第4話 鼠ディジーザー②
古びた軽自動車には枢木院歯科医院のロゴが入っていた。
先着していたパトカーの後ろに、静かに停車する。
深夜の郊外に広がる、閑静な住宅地。
無音のまま回転する赤色灯の光が、周囲の家々をゆっくりと
そして、不気味に染め上げている。
「あの……訪問治療って……」
現場となったのは、刃神市の駅側の大学からは離れた場所。
とはいえ、学園都市周辺には企業も誘致され、大きな街へと成長の途中だ。
単身者から若いカップルに人気のあるメゾネットタイプの賃貸住宅だってある。
二人で住むにはちょうどいい、こぢんまりとしたお洒落な外観の家だ。
だが、その玄関の前には物々しい黄色い規制線が張られていた。
秋人は助手席から降りると、異様な空気に呑まれて思わず呟いた。
「……穏やかじゃない。患者さんも運が悪いって言うか、俺も運が悪いって言うか」
「殺人ですからね」
絵里奈はトランクから往診用の鞄を取り出しながら、あっさりと答えた。
「え?」
秋人は間の抜けた声を出す。
すると、玄関を警備していた警察官が二人に気づいて近づいてきた。
「あ、枢木院さんのところですね。ご苦労様です」
「はい、遅くなりました」
「は?」
絵里奈は慣れた様子で軽く会釈する。
助手席の男の間抜けな反応を無視して、彼女は降りるように指し図した。
「歯の治療……だよな」
そして、壁役の警官の包囲を、呆気なく通過していく。
「中、お願いします。ホトケさんはリビングです」
警察官は疑う様子もなく、規制線を持ち上げて二人を通した。
秋人は完全に混乱していた。
「なんで歯医者が殺人現場に。あれか? 殺人現場の隣に患者が……」
「ぼやぼやしていないで、秋人さんも来てください」
秋人の期待、いや常識も虚しく、血の香りが漂い始める。
靴にビニールカバーをつけ、玄関を抜ける。
そんな筈ない、と妙に静まり返った家の中で手を握りしめる。
今のところは、血の臭い以外は普通の家。
だが、奥のリビングに入った瞬間、秋人の足は床に縫い付けられたように止まった。
フローリングの床のど真ん中に、女性が仰向けに倒れている。
まだ二十代前半だろうか、若い女性だった。
「っ!」
そして——
彼女の細い喉元が、肉ごと大きく抉り取られ、無惨に裂けていた。
おびただしい量の血が、暗い色の床に黒々と広がっている。
強烈な血の匂いに、秋人の顔がひきつった。
「……野犬、ですか?」
震える声で尋ねる秋人に、案内してきた警察官が首を振った。
「それが違うんですよ。どう見ても獣の仕業じゃない」
絵里奈は迷うことなく遺体のそばに歩み寄り、しゃがみ込んだ。
「秋人さん」
「え?」
「ライト。スマホのでいいから照らしてください」
秋人は慌ててポケットからスマホを取り出す。
手元を狂わせそうになりながらもライトを点灯し、恐る恐る遺体の首元へ光を向けた。
照らされた首元、赤い液体はまだ熱を帯びていて、秋人の顔を蒼褪めさせる。
だが、絵里奈は眉一つ動かさず、至近距離からその凄惨な傷口を覗く。
「……」
数秒の重い沈黙。
やがて、絵里奈は静かに口を開いた。
「前歯ですね」
「前歯?」
警察官が訝しげに眉をひそめる。
「はい」
絵里奈は確信を持って頷いた。
「肉を引き裂くような、尖った犬歯の痕じゃありません」
歯科衛生士が警察官に伝える。
ある意味での専門用語は
「正確には、側切歯です」
「前歯ではなく?」
「前歯の種類です。典型的な側切歯で、力任せに噛みちぎられています」
秋人はスマホを持ったまま、呆然とした。
ピンクのナース衣を着た、可愛らしい歯科衛生士だ。
ナース衣であれば、在り得るかもしれないが、歯の専門家。
だが、彼女がその異様なほど冷静な言葉を聞き、警察官は何かを理解したように頷いた。
そして「あとは専門家にお任せします」とだけ残し、足早にリビングから退室していった。
「……え? 専門家って、ししししし、死体だぞ……」
「つまり」
混乱で言葉が出ない秋人をよそに、絵里奈が立ち上がりながら静かに言う。
「この傷は、人間の歯型だということです」
「……はい?」
やはり、異世界! 秋人がそう思った瞬間だった。
部屋の空気が、さらに一段階重く、冷たくなった気がした。
そして、
絵里奈の顔が、わずかに苦痛に歪んだ。
彼女の細い手が、自身の耳の下——顎の関節のあたりに触れる。
奥歯が鈍く疼いているようだった。
「大丈夫ですか? 顔色、悪いですけど」
絵里奈は小さく首を振った。
「平気です。それより……」
絵里奈は顎を押さえたまま、鋭い視線でリビングの周囲、そして天井を見渡した。
「まだ血が乾いていない。新しい傷です」
秋人の喉がゴクリと鳴る。
「それに……」
絵里奈はゆっくりと体勢を低くした。
専門家しかいない、静まり返った家。
警察官は外へ出てしまい、ここには誰もいない……はずの空間。
それでも、絵里奈は張り詰めた声で言った。
「まだ、います。——すぐ近くにいます」
その瞬間。
頭上の二階から、異質な音が響いた。
コツ。コツ。
コツ。
コツ。コツ。
コツ。
フローリングを硬い爪で叩くような音だった。
秋人の顔が蒼褪めて、弾かれたように顔を上げる。
「へ……なに?」
すると、また音がした。
ガリ。ガリ、ガリ。
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ!
「秋人さん……」
絵里奈が俯いた。
何かが、来る。
硬いものを、執拗に齧るような不気味な音が来る。
「仕事です」
すると、絵里奈は顔を上げた。
慌てることなく、持参した往診用の大きな鞄を開いた。
「な、なんか分からないけど、そ、それじゃ、俺——」
秋人はそれを横目で見ながら安堵しかける。
絵里奈は、落ち着いているように見えた。
きっと、専門家だから大丈夫。
強力な麻酔銃とか、スタンガンみたいな護身用の器具か
だが、秋人の予想は全然違った。
絵里奈が鞄の中から引き抜いたのは——。
ステンレスのように鈍く光る、刃渡り五十センチほどの『剣』に見えた。
「……は?」
「持ってください」
「いやいやいやいや!」
そして、秋人の思考が完全に固まる。
絵里奈が、その剣の柄を、迷うことなく秋人の目の前に差し出したのだ。
「剣だと思ってください!」
「思ってって、なんだよ!」
ただの患者だ。
秋人は全力で後ずさる。
「いいから早く」
「いや、早くって言われても——」
ドン!!
遂には隣から、壁に衝撃が走った。
ガリ、ガリ、ガリッ。
直ぐそこで、削り取っている。
「な、なんかいますよ!? 絶対人間じゃない音がしてますって!」
「はい。……います」
絵里奈はどこまでも平然として、逃げようとする秋人の手を強引に取った。
そこで今度こそ、無理やり剣の冷たい柄を握らせた。
「ちょっ、マジでなんなんですか!」
ここで、明かされる。
パニックに陥る秋人の口元を、長い睫毛が瞬く。
綺麗な指先が、秋人の頬をピシッと指さし、一拍置いた。
「あなたっ!その歯、昨日治療しましたよね」
「……? はい、四本全部、穴が空いてますけど」
秋人がここに来た理由。それは
「だから、剣士です」
「え?」
「犬歯を処置! 犬歯のトリーテッドです。剣士です」
「駄洒落かよっ!」
あまりの理不尽な駄洒落に、秋人は頭を抱えたくなった。
「はい、剣士です。頑張ってください」
その瞬間だった。
ドンッ!!
という爆音と共に、壁が木っ端微塵に吹き飛んだ。
破片がバラバラとリビングに降り注ぐ。
「ひっ……」
そして、暗闇の階段から飛び出してきたのは——
人の体重くらいありそうな、巨大な怪物だった。
「猪……?」
全身を覆う硬そうな灰色の毛。
血走ったように赤く爛々と光る双眸。
そして目を引くのは、口元から突き出した異様に長く、黄色く変色した二本の前歯。
猪のようだが、よく見るとげっ歯類。
「うっ——」
秋人の悲鳴が終わるよりも早く。
巨大なネズミの怪物が、弾丸のような速度で突っ込んできた。
ドゴッ!!
「ぐあっ!」
巨体の体当たりをモロに食らい、秋人は吹き飛ばされる。
受け身を取ることもなく、リビングの壁に激しく叩きつけられた。
「ってぇ……」
手からすっぽ抜けた剣が、カラカラと音を立てる。
更に、怪物が秋人に向き直り、巨大な前歯をギリギリと擦り合わせる。
カチ。
カチ。
カチ。
刃物を研ぐような音に、秋人の喉がヒュッと引きつる。
「夢……だよな。俺、死ぬのか……?」
怪物が後脚で床を強く蹴った。
短い距離を一気に詰める、死の突進。
「うわあああああっ!」
「秋人さん! それを使ってって!」
秋人は半狂乱になりながら、床を転がるように逃げる。
そこに絵里奈は、もう一度、剣のようなものを投げ入れた。
「そんなこと言われてもぉおおお!」
剣道の経験もない。
まともな握り方なんて分かるはずもない。
いや、そもそも
「これ、剣じゃない!」
だが、無我夢中で、両手で大きな何かを掴んだ。
目の前には、怪物の大きく開かれた口腔。
凄まじい勢いの突進に、秋人の鈍色の瞳が見開かれた。
ズブッ。
鈍く、しかし確かな肉を裂く感触。
「ナイスです!」
デタラメに突き出した剣が、怪物の口の中に真っ直ぐに突き刺さっていた。
勢い余った怪物の巨体は、自らの突進のエネルギーで剣を最奥まで飲み込む。
頭蓋骨の裏側まで貫通したのか、怪物の動きがピタリと止まった。
「え……」
数秒の、信じられないほどの静寂。
秋人が震える声を出した直後。
「偶然にしか見えませんでしたけど、やるじゃないですか」
背後から、絵里奈の抑揚のない、称賛の声がやってきた。
ドサァッ、と重苦しい音を立てて、巨体が床に崩れ落ちる。
「やる……って……」
血まみれになった剣を握りしめたまま、腰を抜かしたように座り込んでいた。
自分が一体何をしたのか、脳が状況を処理しきれない。
どす黒い血が、被害者の女性の血と混ざり合いながらフローリングに広がっていく。
秋人の両手は、心臓の鼓動に合わせて、ガタガタと激しく震えていた。
「……無理」
限界を迎えた精神が、その一言が漏れ出た瞬間。
秋人の視界がぐらりと大きく傾いた。
張り詰めていた糸がプツリと切れ、犬塚秋人は、そのまま深い暗闇の中へと再び気を失った。
「秋人さ……」




