第3話 鼠ディジーザー①
「でぃじ……?」
「絵里奈。開口器。体を押さえて」
透子の声色が一段階低くなる。
「へ? でぃじ……って」
男が間抜けな声を出す。
そして、止まっていた時間が急激に動き出した。
ガコンッ、と乱暴な音を立てて診療チェアが倒される。
絵里奈は迷わず男の腕にのしかかった。
逃げられないよう力強く押さえつける。
「ちょ、麻酔!」
男が絶叫する。
「絵里奈」
「分かってます!」
絵里奈は有無を言わさず、開口器を男の口にねじ込む。
「あうい! あううぃ!」
男が必死に叫ぶが、開口器のせいで言葉にならない。
キュィィィィィィン。
恐怖と痛みの予感に、男の身体がビクンと硬直する。
同時にバキュームの吸引音が室内に響いた。
ゴォォォォォ……。
「動かない! 男でしょ!」
絵里奈が容赦なく押さえつける。
タービンの音は計四回鳴り響いた。
たったの五分。
あっという間に恐ろしい処置は終わった。
「はい、終わり」
透子がタービンを置き、無機質に告げる。
「麻酔打ってって! 拷問かよっ!」
解放された男が涙目で怒鳴り散らした。
だがここで、彼の身体に決定的な変化が起きた。
「……あれ? 痛くない。頭も軽い……。こめかみも、顎も……」
男は自分の口元をペタペタと触る。
そして信じられないというように呆然としていた。
その間に絵里奈はカルテを手に取る。
すぐさま事務的な作業に移った。
「処置は終わりよ」
透子が手袋を外し、事務的に告げる。
そのまま奥にあるレセプトコンピュータへ戻っていった。
次は受付も任されている絵里奈の仕事だった。
「治療費ですが」
男が痛みから解放され、安堵の顔を上げる。
それを確認し、絵里奈はにっこりと笑って続けて告げた。
「百万円になります」
男の眼球が零れ落ちそうなほど見開かれた。
「ひゃ? ひゃ……」
男は逡巡し、一拍置いた。
そしてなぜか納得した顔になる。
財布から一万円札を一枚取り出して差し出した。
「はい。百万円」
男の冗談めかしたにやけ顔。
それと絵里奈の氷のように鋭い視線がぶつかる。
「そんな田舎のお婆ちゃんみたいなことしないです。百万と言ったら百万。それをあと九十九枚ください」
絵里奈は真顔で一万円札を突き返した。
「へ……?」
「自費治療なので。医療費は高いんですよ? あ……間違えました」
男は完全に固まっている。
絵里奈は指を折りながら計算し直した。
一、二、三、四。
「四本の処置なんで、全部で四百万でした。自費治療は消費税もつきますので四百四十万円です」
「え……そっち! この流れで増えるとかある!?」
男が裏返った声で叫ぶ。
「四百四十万円です。現金ですか? カードですか? 一括ですか? 分割ですか?」
絵里奈は立て板に水のごとく問い詰める。
激しい痛みが完全に引いたにもかかわらずだ。
男の顔色は死人のように青くなっていた。
そして、白目を剥いて診療台に倒れ伏した。
「ま、そうなるよね……。先生、どうしますー?」
絵里奈は気絶した男を見下ろして呑気に尋ねた。
「彼の選択よ。理解してたか分からないけど、尊重しましょう。あのまま死なれても困るし。トリーテッドとして、使えそうだしね」
透子はモニターから目を離さずに答えた。
「ですよねぇ」
◇
犬塚秋人の部屋は、典型的な一人暮らしの大学生の部屋だった。
間取りはよくある六畳のワンルーム。
壁際には不釣り合いなほど立派なデスクトップPCが鎮座している。
床には無造作に投げ出されたコンビニ袋。
その横には空のペットボトルがいくつも転がっていた。
「っし……」
モニターの青白い光に照らされながら、秋人は腕を組んでいた。
画面の中では、小さなキャラクターがぴょこぴょこと小刻みに動いている。
さやえんどうのような頭をした、奇妙なアバターだ。
秋人が自作した、配信用キャラクターである。
名前は——エダマーメン。
昨日アップロードしたばかりの動画が再生される。
「昨日、真夜中に歯が痛かったのだ」
合成音声でエダマーメンが語る。
「どこの歯医者も開いてないのだ」
「でも、見つけたのだ」
「真夜中でもやってる歯医者なのだ」
動画の中で、少しの間が空く。
「でも……」
「保険が利かない歯だったのだ」
秋人はそこで一度、再生を止めた。
「……」
少しだけ考え込み、ため息をついてからまた再生ボタンを押す。
「治療費は百万円なのだ。しかも消費税までかかるのだ」
秋人は無意識に指で数えていた。
左上の犬歯、右上の犬歯、そして左下、右下。
上下左右で、合計四本。
動画の中のエダマーメンが、大げさに震え始める。
「四本だから……約四百四十万円なのだ」
ガタガタと震えるエフェクトが重なる。
「ガクブルなのだ」
画面の中のエダマーメンでさえ、一拍おくような演出を入れていた。
「しかも最初にマイナンバーカードを登録したから、逃げることもできないのだ」
秋人はマウスをクリックし、再び再生を止めた。
「流石に言い過ぎ……リアルすぎるかな」
チェアの背もたれに深くもたれかかる。
無意識のうちに、舌先で口内の歯を触っていた。
左の犬歯があった場所。
右の犬歯があった場所。
上下、合わせて四本の歯。
そこには、ぽっかりと不自然な穴が開いている。
舌触りだけなら、今まさに進行中の巨大な虫歯のようだ。
だが——
痛みだけが、完全に消え去っていた。
あんなに死ぬほど痛かったのが嘘みたいだ。
頭の芯までクリアになり、体も羽のように軽い。
「あの日から調子がいい。マジで治ってんだよな……」
その時だった。
ピコン、と軽快な通知音が鳴る。
コメント通知だ。
秋人は慌ててマウスを動かす。
投稿したばかりの動画に、新しいコメントがついていた。
期待と不安を抱えながらクリックする。
画面の右側にコメント欄が開いた。
『それ絶対に詐欺』
『最近の歯医者、必死過ぎ』
『100万とか草』
『配信者の創作だろ』
秋人は舌打ちをした。
「……は?」
苛立ちながらホイールを回し、スクロールする。
その時、一つのコメントでピタリと指が止まった。
『それって頭が割れるような痛みですか?』
秋人は目を細め、その一行を読み直す。
『私の彼氏も同じことを言ってました』
「……」
秋人は少しだけ考える。
だが、その間にも心ないコメントがすぐ下に流れてきた。
『この配信者も必死過ぎ』
『酢飯』
『自演乙』
秋人は勢いよく椅子から立ち上がった。
「はぁ!?」
画面の向こうの見えない相手を睨みつける。
「こっちはマジなんだよ!」
誰もいない六畳の部屋に、秋人の怒声が虚しく響いた。
秋人はベッドに放り投げてあったパーカーを掴む。
「……よし」
デスクの上の財布を掴み、ジーンズのポケットに突っ込んだ。
「今日は支払いの日だ。もう一度、確認してみるか」
秋人は勢いよく玄関のドアを開けた。
◇
数分後。
駅から少し離れた、住宅街の暗い路地。
角を曲がった瞬間、秋人はピタリと足を止めた。
枢木院歯科医院の古びた建物の前だ。
そこに、見慣れない白黒の車両——パトカーが止まっている。
屋根の上の赤色灯が、ゆっくりと不気味に回っていた。
「……」
秋人の顔が引きつる。
そして次の瞬間、ある確信が脳裏をよぎった。
「やっぱ詐欺じゃねぇか!!」
秋人は猛然と駆け出した。
「俺も!」
入り口のすりガラス越しに目を凝らす。
警官がどの位置にいるのかを確認するように視線を動かした。
そして、勢いよく医院の引き戸を開け放った。
「俺も被害者だ!」
待合室を抜け、診療室へ飛び込む。
そこには、制服姿の体のゴツい男が二人いた。
服装で一目瞭然な、本物の警察官だ。
そして——
昨晩、秋人の歯を抜いた詐欺女医、枢木院透子。
腹立たしいが、言いたくないほど綺麗な大人の女性だ。
その横には、態度の悪かった歯科衛生士の古川絵里奈が立っている。
こちらもやっぱ言いたくないが、かなり可愛い。
だが、現代は黙っていては損をする時代だ。
自己主張する文化が根付いている。
決して、背後に警察官二人という正義の味方がいるから……ではない。
だから秋人は、胸を張って叫んだ。
「俺もです!」
「え?」
絵里奈が素っ頓狂な声を出す。
「俺も被害者です!」
だが、期待をしていた警察官が、怪訝そうな顔で首を傾げた。
「……被害者?」
透子がパソコンの前から静かに顔を上げた。
昨日と同じように、赤いアンダーリムのメガネをかけている。
椅子に座ったまま、手には何かの書類を持っていた。
「お気になさらないでください。ただの患者さんですので」
透子は落ち着いた、しっとりとした声で警察官に言った。
大人の余裕を感じさせる、丁寧な口調だった。
警察官は一瞬だけ、詐欺医者・枢木院透子ではなく、疑うように秋人を見る。
それから納得したように、深く頷いた。
「……そうですか。お騒がせしました」
秋人は目を剥いた。
二人の警官は透子に向けて軽く敬礼する。
「では、先ほどの件、引き続きよろしくお願いします」
そう言い残し、二人はそのまま外へ出ていった。
狭い路地裏を、パトカーが静かに去っていく音がする。
秋人は振り上げた拳を下ろす場所を失い、呆然と立ち尽くした。
警察という名の強力なこん棒が、目の前で消え去ったのだ。
「え、ちょっと……」
透子は秋人を一瞥すると、再び手元の書類をめくった。
「……ええ」
書類の内容を確認し、小さく頷く。
「この状態なら、問題ありませんね」
「問題ありまくりだよ! ネットの動画でもみんな詐欺だって——」
秋人が噛みつこうとした時だ。
透子は静かに顔を上げ、傍らの衛生士を呼んだ。
「絵里奈さん」
「はい?」
「申し訳ないけれど、彼と一緒に現場へ向かってちょうだい」
絵里奈が目を丸くして透子を見る。
「えー? いきなりですか?」
「ええ。彼なら大丈夫よ。適性はあるはずだから」
透子は涼しげな、それでいて有無を言わせない微笑みを浮かべて言った。
秋人は完全に話の蚊帳の外に置かれている。
「は? えっと……何の話ですか?」
透子は書類から目を離し、まっすぐに秋人を見た。
鳶色の瞳が、秋人の心を見透かすように静かに光る。
「あなた、あの治療費をすぐにお支払いいただくのは難しいですよね?」
「か、かえ……せ、……え?!」
秋人は痛いところを突かれ、言葉に詰まった。
透子はふっと口角を上げ、理路整然と告げる。
「でしたら、うちで働いて返済していただくのはいかがかしら?」
絵里奈が横でクスッと笑った。
「そういうことです。ほら、行きますよ」
次の瞬間。
秋人は絵里奈に強引に腕を引っ張られていた。
「ちょ、ちょっと待って!」
引きずられるように連れてこられたのは、診療所の裏口だった。
そこには、小さな軽自動車がぽつんと止まっている。
車体には『枢木院歯科医院』と書かれていた。
どうやら往診用の車のようだ。
「乗ってください」
「え?」
「現場行きますから」
「は?」
絵里奈は手慣れた様子で運転席に座った。
ブルルン、とエンジンがかかる。
秋人は抵抗する間もなく、既に助手席に押し込まれていた。
「どこ行くん……ですか?」
絵里奈はカチャリとシートベルトを締める。
そして、秋人の方を向いて、愛らしい顔で「にこっ」と笑った。
「座ってれば分かりますよ」
車がゆっくりと動き出す。
街灯の少ない夜の路地を抜け、大通りへと向かっていく。
秋人は不安になり、後ろを振り返った。
医院の裏口の前に、透子が立っている。
腕を組み、こちらを静かに見送っていた。
そして、優雅な仕草で小さく手を振る。
バックミラーの中で、その綺麗な姿がどんどん小さくなっていく。
秋人は前を向き、力なく呟いた。
「……俺、何させられるん……ですか?」
絵里奈は前を見たまま、明るい声で答えた。
「その質問はセンスがないですよー」
カチカチとウィンカーが瞬く。
「——歯の往診に決まってるじゃないですか」




