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第2話 深夜の歯科医院②

 秋人は女医に促されるまま、奥の診療室らしき区画へと足を踏み入れた。

 室内は個室で仕切られているわけでもなく、無駄に広々としている。

 しかし、設備はどれもこれもひどく古めかしく、清潔な白であるはずの診療チェアは、経年劣化ですっかり黄ばんでいた。

 トレイに無造作に置かれた金属製の医療器具も、どこかの古い映像で見た年代物ばかりだ。


 少なくとも、今じゃない。


 刃神市の大学エリア周辺によくある、ガラス張りで煌びやかな最新のデンタルクリニックとは似ても似つかない空間。


 本当にここでまともな治療が受けられるのかという不安が胸をよぎる。

 それでも、絶え間なく襲い来る歯の痛みだ。

 秋人のそんなまともな思考を強制的に停止させていく。


「何?」


 入り口で所在なげに立ち尽くす秋人を見て、透子は終始不機嫌そうな顔で顎をしゃくった。


「早く横になって。こっちも時間ないんだけど」

「す、すいません!」


 秋人は慌てて、色褪せた黄ばんだチェアに腰を下ろした。

 それはスイッチ一つで自動的に背もたれが倒れるような代物ではなく、物理的なレバーを引いて倒す手動タイプの古い診療台だった。

 恐る恐る、ゆっくりと寝転ぶ。

 そのわずかな動きのたびに、ギィ……という不吉な金属音が耳元で小さく軋んで鳴った。

 仰向けになった秋人の視界のど真ん中に、丸い円盤状の歯科用の灯り――いわゆる無影灯が迫ってくる。


 強烈な光が網膜を刺す。

 直後、上から覗き込む白衣の影がその光を遮った。

 逃げ場のない、まさにまな板の上の鯉状態。

 秋人の怯えた目に、上下逆さまになった透子の顔が映り込む。

 先ほど薄暗い受付で見た時とは、纏っている空気が全く違っていた。

 口元には青い不織布の医療用マスクをぴたりと装着し、両手には同じく青いラテックス製のグローブを隙間なくはめている。

 それは間違いなく、冷徹な医療従事者の顔だった。


「口、開けて」

「あー……」


 女医が乱暴な手つきで無影灯の位置をグイと動かす。

 急激な眩しさに秋人は思わず目を細め、視界にはチカチカと白い残像が焼き付いた。

 強烈な光が、開けっ放しにされた口の奥深くまで容赦なく射し込んでくる。

 己の最も無防備な粘膜を隅々まで覗き込まれる。

 この感覚だけは、何度経験しても決して慣れるものではない。

 やがて、冷たい金属製のデンタルミラーが滑るように口腔内へ侵入する。

 続いて、細く尖ったピンセットの先が、カチカチと乾いた音を立てて歯の表面を直接叩き始める。


「ここ?」

「いっ!」


 ピンポイントで引き出された激痛に、秋人は思わずチェアの上で悶絶した。

 左上の頬に鋭利な痛みが走る。


「ここ?」

「いっ!」


 おかしい。


 意識を集中してみると、右上もズキズキと痛いような気がする。


「ここ?」

「いっ!」

「ここ?」

「いっ!」


 さらには右下の顎も熱を持っているし、左下の歯茎もたまらなく痛い。

 どこが悪いというレベルではなく、もはや口の中全体が原因不明の痛みのパニックを起こしていた。

 女医はミラーを持ったまま手を止め、少しだけ俯いて秋人の歯列を凝視した。


「……」


 重苦しい沈黙が数秒続く。

 そして、パチンと軽い音を立てて、頭上の無影灯のライトが消された。


「いつから痛んでる?」

「え? えっと、さっきです。あまりの痛みで突然目が覚めて……」

「さっき……そう。とりあえず全体の写真を撮るから、こっち来て」


 透子は無感情な声で告げると、顎で部屋の隅にある隔離された小さな防護室をしゃくった。

 秋人だって歯医者は初めてではない。

 子供の頃に虫歯の治療で通った痛い記憶もあるし、大人になってからもそれなりに真面目に定期検診へは通っていた。

 だから、あの小部屋に案内されたら次に何をするのかなんて、痛いほどよくわかっている。

 わかっているはずなのに、そこが処刑室のように思えて底知れなく怖かった。


「パノラマレントゲンよ。早くして」

「は……い」

「そこの台に顎を乗せて。もうちょっと前」


 秋人は指示されるがまま、おぼつかない足取りで機械の前に立つ。

 コトッ、というそのわずかな骨への衝撃だけで、痛みが耳の奥を突き抜けて頭頂部までズキンと鋭く突き刺さる。

 だが、女医は脂汗を流して痛がる秋人の様子など気にも留めない。

 ひどく涼しい顔で、レントゲン装置の位置を淡々と調整していく。


「動かないで」

「はい」


 防護ドアの向こうから、ウィーンという重低音の起動音が響いた。

 すると、顔の周りを覆うように配置された装置のアームが、ウィィィ……と苦しそうな古いモーター音を立てながら、ゆっくりと秋人の頭部の周りを一周し始めた。


「終わったわ。診療台に戻ってて」


 透子はそう言い残すと、レントゲン室のさらに奥にある暗室へと姿を消した。

 シャー……という、水が流れるような微かな音が聞こえてくる。

 デジタル式ではなく、昔ながらの薬液を使ったフィルム現像を行っている。


 タイムスリップをした、と錯覚を覚える。

 痛みがなければ、そう思ったに違いない。


 数十秒の重い待ち時間の後、女医は四角い一枚の黒いフィルムを持って戻ってきた。

 彼女はそれを、壁に備え付けられた『シャーカステン』と呼ばれるライトボックスに手際よくパチンと挟み込んだ。


「う……」


 真っ白な光を背にして、白黒の歪んだドクロのような秋人の頭蓋骨がくっきりと浮かび上がる。

 その中心には、緩やかなカーブを描いて綺麗に並んだ二十八本の歯の列が鮮明に映し出されていた。


「その……虫歯ですか? それとも親知らずが変な風に生えてるとか……?」


 不安に駆られて尋ねる秋人の問いに、女医は答えない。

 代わりに、フィルムの一点を、細く美しい指でトンと指し示した。

 そこは、左上の『犬歯』。

 その長く伸びた根元あたりだった。

 素人である秋人の目から見ても、それは骨の中に真っ白に映るただの歯にしか見えない。

 大きな虫歯の影があるわけでもなく、骨が溶けている様子もない、どこからどう見ても、よくあるソレだ。

 だが、透子の指先はパノラマフィルムの前でピタリと止まることなく、まるでメトロノームのように、チッチッと小さな振幅で規則的に左右に揺れ動いていた。


「ここ……」


 女医はマスク越しに、確認するような低い声で微かに呟く。

 秋人は自分の口の中で何が起きているのか全く状況が飲み込めず、ただぽかんと口を半開きにすることしかできなかった。


「え?」


 透子はフィルムから目を離すことなく、ぼそりと、心底忌々しそうに吐き捨てた。


「……今日はついてないわね」


 そして、ひどく面倒くさそうに長く、深い息を吐き出す。


「え? なにがですか? 俺の歯がですか?」

「違うわよ。……衛生士、夜食買いにコンビニ行ってるの」

「……は?」


 斜め上すぎる回答に、秋人は痛む頭がますます混乱の渦に叩き込まれた。

 真夜中の古びた歯科医院に、若い女医が一人きり。

 確かに状況としてはひどく妙ではあるし、不用心だ。

 人手不足を嘆きたくなる気持ちも分からなくはない。


 ただし、衛生士がコンビニに行っていて不在であることと

 今のこの殺人的な激痛とは、絶対に関係ない。


「とにかく、すごく痛いんですけど。薬か何かで、なんとかなりませんか」


 痛みを訴える秋人に対し、女医はゆっくりと振り向くと、もう一度パノラマフィルムの犬歯の部分に指を力強く突き立てた。

 眼鏡の奥で、彼女の瞳が冷たく、しかし決定的な宣告を下すように静かに光る。


「抜くしかないわね」

「抜く?!」


 痛い。だから抜こう!……?


 現代医療の「なるべく歯を残す」という方針を完全にガン無視した、あまりにも乱暴で飛躍しすぎた単純思考だ。

 どうやら、やはりタイムスリップ。

 秋人は、自分の常識が一切通用しない、狂った医療のパラレルワールドに迷い込んでしまったらしい。


 もしくは、激痛に苦しんで気絶しかけているこの数時間の間に、歯科治療のガイドラインが、根本から書き換えられてしまったのか。


「……保険治療の方がいいでしょう?」


 それはそう。何のための皆保険制度か。

 秋人は両親に感謝をした。


「も、勿論です! マイナンバーカードで保険証の紐づけもバッチリしてますし!」

「なら、今すぐ抜きましょう」

「え、いや……だから」



 ——カラン。


 ピンクのナース衣の上にカーデガン。

 鳶色の瞳がパチパチと瞬きをする。

 整った顔立ちには今風のメイクが施されていた。


 歯科衛生士の古川絵里奈。


 彼女は、ビニール袋の持ち手が手に食い込むのを感じた。


 重い袋をぶら下げたまま、職場の古びた引き戸を押す。

 袋に入った甘いものがカサカサと乾いた音を立てていた。

 今日は、レセプトの締め切り間近である。

 院長である枢木院透子は、いつも以上に不機嫌だろう。


 絵里奈はそう想像していた。


「せんせっ、プリン買ってきましたよー」


 愛らしい笑顔で、受付から顔を覗かせる。

 案の定、診療室の奥には透子がいる。


 ただ、その前には見知らぬ男の姿があった。


「患者さんですか?」


 絵里奈は小声で尋ねた。

 明るい茶色の髪がふわりと揺れる。


「もう診察は終わったんじゃ……」


 男はジャージ姿で、顔に疲労と痛みを滲ませている。

 必死に透子へ何かを訴えかけていた。

 だが、鈍色の瞳が、不意に現れた絵里奈に視線を移す。


 絵里奈はスッと視線を逸らした。


「絵里奈。鍵を締めて」


 すると、透子の鋭い声が飛ぶ。

 絵里奈は反射的に手首を捻り、玄関のサムターンを回した。

 カチャリと冷たい金属音が響く。

 男が裏返った声を上げたのは、その三秒後だった。


「ちょっと! なんで閉じ込める!? ってか、保険が利くんじゃ……その……虫歯じゃないんですか!?」


 透子は男の悲痛な叫びに答えない。

 白色に光り輝く、レントゲンフィルムの一点。

 彼女は、そこを無言で指し示した。——男の犬歯の根元だ。


 メトロノームのように切りそろえられた爪先が往復する。


 絵里奈はすぐさま透子の傍に寄った。

 そして横から、そのフィルムを覗き込む。


「ね」


 透子が短く言った。


「ですね」


 絵里奈も反射的に短く返した。


「は?」


 男が間抜けな声を出す。


「——典型的な邪歯ね。普通の歯じゃない」


 反応を気にすることもなく、透子は冷たく言い放った。


「じゃし……って、目のあれ? ここって歯医者だよな」

「そっちの邪視じゃないわ」


 ただの男。彼の混乱は極みに達している。


 だが、透子は診断を続けた。


 歯根が不自然に開きすぎていること。

 その上に広がる不可解な陰影。

 尚且つ、上顎洞との繋がりだった。


 そして、絵里奈は即座に理解する。


「全然……分かりません……。きゅ……救急車……。歯医者に……って……ここ」


 男は呆然として、腫れ上がった顎を押さえて悶え苦しんでいる。

 ろれつも回っていない。


「よこしまなはと書いて、邪歯。……保険っていうのは契約なの」

「は……?契約って? 保険治療って普通のことじゃ」

「普通ならね。でも、契約書に載っている治療しか対象にならない」


 透子は指を一本立てた。


「ただし、抜歯なら話は別」


 言葉の裏の意図を、絵里奈は即座に察知した。


「患者さん……犬塚さん? これ、本当は駄目ですけど、過剰歯扱いにするんですよね。無理やり、病名をつけるんです」


 絵里奈は懸命に補足した。

 透子は普段から説明が不足しがちだ。

 そして、今日はレセプト締め切り間近で、いつもよりぶっきらぼうだった。


「過剰歯の異所性萌出だったら、保険の理屈に無理やり当てはめられます。違反だけど、そういうことにするんです!」

「え……?無理やり、保険が利かない歯……。違反?うぐ……。やばい……痛い……」


 男の脂汗が床に零れる。

 透子は男に迫り、ある意味で脅した。


「もう、迷う時間はないわよ。このままだと……悶え死ぬ」


 絵里奈は引き出しから手鏡を取り出した。

 そして、無理やり男に握らせる。

 すると、男は一瞬で青ざめた。


「抜く……? 四本……保険治療……」


 虫の息で男が呟く。


「初診料込みで三千円……あ、パントモも撮ってるから五千円ちょっとです」

「歯が無くなる? 明日も学校だし……」


 絵里奈目線では一択だった。

 だが、男はまだ往生際が悪い。


「あのー。早く決めてくれません?」

「絵里奈」


 透子がたしなめるように呼ぶ。


「だって、アタシも早く帰りたいし。滅菌もしなきゃだし」

「上下左右、四本よ」


 ただそれは、冷静な訂正。


「あ、そっち? だったら、一万円いかないくらい……でしたっけ」


 その次の瞬間、絵里奈は目を剥いた。


「絶対に抜きたくない。その……分割利きますか」


 男の口から出たのは、予想外の言葉だった。

 曖昧だが、一応の決断と取れなくもない。


 絵里奈は力強く頷いた。

 そして即座に透子に告げる。


「先生、ディジーザーは治療の意思、確認しました」

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