第7話 牛ディジーザー②
ドドドドドドド!
広大な刃神大学のキャンパスを、秋人は死に物狂いで駆け抜けていた。
市街地から遠く離れ、山を丸ごと切り拓いて作られたこの大学は、日本が誇る広さを持つ。
整備されたアスファルトの道が、地平線の彼方まで続いているように、錯覚しさえする。
その背後からは、アスファルトを砕くような凶悪な蹄の音が迫っていた。
「うわあああああ!」
山を切りに開いたから、山の神様がお怒りになった、かもしれない巨大牛。
「牛ってあんなだっけ! 車とか跳ね飛ばせたっけ?!」
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
ブルルルと鼻息がかかりそうな瞬間に、殺気。
辛うじて、横に跳ねて難を逃れる。
「これが野生の力……。って、まだなの? いつまで走らされる!」
秋人が悲鳴を上げながら、人の居ない方に走る。
勝算はあるのかと聞かれたら、間違いなく秋人は首を振る。
だが、何故走るのかと聞かれたら
「十万っ! 十万はデカい!」
そのロジックで、秋人は走る。
そして、建物の角を鋭角に曲がった直後だった。
スピードに乗りすぎて曲がりきれなかった巨大な黒牛が、そのまま赤茶色のレンガで造られた研究棟の壁面に激突する。
ズガァァァァン!
轟音と共に、分厚い壁の一部が紙細工のように無惨に吹き飛んだ。
砕けたレンガとガラスの破片が降り注ぎ、もうもうと粉塵が舞い上がる。
「……やっぱ、デカくない? デカすぎんだろ!」
雄牛の肩の高さが、目線を優に超える。
そんな牛のディジーザーは、激突も全く意に介さない。
瓦礫の山からブルッと首を振って這い出すと、再び標的である秋人を捉え、猛然と突進を開始した。
ゴォォォォ!
「え……。そもそも、これは何をやらされてる?」
一直線に向かってくる巨体が、今度はキャンパスの歩道を縁取る並木道へと突っ込んだ。
バキバキバキッ!
秋人の腰回りほどもある太い幹が、根元から次々と薙ぎ倒されていく。
青々とした枝葉が宙に舞う。
ちぎれた木屑が、秋人の背中にバラバラと降り注ぐ。
「け、警察……じゃなくて」
圧倒的な質量と暴力の塊が、あらゆる障害物を粉砕しながら距離を詰めてくる。
肺が焼け切れるほど息を吸い込み、秋人は必死に足を動かした。
ブルルルと息を吐く。
「こんなん、自衛隊クラスだろっ!」
同時に、ブルルルともう一つの音。
視界の先に一台の白い軽ワゴンが見えた。
広大なキャンパスをぐるりと囲む外周の車道を、ゆっくりと並走している。
車体の側面には、見覚えのある大きな文字がプリントされていた。
『枢木院歯科医院』
「来た! じゃなくて、なんで歯医者?!」
だが、秋人は助けを求めて全力で走る。
牛のディジーザーも速度を上げ、執拗に追ってくる。
すると、ウィーンと——
「秋人さん!」
軽ワゴンの助手席の窓が開いた。
運転席から、ピンクのナース衣を着た絵里奈が顔を出す。
「絵里奈! 助けてくれ!」
軽ワゴンも弾き飛ばされそう。
だが、逃げられるかもしれない。
涙目で叫ぶ秋人。
ドドドドと走る青年に、絵里奈は言った。
「こっち来ないでください!」
「なんでだよ!!」
「車が凹みます!」
「乗せてくれよ!」
秋人は走りながら必死に腕を振って叫ぶ。
「ってか俺、ただの学生だぞ! 今すぐ自衛隊に連絡を! いや、知らないけど!」
絵里奈はハンドルを握ったまま、一切の感情を排した真顔で言った。
「訳の分からないことを言わないでください。 それに、アタシは猫です」
「はぁ?! 何、意味わかんないこと言ってんだよっ! 獣被害は一般人じゃ、むりなんだよっ!」
その背後で、黒牛が地響きのような咆哮を上げた。
ゴォォォォ!!
熱い鼻息が背中に届きそうになり、秋人は自動車に向かって怒鳴る。
「せめて、乗せてくれって!」
絵里奈は並走しながら、どこまでも淡々と言い放つ。
「秋人は犬です。犬歯だから」
「安直か!! あと、前は剣士って言っただろ!」
秋人のツッコミを華麗にスルーし、絵里奈はカーナビの画面を横目で見た。
「ワンちゃん、そのまま直進してください」
「なんでだよ!! 車停めろよ!」
「人目があります」
絵里奈の言葉に、秋人は前方に視線を向けた。
ここは、キャンパスの中央広場だ。
突然現れた巨大な黒牛にパニックになり、逃げ遅れて騒いでいる学生たちの姿がある。
「ここで剣を出したら、明日のニュースのトップエンドです」
秋人は極限状態の中で、この状況を理解した。
「あ……」
足を止めるわけにはいかない。
秋人は広場を避け、キャンパスの外周道路へと向かって再び走る。
「なるほどぉぉぉ!!」
牛の荒々しい鼻息が、ついに背中にかかった。
「つまり、俺は!」
鋭く尖った巨大な角が、秋人の背中に迫る。
絵里奈はスピーカー越しに、トドメのように言った。
「立派な牧羊犬ですね」
「確かに犬を牛が。え? 牛を犬が……って逆! 俺が追いかけられてるからっ!」
秋人の絶叫が、広大なキャンパスに吸い込まれていった。
◇
研究棟の裏手を通る、長い外周道路。
大自然の山肌に面したこの辺りまで来ると、学生の人影は全くない。
秋人を先導していた白い軽ワゴンが、キキッとタイヤを鳴らして急停車した。
学生の影はないが、一人いる。
「あれ……」
優雅に白衣をはためかせる、白衣の女。
枢木院透子だ。
「遅いわね」
それが、死に物狂で走ってきた秋人への第一声だった。
「遅くねぇよ!! どこまで走らせるんだよ!」
秋人は息を乱しながら怒鳴る。
「先生、トランク開けました!」
「そ。 秋人、もうちょっとひきつけて」
「は?」
絵里奈は当然、無視。
透子も、秋人の文句を意に介さず、車の後部から銀色の金属ケースを取り出した。
ぱちり、と冷たい音を立ててラッチを開く。
「ひきつけるって、何?」
そこに向かってくる巨体が、山の中の木にぶつかる。
バキバキバキッ!
太い幹が、根元から薙ぎ倒される。
「こんなのどうやって!」
だが、透子が取り出したのは、目を疑うような代物だった。
全長三十センチはあろうかという、ガラス製の巨大な注射器。
先端には、恐ろしいほど太く長い針が光っている。
「麻酔。アネスシリンジよ」
透子はそれを、躊躇なく秋人に差し出した。
「これ、刺して」
「無理無理無理無理! ってか、俺がやるのかよっ!」
だが、確かに強そうではある。
そして、秋人が受け取った直後だった。
猛追してきた牛ディジーザーが突進の構えに入っていた。
ドォン!!
弾丸のような速度で突っ込んでくる。
「うおっ!」
秋人は間一髪で真横へ飛んだ。
巨体が通過した瞬間の風圧で、アスファルトの地面が爆ぜたように削れ飛ぶ。
「死ぬ死ぬ死ぬ!! これどこに刺すんだよ!」
「どこでもいいわよ」
透子は少し離れた安全圏から、落ち着き払った声で指示を出す。
「でも、一番面積が広いから、狙う場所は胴体」
「簡単に言うっ!」
空振りした牛が、器用に蹄を滑らせて向きを変える。
血走った目で秋人を捉え、再び一直線に突進してきた。
秋人は巨大な注射器を両手で構えたまま走る。
牛の目が怒り、狂って走る。
「来るなぁぁぁ!」
広大な外周道路で、絶望的な鬼ごっこが再開された。
圧倒的な脚力の差で、距離があっという間に詰まる。
「ワンちゃん、行ってくださいって! 前と同じ要領です」
「前と同じって……言われても!」
秋人は死の恐怖に急ブレーキをかけ、直角に方向を変えた。
牛の巨体は慣性の法則に逆らえず、曲がりきれずにわずかに体勢を崩す。
その隙だらけの横っ腹。
標的となる巨大な胴体が、秋人の目の前に晒された。
秋人はヤケクソで力強く踏み込んだ。
「どこでもいいだよな、おらぁ!!」
両手で握ったアネスシリンジを、とにかく突き出す。
すると、ネズミの時とは違う感触、簡単に尖った針が皮膚にめり込む。
ブスッ!プシュッ……
勢いに乗って、シリンジのピストンが押し込まれる。
人間ならば間違いなく致死量に近い麻酔薬が、巨体に一気に注入される。
直後、牛が天を仰いで絶叫した。
ゴォォォォォ!!
凄まじい声に鼓膜を揺らされ、秋人は慌てて飛び退いた。
「よし! 効け! 効け!」
だが、秋人の期待は裏切られた。
牛の足は全く止まらない。
むしろ、完全に怒り狂ったように、さらにスピードを上げて突進してくる。
「なんで効かねぇんだよ!!」
「麻酔は即効じゃないわ」
そして透子は、当然のような顔をして言った。
「血流に乗って脳に回るまで、全力で逃げて」
「今それ言う!?」
猛り狂う牛が、秋人の背後に迫る。
ドドドドドド!!
秋人は泣きそうになりながら全力で逃げた。
殺意に満ちた角が、すぐ背後まで迫っているのがわかる。
秋人は無様に横へ飛んだ。
そのままアスファルトの上をゴロゴロと転がり、どうにか致命傷を避ける。
「マジで死ぬ!! あと何秒だ!」
「そうね、あと三十秒ってところかしら」
「長ぇよ!」
立ち上がろうとした時、視界が黒く塗りつぶされる。
牛の角が大きく跳ね上がり、巨大な影と一緒に秋人を覆う。
鋭い角が、無防備な秋人へ向かって容赦なく振り下ろされる。
「死……」
その瞬間だった。
牛の荒々しい動きが、空中で不自然に止まった。
「ぬ……?」
着地した牛の巨体がぐらり。
丸太のように太い四本の足が、生まれたての小鹿のようにガクガクと震えていた。
白目を剥き、口から泡を吹いている。
ドォン……
地響きを立てて、その場に力なく崩れ落ちた。
「……効いた?」
荒い息を吐きながら呟く。
コツ、コツ、とヒールの音を立てて、透子が近づいてきた。
赤いメガネ越しの冷ややかな視線が、へたり込む秋人を見下ろす。
「……ま、合格ね」
透子は腕を組み、わずかに満足そうに言った。
「合格?」
秋人が間抜けな顔で顔を上げる。
透子は秋人を見据えた。
「約束通り……」
彼女の形の良い口元が、ほんの少しだけ弧を描く。
「ボーナスの十万は、借金から減らしておくわ」
秋人の疲労困憊の顔が、パッと明るく輝いた。
「あ……、そうだった! やった……。十万」
だが、秋人の喜びを削ぐように、
絵里奈の無慈悲な声が響いた。
「秋人さんの借金残高」
絵里奈は、事務的なトーンで一拍置く。
「現在、四百六十万です」
秋人は天を仰いで叫んだ。
「全然減ってねぇ!!」
透子はクルリと踵を返し、軽ワゴンの方へと歩き出す。
「今日の往診はこれで終わりよ」
「え?」
秋人が呆然と声を上げる。
「帰りなさい。お疲れ様」
秋人は座り込んだまま、透子の背中に向かって訴えた。
「……いや、これから俺の講義があるんだけど。一応、学生なんだけど俺」
透子は足を止めず、振り返りもしなかった。
「そうでしょうね。頑張って単位取りなさい」
ただ、それだけ言い残して車に乗り込んだ。
夕日に染まり始めた広大なキャンパスに、通報を受けたパトカーのサイレンが遠くから響いてくる。
こうして、牛ディジーザー事件はひっそりと幕を閉じた。




