第1話 深夜の歯科医院①
刃神市。
広大な総合キャンパスを中心に発展した未来ある学園都市だ。
しかし、その華やかな学生街から一山超えた対極――刃神駅の周辺には、時代に取り残されたような雑多で泥臭いエリアが広がっている。
「う……ん……」
終電の時間はとうに過ぎ去り、深夜の静寂に包まれた時刻。
時折、遠くの線路を通過していく貨物列車の低い駆動音だけが、古いアパートの薄い壁を微かに震わせていた。
あるいはその些細な振動すらも、これから始まる異常事態の引き金だったのかもしれない。
「っ……!」
犬塚秋人は、弾かれたようにベッドから跳ね起きた。
息の詰まるような悪夢にうなされて、目を覚ましたはずだった。
だが、不快な汗にまみれた彼を待っていたのは、夢よりもさらに残酷な現実。
――顎の奥底で脈打つ、暴力的なまでの激痛だった。
「なん……」
それはまるで、見えないドリルをねじ込まれているかのような感覚。
あるいは、剥き出しの神経を鋭く尖ったピンセットで摘み上げられた。
いや、無理やり引きちぎられそうになっている気さえするほどの、異常な疼痛だ。
「いっ……てぇ……!」
触れずとも、顔の左半分が異常な熱を帯びてパンパンに腫れ上がっているのがわかる。
うっかり触れることすら躊躇われ、秋人は脂汗が滲む額を押さえながらサイドテーブルの時計を睨みつけた。
赤いデジタル表示は、無情にも『午前二時四十分』という絶望的な数字を告げている。
「嘘だろ……」
秋人は乱れた布団の上に蹲り、祈るような手つきでゆっくりと左頬を強く押さえた。
だが、その物理的な圧迫など嘲笑うかのように、痛みは奥歯から前歯まで口内全体で暴れ狂う。
ズキズキ、ガンガン、ギンギンと、あらゆる不快な擬音を伴って脳髄に直接響いてくるのだ。
「ヤバい……って」
心臓の鼓動に完全に同調し、「ここから出せ」とでも言うように内側から皮膚を突き破ろうとする暴力的な自己主張。
このままでは痛みのあまり発狂するか、あるいは本当にショック死してしまうかもしれない。
秋人は藁にもすがる思いで立ち上がると、よろける足取りでアパートの狭いキッチンへと向かった。
「とりあえず、冷や——」
蛇口をひねり、プラスチックのコップに水道水を注ぐ。
そして、一筋の清涼感を求めて一気にそれを口に含んだ。
――その瞬間、脳天を真っ二つに割られるような信じがたい激痛が走った。
「いっっっ……!!」
声帯が痙攣し、音にならない悲鳴が漏れる。
秋人は口の中の水を吐き出しながら、たまらずステンレスのシンクに突っ伏した。
冷水でも温水でもない、ただの常温の水でさえ、今のソレは完全に拒絶しているらしい。
安易に水を含んでしまった己の浅はかさを、心の底から後悔するほどの苦悶。
「死……」
もはや我慢の限界を超えていた秋人は、震える手でポケットからスマホを引っ張り出した。
暗闇の中で眩しく光るブルーライトに片目を細めながら、ひたすらにフリック入力を叩き込む。
検索ワードはただ一つ、『歯医者 近く』。
すがるような思いで検索ボタンをタップすると、周辺の地図と共にいくつかの歯科医院がリストアップされていく。
だが、そこに並ぶ医院のステータスは、見事なまでにすべて同じだった。
画面には、無機質で冷酷な赤文字だけが並んでいる。
営業時間外。
営業時間外。
営業時間外。
「そりゃ、そうだよな……」
不夜城の大都会ならいざ知らず、こんな場末の街の丑三つ時に開いている奇特な歯医者などあるはずがない。
大人しく夜間救急病院に行くべきかとも考えた。
だが、単なる歯痛で救急車を呼んでいいものかどうかの判断すらつかない。
秋人が暗い部屋の中で痛みに耐えかねて絶望しかけた、その時だった。
無意識にスクロールした地図の端っこに、ポツンと一つだけ、営業時間外を示す赤い表示が出ていないピンが立っていることに気づいたのだ。
藁にもすがる思いで詳細を開くが、そこにはただ『歯科医院』というカテゴリだけが記されている。
病院名すら記載されておらず、肝心の営業時間の欄はすっぽりと不自然な空白になっていた。
「……?」
いかがわしさを覚えながら画面を拡大してみるが、やはり情報が少なすぎて何かがおかしい。
だが、そんな不気味な空白よりも、秋人の目を強烈に惹きつける情報があった。
アプリが表示したナビゲーションルートによれば、現在地からの距離が『徒歩十分』と出ているのだ。
「この距離なら」
もはや迷っている暇など一秒たりとも残されていなかった。
再び、左頬の奥底でマグマが爆発したような容赦のない激痛が襲い掛かる。
ズギンッ!!
「……行くしかない」
パジャマ代わりに着ていたスウェットの上から適当なパーカーを羽織り、秋人は逃げるようにアパートを飛び出した。
四月の深夜の空気はまだ肌寒く、火照った頬にはその冷たさが少しだけ心地よく感じられる。
だが、あくまで表面が心地よいだけで、内側で狂い咲く痛みそのものは微塵も引く気配を見せない。
「あと一分! この道を左に……」
ナビに従って大通りから路地裏へと足を踏み入れると、街の空気は急に音を失ったかのように静まり返った。
立ち並ぶ古い家々と、シャッターが固く閉ざされたままの個人商店がポツリポツリと続く。
街灯の数も極端に減り、薄暗いアスファルトの上に秋人の荒い足音だけがやけに大きく響き渡る。
そんな不安を煽るような道を、スマホの弱々しいバックライトだけを頼りに進んでいくと、やがて闇の奥に古ぼけた小さな立て看板がふっと浮かび上がった。
『枢木院歯科医院 院長 枢木院透子』
『一般歯科・口腔外科・保険診療』
長年の雨風に晒されたせいか、その文字は所々が白く掠れてしまっている。
看板を照らすための小さな電灯も、とうの昔に寿命を迎えて切れているようだった。
「なんだよ。ネットには載ってなかったけど、名前がちゃんとあるじゃん。なんて読むのか分からないけど」
秋人は痛みに顔をしかめながら、看板の奥を見上げた。
そこにあったのは、昭和の時代から時が止まっているかのような、ひどく古めかしいモルタル造りの二階建ての建物だった。
「ってか、これ……どう見ても閉まってるんじゃ――」
落胆しかけた秋人だったが、一階のすりガラスの窓に目を凝らすと、下ろされたブラインドの隙間から青白い蛍光灯の明かりが微かに漏れ出ていることに気づいた。
すがるような、いや、もうここへすがるしかないという思いで、ズキズキと脈打つ頬を強く押さえる。
秋人は恐る恐る引き戸の冷たい取っ手に手を掛け、横へとスライドさせて押し開けた。
カラン、カラン。
錆びついた真鍮の鈴が、深夜の静寂を破って乾いた音を鳴らす。
薄暗い待合室には、ユージノールとクレゾールが混ざり合った特有の消毒液と、どこか漢方薬のようなクローブの匂いが深く染み付いていた。
受付のカウンターには誰もおらず、こんな深夜に鍵もかけずに不用心だ……と思うよりも先に、その奥から温度を感じさせない冷たい女の声が響いてきた。
「……今、忙しいんだけど」
言葉の直後まで続いていた、カタカタという乾いたタイピング音がピタリと止まる。
少しの間を置いて、診察室の奥の暗がりから、のっそりと一人の女が姿を現した。
腰まで伸びた手入れの行き届いた黒髪に、コートのように長い丈の白衣。
その下には上品なブラウスとスカートを纏い、赤いアンダーリムの眼鏡。
眼鏡の奥で鋭い瞳を光らせる女。
彼女が院長――枢木透子だった。




