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第6話 牛ディジーザー①

 刃神大学はがみだいがく

 秋人は今、そのキャンパスにいた。

 市街地から遠く離れた山を丸ごと切り拓いて作られた、広大で無機質な大学だ。

 階段講義室の巨大な窓からは、青々とした山々が見える。


 秋人は頭を抱え、震える指を一本ずつ立てていった。


「ちょっと待て……一本……百万……」


 二本目の指を立てる。


「二百万……」


 三本目。


「三百万……」


 四本目。


「四百万……」


 数え終える頃には、秋人の顔は血の気を失い、完全に青ざめていた。


 講義内容が頭に入らない。

 思い出されるのは、あの古びた歯科医院での出来事。



 それ絶対に詐欺だの

 最近の歯医者、必死過ぎだの

 100万とか草だの

 配信者の創作だろだの言われて、確かめようとした日。


 駅から少し離れた、住宅街の暗い路地の歯科医院。

 パトカーが止まっていて、警察官もいた。


 やっぱ詐欺じゃねぇか!!と駆け出した。


 その筈だった。


「……四百万」

「ええ」


 透子は悪びれる様子もなく、平然と首を縦に振る。


「保険は利かないし、自費ですからね」


 絵里奈は気楽に言う。


「エレベーターって、 どうやって捨てます?」

「医療廃棄物ね。 触らないように」

「エレベーターってその剣みたいなやつ?」


 透子は、先ほど床に突き立てたぐにゃりと曲がった剣——抜歯用の器具である『エレベーター』の巨大版を、硬い容器の中に詰めた。


 秋人はソレを横に、再び指を立て、虚空を見つめながら計算を始める。


「百万の三割……三十万……」


 ぶつぶつと亡霊のように呟く。

 顔の筋肉が硬直し、絶望の色が濃くなった。


「だいたい五百万くらいです」


 絵里奈がにっこりと無慈悲な笑顔で頷いた。

 秋人は天井を仰ぎ、魂の底から叫ぶ。


「無理だろっ!」


 だが、叫んだ直後、秋人は急にピタリと黙り込んだ。

 無意識に舌先で、自分の口内を確かめるように触れる。


「待て、今からでも歯を抜けば……」


 歯の真ん中には削られた深い穴が空いている。

 だが、歯そのものはしっかりと歯茎に残っている。


「抜くことは出来ないですよ」

「なんで?!」


 絵里奈がやれやれといった様子で肩を竦める。


「邪歯だからです! 邪歯の神経をいじったんですよ。放っておけば、発症しちゃってましたよ。 で……」

「間違いなく、死んでいた。 だから、無理やり抜こうなんて考えないこと、ね」


 秋人は弾かれたように顔を上げた。


「無理やり……いやいや、自分で抜くとか無理だし」

「絶対に抜かないでくださいね。他の歯医者にも言っちゃダメです」


 後から考えると、在り得ない話。

 ネットで、情弱とでも言われそうなことだ。

 だが、透子と絵里奈の、さもありなんという顔に、秋人はのまれていた。


「マイナンバーカードも抑えられてるし、分かったって。……っていうか、どゆこと? もう、腹をくくったし、教えてくれてもいいだろ」


 そして、あっという間に受け入れた。


 透子は無言で一枚のレントゲンフィルムを持ち上げる。

 絵里奈も秋人の横から、覗き込む。


 女医は、そのフィルムの一部をカツカツと突く。


「ここの黒い部分。これは、副鼻腔。上顎洞じょうがくどうよ」

「ふく……びくう。鼻腔?……鼻の孔?」


 秋人は首を傾げた。

 己の顔を横と前と横に断層したX線写真とにらめっこをする。

 自分の体なのに、名称を知らない。

 雰囲気しか知らないから、見方が分からない。


「頭蓋骨には穴があるの。いろんな説があるわ。頭を軽くするためだとか、声を響かせるためだとか」


 素人が白目を剥きそうになるのを他所に、

 透子は淡々と、講義をするように告げる。


「でも上顎洞の、本当の役割は未だに分かってないの」

「上顎洞……上顎洞なんて、初めて聞いたけど。成程、人体って不思議なんだな……」


 秋人は感心したように呟き、口の中で舌を動かして、軽く歯を噛み合わせてみた。

 歯の裏側を下でなぞった瞬間、ある矛盾に気づく。


「だとしても! 下は上顎洞に関係ないだろっ——痛っ!」


 勢いよくツッコミを入れた途端、下の歯の穴に響いて顔をしかめた。


「あー! 確かに! 不思議ですね、先生!」


 絵里奈がぱっと顔を上げ、わざとらしく手を叩く。


「不思議ですね、じゃねぇよ! だいたい。レントゲンと難しい言葉で、それっぽいこと言ってるだけだろ!」


 骨も違う。素人でも分かる。

 秋人が吠えるが、透子は涼しい顔でレントゲンを指でなぞった。


「ここ。黒い線のように見えるでしょ」

「えー? あぁ、なんかあるけど」

「——下歯槽管かしそうかん

「かしそう……かん? また、専門用語」


 下顎の骨の中を通る太い管を、L字にスーッとなぞってみせる。

 切りそろえられた爪先を、秋人の鈍色の瞳が追う。

 その黒い筋はいったん途切れて、下あごがYの字を描く。

 少し上方……


「そしてここの空隙に繋がる。——翼突下顎隙よくとつかがくげき

「よくと……つ」

「あれ。翼口蓋窩じゃなくて」


 透子は絵里奈へと、視線を向けた。


「それはこっち。絵里奈、あなた解剖学は苦手だったわね」


 絵里奈はバツが悪そうに、小さく肩をすくめる。

 透子は再び秋人を見て、理路整然と言い放った。


「上顎洞の後方、そっちが翼口蓋窩。そこからも神経が出ている。それらが交わるのが——」


 女の爪はフィルムの上縁。そこに何があるのか分からない場所へ。

 だが、彼女は不敵な笑みを浮かべて、こう言った。


「人間の骨でもっとも美しいと言われる、蝶形骨。そこで交錯するのよ」

「……はい?」

「繋がっている。そもそも、鰓弓さいきゅう単位だと、同じ由来よ」

「いやっ!ぜんっぜん分からないからっ!」

「アタシも!」

「だよな!……って、お前は分かれよ!」

「解剖苦手って言ったばかりですよ!」


 秋人の悲痛な叫びが、深夜の診療室に虚しく響き渡った。



 見渡す限りの大自然が広がっていた。

 赤茶色のレンガ造りの建物が点在している。

 だが、土地が広すぎるせいでどこか殺風景だ。

 緑は多いものの、学生の数に対して空間が余りすぎている。

 外界から完全に隔離されたような、独特の寂寥感が漂っていた。


 その中にある、ひときわ巨大な講義室。


「——ダーウィンの進化論において、自然選択説は……」


 年老いた教授の単調な声が、遠くの子守唄のように流れている。

 秋人は、冷たい長机に力なく突っ伏していた。

 ノートの隅には、講義内容ではなく、ある数字が繰り返し書き殴られている。


 4,700,000


 秋人は地の底から響くような声で唸った。


「……ほぼ五百万。しがない地方国立の大学生だぞ……。こちとら庶民ぞ」


 手元のスマホで、ぎっしりと必修科目が詰まった履修表を見る。


「バイトのために空きコマ削って……無駄に単位を取って……」


 絶望のあまり、机に額を何度もぶつけた。


 ゴン、ゴン。


 ——その時だった。


 ドンッ!!


「は……? 俺の頭突き……じゃぁなくて?!」


 地震のような衝撃と共に、教室の巨大な窓ガラスが激しく揺れた。

 退屈そうにしていた学生たちが、一斉にざわめき始める。


「……牛だ」


 窓際の席に座っていた学生が、間の抜けた声を上げた。

 秋人も弾かれたように顔を上げ、窓の外を見る。


「牛? やばいだろ」


 一瞬だけ、畜産科かと考える。

 だが、アレは暴走していた。

 遠くの広場で、真っ黒な巨大な牛のような生物が狂ったように暴れ回っていた。

 

 バキィッ!


 太い街路樹が、紙くずのようにへし折られる。


 そして、漸く気が付く。サイズがおかしい。


 秋人は思わずガタッと立ち上がった。


「ダーウィンの進化だ! 牛が取捨選択を、急激な進化をしたんだ!!」


 隣の席の友人が、すかさず的確なツッコミを入れる。


「いや違うでしょ! 進化そんな速くないから!」


 そのツッコミの時。


 ブブブブッ。


 ジーンズのポケットに入れたスマホが、震えるように着信を告げた。

 画面に表示された文字を見て、秋人の顔が引きつる。


『古川絵里奈』


 本来ならマナー違反だが、教室は騒然としていた。

 幾人もがスマホを構える。

 秋人は周囲の目を気にせず、講義室を飛び出しながら通話ボタンを押した。


「もしもし……?」

『秋人さん、聞こえますかぁ?』


 電話の向こうから、緊迫感のない絵里奈の声が響く。

 秋人は理学部の入っている棟の入り口を飛び出した。


 そして、広場へ向かって叫んだ。


「聞こえるけど、こっちはそれどころじゃ」

『そこにバカでかい牛がいるでしょ!!』

「は……い? なんで、知ってるの!?」


 その瞬間、暴れ狂う黒牛の巨大な角が、秋人のすぐ横を風を切って掠めた。

 凄まじい風圧と衝撃で、秋人の体がバランスを崩してよろける。


『今どこ?』

「理学部前!」

『よし』


 絵里奈は短く答え、一拍置いた。


『ボーナス十万』


 一拍後の声は、透子のソレに変わっていた。

 ということに直ぐには気付かず、

 いや、少しして気付いたからこそ


「やります!!」

『何をやるか分かっているの?』


 四百七十万の借金を背負った大学生に、迷う余地などなかった。

 食い気味の即答だった。


「先生が来てくれるんすよね。で、俺が囮やる!!」

『そ。察しが良いわね。絵里奈』

『はい。 それじゃあ秋人さん。アタシたちが行くまで、死なないでください』

「了解……って、死ぬ? いや、死なないよ?!」


 プツッ、と無情にも通話が切れる音が響いた。

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