結-11 貴族様と貧しい村
暗い教会の礼拝室には、元気な赤ん坊の鳴き声が響いている。
困り果てた顔で赤ん坊を抱いて優しく揺するのは、長い黒髪のシスターだ。
「ああもう、どうしよう……全然泣き止まない……さっきおむつは替えたし、お腹すいたの? 朝飲んだの吐いちゃったからかな……」
彼女はもう3日以上、まともに眠っていない。
毎夜毎晩続く赤子の夜泣き、そして赤ん坊を生んだリズはまだ起き上がることが出来ない。
ほんの僅かな希望は、子供の産声を聞いたリズが、実に久しぶりに口を開き声を出したことだ。
『私の……あかちゃん……?』
その一言だけを発してから、再びリズは沈黙を守るようになった。
が、藍子が子供を抱えて渡すと、愛おしそうに抱きかかえるようになった。
母乳の出は極めて悪いため、漁師たちの女房衆で最近子供を産んだ若い女が乳母を買って出てくれた。彼女は毎日たびたび教会に顔を出しては赤子に乳を飲ませている。
「よっ、シスター。赤ん坊は元気みたいだね」
「あ、リサンデラさん」
まるで救いの神の到来を見るような顔で、藍子が来客へと視線を向ける。
大柄な身体に、はち切れんばかりの両胸。彼女はつい半年ほど前、6人目の子供を出産したばかりだ。
「どれどれ、チビは相変わらず良く泣くねぇ。昨日も一晩中かい?」
「はい、もうホントに全然寝てくれなくって……大丈夫なのかしら」
「ははは、あんたも大変だねぇ、まだ子供産んでないのに子持ちの母親みたいじゃないか。なぁに、大丈夫だよ。赤ん坊は寝るときゃ寝るし、寝ないときゃ何やっても寝ないんだよ」
「は、はぁ……」
目の下に盛大にクマを作った藍子は、リサンデラに赤子を渡すと力なく椅子にへたり込む。
「私ムリ……子供産んでも育てられる自信なんて持てない……」
「アタシもそうだったよ。最初の子を産むときなんて怖くてねぇ。でもまぁ何とかなる……っていうより、何とかするしかないんだよ。そうしないと子供が死ぬからね。ま、アタシもこの教会で拾われて育てられたクチだからさ、小さいガキの面倒はよく見てたよ。オムツ変えたり、寝かしつけたりね。ほら、たんとお飲み」
リサンデラは服を捲りあげて乳房をあらわにすると、泣いている赤ん坊に乳首を含ませる。
ほぼ同時に泣き止んだ赤ん坊は、勢いよく乳を吸い始めた。
「リサンデラさん、ベテランなのね……」
「ベテランで言やぁ、シスター長に勝てるモンはいないだろうさ。なにせシスター長におしめ変えてもらった事があるヤツは、この村だけでも50人はいるからね。アタシもその1人さ」
貧しい漁村では、子供が産まれても育てる事ができない家庭は珍しくない。
おまけに、両親が海に出てそのまま戻ることが出来なかった、という孤児も多くいる。そんな取り残された子どもたちを引き受けて育てたのが老シスターだ。
「まぁそんな貧乏な村だからね、アンタみたいに魔法が使えるシスターってのは助かってるんだよ。ホントにみんな、アンタのことは頼りにしてるんだ」
藍子は村についてしばらくしてから、王城で学んだ魔法を使い村を助けるようになった。
氷の魔法を用いて魚の鮮度を保ったり、火の魔法を用いてレンガを焼く手伝いもしている。最近は、少し離れた街の商人が氷漬けの魚を以前の3倍の価格で買い取るようになっている。
王城で、どれだけ魔法を放っても失望のため息と失笑しか聞くことが出来なかった藍子が、初歩の魔法を使っただけでも感謝の言葉をかけられる。
「シスターアイコ、いるか」
不意に、シスターの宿舎のドアをノックする大きい音。赤ん坊はまたぐずり始め、盛大に泣き出した。
ああもう、と愚痴りながら藍子がドアを開けると、そこには大きな麻袋をいくつも抱えた騎士、アレクサンドラが立っていた。
「何の御用ですか。赤ちゃんが寝ていたんですが」
「あ、そ、それは……申し訳ない……個人的にだが、食料を差し入れようと思って来たんだが……」
アレクサンドラの消え入りそうな声は、元気な赤ん坊の泣き声になかばかき消されている。
「それならそれで、もっと静かにしてください。赤ちゃんがいる家で、非常識ですよ」
「……す、すまなかった……」
まるで消え入りそうなアレクサンドラの声。
彼女はほんの1年ほど前まで、肩で風を切るような立場だった。
王国騎士団第二分団の団長を任される女伯爵にして、謹厳実直な騎士で貴族としての義務もしっかりと自覚している、人間の鑑たるべしと自らを律してきた。
が、その実情は哀れなものだった。老獪な貴族たちの都合の良い駒として利用され、幼馴染でもあった公爵バルザックへの刺客をわざわざ懐まで忍び込ませてしまった。
挙げ句、防衛戦においては全く出番すらなく、人語すら解さぬ蛮族と蔑んでいたゴルドベルク王国軍の圧倒的な戦力、戦術の前にあっけに取られるばかり。
敵将であり、自らとも実力伯仲であると一方的に考えていたエミリア・ダンタン中将が、実は自分など片手であしらわれるほど、その力量に絶望的な差がある事も目の当たりにした。
彼女の自信が崩壊するのには十分すぎるほどの出来事が連続して起きている。
「それで、他にまだ何か?」
藍子の表情は、お世辞にも穏やかとは言えない。
彼女もまた大きな挫折を味わい、逃げ出してきた身の上ではある。が、今はこうして小さな漁村の名もなきシスターとして、産まれたばかりの小さな生命を守る役目を負っている。
リズはまだ産後間もないため、教会の奥にある質素な宿舎のベッドで横になったままだ。
彼女が小さな身体と幼い心に負った傷は深く、到底癒えるものではない。今も藍子の呼びかけにはかすかに反応する程度だ。
それでも赤ん坊の鳴き声には即座に反応を見せる。ここ数日は、時折子供を抱いて顔を覗き込んだりもしている。
「用がなければ、まだやることがたくさんありますので」
「い、いや、すまない。もし私に出来ることがあれば」
「貴族様に出来ることなんて何もありません! いい加減にして下さい! 忙しいってわからないの?」
藍子自身も驚くくらい、突き放すような言い方だった。
以前、大学で何不自由無く過ごしていた頃には、もう少し穏やかだった。が、今の環境は穏やかな心持ちでいる事を許さないものだ。
今日の食べ物も、漁村の住民の寄付に頼らなければならない。
硬いベッドは、板の上に干し草を薄く敷き、薄汚れたシーツで覆っただけのもので、熟睡とは縁遠い寝床だ。
ろくに着替えも無く、当然風呂もシャワーもない。井戸から組んだ水で身体を拭くのが精一杯だ。
おまけに2時間おきに赤子にミルクを飲ませ、おむつを替え、泣いたら抱いてあやす。
その上で、教会の清掃や教会を管理するシスター長の補助作業。文字通り、座って食事をする暇も無いほどである。
「いや、しかし私は……」
「じゃあ何が出来るっていうのよ。洗濯? 掃除? そんな尖った剣を持って赤ちゃんを抱くっていうの? 村の人達に頭を下げて、食べ物を分けて下さいってお願いして周れる? 出来ないでしょ? じゃあ引っ込んでて。貴族様の自己満足のお遊びに付き合ってられるほど、こっちは暇じゃないのよ!」
藍子の怒声に驚いたのか、教会の奥から再び赤ん坊の泣く声。
ああもう、と小さく呟いてから鋭い目つきでアレクサンドラを睨みつける。
「差し入れはありがたくいただきます。それじゃあ、お帰り下さい」
ばたん、とかなり乱暴にドアを閉める。
入れ違いになるように、大柄な女がエプロンの腰紐を締め直しながら教会から出てきた。
「あぁ、アンタかい、差し入れ持ってきてくれたお貴族様ってのは」
あまり友好的ではない態度だが、先程の藍子と比較すると果てしなくマシな物腰だった。
「アタシはリサンデラってんだ。みなし子でさ、ガキの頃はこの教会で育ってねぇ、赤ん坊が産まれたっていうから、時折面倒みてんだよ」
「そ、そう……か……すまない、邪魔をしてしまったようだ」
「そうだね、確かに邪魔だ。でもまぁアレだよ、アイコもアイコだ。ここは一つ、お互い様ってことで悪く思わないでやっとくれ。あの子も初めての子育てで必死なんだよ、シスターリズ連れてここに流れ着いたときもボロボロでさ、恥も外聞もなく、這いつくばって助けてくれってね」
サンサルバシオンとシュワルツ・カステルの戦いのドサクサで、リズが乗っていた馬車を盗んだ藍子は、宛てもなく馬車を走らせた。
車輪が壊れ、馬が逃げだしたあとは、まだ幼いリズの手を引いてひたすら南へと逃げ続け、その果てに辿り着いたのが貧しい漁村、マシッツの村だ。
「アイコもリズも、生きるのに必死なのさ。アタシらだってそうだ、海が荒れて舟を出せない日が続いたら、何日もおまんまにありつけない。ま、貴族様にとっちゃこんな小さい漁村、無いも同然なんだろうけどね」
「そんな事は! そんな……ことは……」
アレクサンドラは言葉を続けられなかった。
彼女は貴族として、騎士団長として国の地理や特産物などについても知識は持っていた。
が、こんな貧しい漁村があるなど、想像したことすら無かったとういのが実際のところだ。
「でもね、貴族様達が知らないこんな村でもアタシらは生きて暮らしてるんだよ。王様が変わったか何か知らないけどさ、どうせ何も変わりゃしないよ。役人が来るのは税金取り立てるときだけ、アタシらが助けてくれって声あげたって、誰も耳を傾けやしない」
ふん、と忌々しげにリサンデラは鼻息を吐いて腕を組む。
「アイコの言う通り、ここにゃ貴族様に出来ることなんて何もないよ。帰って優雅にお紅茶でも飲みゃあいいさ。アタシも帰ってガキどもの飯作ってやらなきゃいけない、暇なモンなんて村には1人もいないんだ」
リサンデラが大股に勢いよく歩いて、小さな丘からなだらかに続く坂道を降る。
しばらく立ち尽くしたアレクサンドラはとぼとぼと歩き出し、村の入口付近に繋いだ愛馬の元へと歩み寄る。
「……貴族様……か……」
手の甲で顔を拭ってから馬の背にまたがると、北へ向かって走り出した。




