第9話 虎ディジーザー②
刃神大学のお膝元に広がる学生街が、今日は異様な空気に飲まれていた。
バスの中からサイレンは聞こえていた。
そのバスを降りた瞬間、秋人はそれを感じた。
上手く言葉にできない。ただ、空気の質が違う。
同じ昼間の、同じ住宅街のはずなのに——どこか根本的なところが、狂っている。
「キャンパスからじゃ分からなかったけど、始まってんのかよ」
山を切り拓いたキャンパスの周辺。
地方から流れてきた学生向けの低層アパートが肩を寄せ合うように密集している。
レンガ調のタイル、打ちっぱなし風のコンクリート壁。
小洒落た顔をした1D物件たちが、二階建てや三階建てで整然と並ぶ。
人工的で、よそよそしい。地方国立大の周辺に特有の、そういう街並みだ。
それ自体は、いつも通りのはずだった。
なのに、足が、重い。
一歩踏み出すたびに、首の後ろに視線が貼り付いてくる感覚があった。
振り返っても、何もいない。人通りは普通だ。
空も、風も、何もおかしくない。それなのに、この感じが剥がれない。
まるで、この街全体が——何かを隠しながら、呼吸しているような。
全身が総毛立つのは、狩られる対象になっているからだろうか。
「アイツら、平気なのか?」
通りの先に、人だかりが見えた。
数台のパトカー、黄色い規制線。
赤色灯がぐるぐると、昼のアスファルトに毒々しい影を這わせている。
「前と……、じゃなくて最初の事件と同じかよ」
怪我人を運んだ救急車のサイレンはもう遠く、あとには野次馬のざわめきだけが残っていた。
「下がってください!」
「規制線の外へ! 危険です!」
黄色いテープの前で警官が喉を嗄らす。
集まった学生たちはスマホを構えたまま、ひそひそと言葉を交わしていた。
「殺人だってよ……」
「血、やばくね?」
「熊じゃねえの、山近いし」
犬塚秋人は、その人混みの外縁で足を止めた。
透子との電話は、もう切れている。ここからは、一人だ。
視線は自然と、人だかりの奥へ引き寄せられた。
学生アパート。小洒落た外壁に刻まれた、三本の深い爪痕。粉々に割れた一階の窓ガラス。建物の前の地面に、べったりと黒く滲んだ血の跡。
秋人はその血の色を、しばらく見つめた。
黒い。赤くない。
人間のものじゃない、と思った。でも、それ以上は分からなかった。
切った彼女がやったのだろう、根回しは済んでいた。
「枢木院の方から来ました」
「マイナンバーカードはお持ちですか?」
「あ、持ってます」
「お待ちしておりました」
たかが学生が、あのテープに入る。
特別な探偵か、それに準じたフィクション作品のように。
「では、こちらへ」
「マジで入れてしまったけど」
警官の案内で規制線をくぐり抜けた瞬間、空気が変わった。
ざわめきが、遠くなる。野次馬の声も、警官の怒鳴り声も、まるで水の底から聞こえるようにくぐもって遠ざかっていく。たった数メートル踏み込んだだけなのに、世界の膜を一枚くぐり抜けたような——そんな感覚だった。
「トラって言ってたけど」
視線は学生アパートへ向いていた。爪痕。黒い血。怪物の姿は、ない。
「トラだぞ? 何が出来るんだよ」
「どうされました?」
「な、……なんでもないです」
何気ない顔を作り、ゆっくりと歩き出す。アパートとアパートの隙間——細い路地の入り口。暗くはない。昼間だ。だが、その奥が、妙に遠く見えた。吸い込まれるような暗がりでもないのに、一歩踏み込むことへの躊躇いが、足の裏に僅かに生まれた。
秋人はそれを無視して、踏み込んだ。
瞬間、音が消えた。
遠くのサイレンだけが、くぐもってどこかから響いている。それ以外は、何もない。風もない。虫の声もない。自分の息と、自分の足音だけが、不自然なほどはっきりと聞こえた。
秋人はピタリと足を止めた。
空気が、重い。
肌にまとわりつくような、湿った獣の匂い。嗅いだことのない種類だった。動物園でもない。野山でもない。もっと濃く、もっと生々しく、もっと——近い。何かが、確かに、ここにいる。姿は見えない。音もしない。だが、いる。この路地の空気そのものが、それを教えていた。
アパートの屋根か。電柱の影か。この奥か。
分からない。
ただ、口の中の四本の犬歯だけが、じわりと熱を帯びて、疼き始めていた。
その時だった。
「あの……」
背後から、不意に声がした。
秋人はハッと振り向く。路地の入り口に、一人の少女が立っていた。小柄な体つき。地味な色合いの服装。どこにでもいそうな、ごく普通の素朴な少女だった。
この路地に満ちる異様な空気も、表の騒ぎの意味も、何も分かっていない目をしていた。
「ここ……どうやって外に行けますか……?」
秋人は鋭く眉をしかめた。
「は? じゃなくて、なんでここにいるんだよ! 避難命令出てたろ」
「へ……? そうなんですか?」
「そうだよ。今すぐ逃げろ。脱兎のごとく!」
少女がビクッと肩を揺らし、足を止めた。
「え?」
その瞬間。
秋人の頭上の空気が、物理的に裂けた。
視線が上へ跳ね上がる。小洒落た二階建てアパートの平らな屋根。そこから、太陽の光を遮る巨大な影が、音もなく落ちてきた。
燃えるような橙色の毛並み。毒々しい黒の縞模様。口元からナイフのように突き出た長大な牙。四足の巨獣。
間違いなく、トラのディジーザーだった。
標的は、入り口に立つ少女。
秋人は迷わなかった。強く地面を蹴る。自分でも信じられないほどの爆発的な脚力で、数メートルの距離を一瞬で詰める。少女の細い腕を掴み、そのまま軽々と抱え上げた。
「きゃ――」
悲鳴が出るより早く、上へ跳ぶ。外壁を一歩、二歩と蹴り上がり、重力を無視した
まま隣の民家のベランダへ滑り込んだ。
「なんだ今の動き……俺の体、どうなってんだ!?」
「凄い……」
内心の動揺を飲み込み、秋人はベランダの床へ少女をそっと下ろした。
「分かっただろ。野生生物で危険なんだ。ここにいろ、絶対に動くな」
少女は目を丸くしたまま、へたり込んで秋人を見上げていた。
「あ……」
秋人はもう背を向けている。手すりを掴み、眼下の路地を見下ろした。
「あの……」
背後で、少女が戸惑ったように口を開く。
「ウチは――」
その瞬間。トラが路地の地面に着地した。
ドンッ!!
分厚いアスファルトがクレーターのように砕け散る。粉塵が舞い上がり、路地を白く染めた。秋人の目がスッと細くなった。
「……来る」
背後の少女を一瞬だけ振り返る。
「絶対降りるなよ」
「あの」
「頭もひっこめてろっ」
返事を聞かずに、動いた。
地の底から湧き上がる力で、手すりを蹴って飛び降りる。
路地へ音もなく着地し、素早く周囲を見渡した。
注射器も、医療剣もない、完全な丸腰だ。
「……で、どうするよ」
視界の端に、改修工事の資材置き場があった。
また、地主が不労所得を目論んで、おしゃれに建て替えようとしている。
それはさておき。
足場用の単管パイプが無造作に転がっていた。
「ベタだけど、鉄パイプか」
地面を滑るように寄り、拾い上げる。
アニメやマンガだと軽く見えるが、ずっしりとした重み。
両手に伝わり、腰から膝、地面に抜ける。
グルルルル……。
トラが秋人を睨みつけ、低く唸る。
腹の底から直接内臓を揺さぶる、恐ろしい音波だった。
そして。
予備動作ゼロの突進。
「速っ!」
牛の怪物とは、比べ物にならない速度だった。
反射的に真横へ跳ぶ。
トラの巨大な前脚が空を切り、太い爪が秋人のいた場所のアスファルトを、深く抉り取った。
「……殺す気かよ、おい」
冷や汗を拭い、鉄パイプを構え直す。
通り過ぎたトラが、しなやかに振り向いた。
爛々と光る黄色い瞳。完全に獲物を見る目だった。
次の瞬間、巨体が宙を飛ぶ。
狙うは喉元らしく、牙を剥き出した、一直線の跳躍。
「大学生、トラに殺される……。ネットの記事が頭ん中を巡る……けど!」
秋人は、逃げなかった。
いや——
犬歯の疼きが、逃げることを許さなかった。
だから一歩、前へ。
迫る牙をギリギリで見切り、体を半身にずらす。
巨大な顎の真下という死の領域へ、滑り込んだ。
トラの突進のエネルギーを丸ごと乗せ、両手の鉄パイプを下から上へフルスイングでカチ上げる。
「だらぁっ!!」
バキィッ!!
金属音に近い響き。
トラの顎が揺れる。
硬い破片が宙に舞い、長大な牙が一本、アスファルトにコロコロと転がった。
「ギャウッ!!」
トラが苦痛の声を上げ、たたらを踏んで後退した。
折れた牙の根元から、黒い血がアスファルトにぽたりぽたりと落ちる。
秋人はひしゃげた鉄パイプを肩に乗せ、不敵に笑った。
「歯の痛みはなぁ」
荒い息のまま、言い放つ。
「めちゃくちゃ痛えんだよ」
すると、トラが唸る。
秋人の語彙がおかしいからではなく、トラも秋人も本能のまま。
殺意と怒りが混ざり合った、低い音が秋人の腹まで響く。
「俺もグルルルしてやろうか? 牛の件で一応、慣れてんだ……って、なにぃぃぃいいいい!」
しかし
次の瞬間、トラの様子が一変した。
「グルアグルグルアグルアグルグルアァァァァアアアア」
「は……?」
巨体が小刻みに震え出す。
体中の骨がメキメキと軋み、筋肉が風船のように膨れ上がり、毛皮を内側から引き裂かんばかりに隆起していく。
「嘘……だろ」
そして、在り得ないことが起きる。
バキバキッと何処かの関節が破裂音を鳴らす。
「何なんだよ! 立つなよ! 立つな、立つな立つな!」
四つん這いの体が、ゆっくりと持ち上がる。
前脚が太い腕へ変異し、後脚が丸太のような足になる。
——即ち、トラが立った。
威嚇するようなソレとは違う。間違いなく、立ち上がった。
二足歩行。
三メートルを超える巨体の影が、秋人を丸ごと覆い隠す。
腕のように伸びた前脚の爪が、怒りのままアスファルトへ深く食い込んだ。
秋人はひきつった顔で、思わず呟いた。
「猫系は立つなって……。それは進化とは言わねぇだろ……」
鉄パイプを両手で握り直し、見上げた。
その全身を覆うトラ柄。口元から飛び出した残りの一本の牙。角はない。
グルルル
「とは……いえ」
だが、獣の耳が鋭く天へ向かって尖っていた。
秋人はそのシルエットをじっと見つめ、少し考えてから口を開いた。
「トラの皮を全身に纏う……そして飛び出す牙。角じゃないけど……尖った耳」
ごくりと唾を飲み込む。
「角、牙とトラ柄パンツ!……それはもう鬼なんよっ!」




