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第5話 鼠ディジーザー③

 秋人は身を捩った。

 汗が浮き出てシーツに染み込む。


「……ばけもの……って!……あぁ、何だ夢か」


 目を開けた瞬間、ツンとした独特の匂いが鼻の粘膜を刺した。


「え……」


 消毒液と、クローブの混じったような歯科医院特有の薬品臭だ。

 秋人は重い瞼を上げ、ゆっくりと瞬きをする。

 ぼやけた視界に映ったのは、見慣れない染みのある白の天井だった。

 青白い蛍光灯の光が、チカチカと網膜を刺激する。

 ここは知っている。見覚えがある天井。


 まだ、大丈夫。


 昨日、自分が絶望と共に座らされた場所だ。


「なんだ……。治療してそのまま——」


 ここは枢木院歯科医院の、あの古びた診療室だった。

 後頭部が鉛のように重く、ズキズキと痛む。


「いっ……」


 壁に叩きつけられた、ような、衝撃が体に粘り着いている。

 呻き声を上げて体を起こそうとして、秋人はピタリと動きを止めた。


「寝違えたんだよな。寝違えたと言ってくれ、俺の体」


 視界の端の、黄ばんだ古い診療台。

 そこに、誰かが寝かされている。

 体格からして、成人男性のようだ。


「そりゃ、そうか。病院なんだし。寝てる……のか」


 男の太い腕が、診療台の端から力なく滑り落ちている。

 だらりと床の方へ向かって垂れる。

 目覚めたら、間違いなく右肩の痛みを覚えるだろう。


「俺みたいに寝てるのか? でもあの二人、何を」


 その診療台を挟むようにして、二人の女性が立っている。

 白衣の女、院長の枢木院透子。

 ピンク衣の衛生士の古川絵里奈だ。


 秋人は自分が目を覚ましたことに、まだ二人が気づいていないことを悟る。

 そのまま息を潜め、薄目で様子を窺った。

 静かな室内に、二人の会話が聞こえてくる。

 絵里奈が手元のクリップボードに挟まれたメモを見ながら言った。


「近隣の住民の証言も取れてます。昨日の夜中、男の声で『痛い』って何度も連呼していたそうです」


 透子がパチンと手袋をはめた。

 その手で患者の体、顎に触れる。


「ほんと、迷惑な話ね」


 呆れたように、小さく息を吐いた。


「完全に発症するまで放っておくなんて、危機感が足りないわね」

「痛くならないと、来ない人って一定数いますし、それは」


 絵里奈が苦笑しながら言葉を返す。


「そういえば、透子先生。あの巨大化医療器具、やっぱり無理がありましたよ」

「そうかしら。今風と言ってもらいたいわね」


 透子は傍らのカルテをペラペラとめくりながら、そう答えた。

 絵里奈は診療台で、寝ている男の口元を、興味深そうに覗き込んだ。


「むー、そういうものですかー?……っていうかですね」


 絵里奈の眉が寄る。


「先生、この男の歯は……」


 透子はカルテから目を離さず、さらりと言い放つ。


「そう。 絵里奈が診た通り、側切歯そくせっし。一番、邪歯に対する抵抗力のない歯よ」


 そして、やれやれといった様子で肩をすくめた。


「ですよねー」

「ゾッとするわ。もしもあれが、中切歯ちゅうせっしであれば」


 透子は細く息を吐いた。


「あの程度の被害じゃすまなかった。それに、ネズミになったとしても、そのサイズでは済まなかったはずよ」


 透子はパタンと音を立ててカルテを閉じた。

 絵里奈が頷き、彼女も肩をすくめた。


「ですよ。 アタシ、ダメかと思いましたし。いきなり、放り込むとかぁ」

「報告から側切歯だと予想は出来ていたわ。それにまあ、うちの新人剣士クンには」


 カルテをスッと、秋人が寝ているベッドの方へ突き出した。

 やべ、と寝たふりの理由を考える間もなく、秋人はさっと目を瞑る。


「──初陣として、これくらいはやってもらわないとね」

「説明不足すぎですよー。アタシもどこまで話していいか分からないですし」


 ピンク色の胸から大きく息が吐きだされる。


「死んでたかもしれませんよ」

「その時はその時でしょう?」


 秋人の目が開く。

 思わずパチパチと瞬きをした。


「……は?」


 間の抜けた声が漏れてしまう。

 その音に反応し、二人が同時に寝ているフリの秋人へと振り向いた。

 絵里奈がいつものように、にこっと可愛らしい笑顔を向ける。


 あんな会話の後に


「あ、秋人さん。おはようございます、起きました?」


 よく言う、なんて思いながら顔を顰める。


 だが、秋人の視線は絵里奈の顔を通り越していた。

 視界が開けたことで、異物に目が行く。

 診療台の上で寝ている、見知らぬ男に釘付けになった。


「夢じゃない……。って、あの人は患者さん?」


 歯の痛みから駆け込んで、ここまでが夢の可能性があった気がしていた。

 でも、今の会話で何となく分かった。

 極度の緊張で喉がカラカラに乾いていく。


「患者ね。 発症したのよ」

「まさか、あのネズミ……?」


 現実離れした思考に、言葉がうまくまとまらない。

 絵里奈はカルテをとり、それを胸に抱き、あっけらかんと言う。


「ええ、元に戻りましたよ」

「え?」


 秋人は信じられない思いで男の腕を凝視する。

 どこからどう見ても、ただの二十代の人間だ。

 灰色の毛もなければ、恐ろしい牙もない。

 だが、その首元や服には、あの現場で見たのと同じドス黒い血の跡がべっとりと残っていた。


 秋人の背筋を、氷を滑らせたような冷たい悪寒が駆け抜けた。


「……まさか、俺が刺したのって」


 透子が机の上に無造作に手をついた。

 そして、大人びた余裕のある足取りで秋人へ近づいてくる。


「そうよ。あなたが剣を突き立てた相手」


 鳶色の冷ややかな瞳が秋人を射抜く。


「今回の罹患者、ディジーザーよ」

「……は?」


 秋人はベッドの上で石のように固まった。


 巨大な化け物を退治したと思ったら、実は人間を刺していた。

 常識の範疇を超えすぎていて、全く理解が追いつかない。


 その時だった。


 ガンッ!!


 秋人の目の前の床に、重い金属音が響いた。


「ひっ!」


 悲鳴を上げ、思わずベッドの奥へと飛び退く。


「犬塚秋人さん?」


 透子が冷徹な無表情のまま、床に一本の剣を突き立てている。

 それは昨日、あの凄惨な現場で秋人が無理やり握らされた剣。


 剣と呼んでいるのは80%で、持つ部分は太くて、剣とは呼べない。

 しかも、その80%も灯りの下で見ると、なんか違う。


「は……はい」


 そして、鈍く光るその厚い刃は、見るも無惨に大きく歪んでいた。

 怪物の硬い頭蓋骨にでも阻まれたのか、あの後に何かあったのか。

 ぐにゃりと不自然に曲がっていた。

 透子がその無惨な剣を冷たく見下ろして言った。


「初戦だから仕方がないとはいえ……これ」


 彼女はコンコンと、綺麗な指先で曲がった刃を軽く叩く。


「試作品、オーダーメイドだから、結構高いのよ?」


 秋人は目を丸くして瞬きをした。


「へ……? いやいや」


 透子はこともなげに、あっさりと言い放つ。


「そうね。大体、百万ってとこかしら」

「ちょ……待って。なんで金額の話が出る……のか」


 秋人の顔から、サッと血の気が引いていくのがわかった。

 ベッドの上でジタバタと思わず後退る。


「今の犬塚秋人さんは、患者様ではないわよね」

「だとしても! 俺のせいじゃないだろ! 勝手に渡されただけだし……!」


 透子は呆れたように小さく肩をすくめた。

 絵里奈は横で「やれやれ」とでも言いたげな溜め息を吐いている。


「枢木院歯科医院の臨時スタッフが、器材を破損させたのよ」

「だだだだだ、だって! 初勤務で」


 そして、透子が宥めるように、しっとりとした声で言った。


「大丈夫よ。安心しなさい。これはちゃんと保険が利くから」

「は……」


 秋人は一瞬、ポカンと口を開けて固まった。


「……保険?」


 意味を理解した次の瞬間。

 秋人はベッドから身を乗り出して叫んでいた。


「って何!! 俺の歯は保険効かなかったんだけど!」

「当然でしょう。契約に乗っているモノには保険が効くの。 三割負担で済むんだから、感謝してほしいくらいね」


 透子は形の良い唇に薄く笑みを浮かべた。

 そして、とどめを刺すように言った。


「というわけで、三十万上乗せね。給料から天引きしておくわ」


 秋人の顔が、絶望で激しく引きつった。


「しかも、保険だから消費税はないんです。三十万円ピッタリ追加です」

「あー、そういえば、消費税払ったことないも……って、あれ? 一応、俺の働きだよな」


 夢ではないらしいから、借金は440万円ある。

 そして、さっきので──


「まだ、研修生でしょ。 ウチはそういうのに給料を出さない、古き良き歯科医院なの」


 借金は470万円。


「理不尽か!! 古き良くねぇ、ブラッククリニックじゃねぇか!!」

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