結-10 再会と新しい生命
サンサルバシオンの南東部にある小さな漁村に、黒髪のやつれた女と小柄な少女が辿り着いたのは、ベルナデッタ女王が退位し、バルザック王が即位した年の初夏のことだ。
魔法使いを自称するその女は、漁村から少しだけ離れた丘に立つ教会に住むシスターに保護され、数週間の療養の末なんとか通りを出歩けるまでに回復した。
露出というものが極めて少ない法衣に身を包んで、大きなカゴを背負い、港で水揚げされる魚を寄付してもらいその日の糧とする、という日々を送っている。
かつて大魔道士と呼ばれた女、中西藍子が小さな漁村の教会で暮らし始めて半年が過ぎようとしていた。
ここ数ヶ月、文字通り生きていくのでやっとの状態が続いている。
誇張なしにその日食べるものにも事欠く生活で、酒など到底ありつけようはずがない。激しい離脱症状に苦しんだものの、結果的にではあるが『どこにも酒などというものが無い』という環境に身を置いたおかげで、藍子は重度のアルコール依存症から抜け出していた。
「シスターアイコ、ご苦労さまでした」
教会を管轄していたのは、年配の穏やかなシスター長、そして無口という言葉では表せないほど全く話さない幼いシスターの2人である。
「今日は大漁だったみたいです。こんなにたくさん」
「まぁまぁ、これはこれは」
老いたシスター長は顔中をシワだらけにして満面の笑みを浮かべる。
「さぁさぁ、魚をさばきますから手伝ってちょうだい。シスターリズは少し休んで、それから干物作りを手伝ってくれるかしら」
「はい、シスター長」
小柄で虚ろな目のシスターリズは、外見も非常に幼く、恐らくまだ12歳程度であろう。
遥か遠く、シュワルツ・カステルへの侵攻戦に巻き込まれた藍子が、たまたま途中で保護した少女だ。
大柄な男、特にスキンヘッドの男を見ると極端に怯え、泣いてパニックを起こしてしまうため、まだ人通りの多い場所へ出歩く事は出来ないでいる。
心と身体両方に深い傷を受けたであろう少女の腹は大きく膨らみ、法衣では隠しきれないほどになっていた。
少女は子供を身ごもっていた。
人形のような無表情な顔を藍子に向けることもなく、リズは魚の入ったカゴを流し場へ運んでいった。
「あの子……大丈夫なんでしょうか」
「厳しいでしょう。あの小さな身体で、出産に耐えられるかどうかは」
老シスターは小さくため息をついて首を横に振る。
少女はお世辞にも成熟した身体ではなく、出産が命がけになるであろうことは藍子でも容易に予測出来る。
リズの顔は、王宮で何度か見かけたことがある。
確かあの聖騎士、村上允恭の世話係として割り当てられていた少女だ。噂では小児性愛者である允恭に毎夜毎晩のように犯されていたらしい。
「神がお守り下さることを、祈るしかありません」
リズの虚ろな表情を、藍子は見たことがあった。
王の御前試合で魔族の女を殺してから、自室に引きこもるようになった勇者、須藤誠の顔がそうだった。
あの勇者と呼ばれた若者の行方は、藍子には分からない。
女王の寵愛を一身に受けていたはずの若者は、他者の命を奪った罪の意識に耐えきれず壊れてしまった。
出征直前に允恭が語った話では、勇者須藤誠は薬漬けにされた挙げ句人食いの魔獣の巣へと放り込まれたとのことだった。今頃は骨も残らず、須藤誠という若者がこの世界に召喚された事すら、人々の記憶から消えつつある。
「どうして、こんなことに……」
「だから軽々しく動くなって言ったのよ」
小さな教会のドアを開けて入ってきたのは、小柄でやたら凹凸の少ない身体つきの女。そのすぐ後ろには、軽装鎧に両手剣を備えたやや大柄な女が立っている。
ゴルドベルクの住人となった笹川綾子、そして彼女に付き従う護衛の女騎士、アレクサンドラ・ライツだ。
「さんざ周りから持て囃されて、分もわきまえないで踊らされた挙げ句がこのザマよ。笑い話にすらならないわね」
「……さ、笹川……さん?」
「あら、覚えてたのね。えっと……小西さん? 大西さん? だったっけ?」
「中西です」
「ああそうそう、そうだった」
軽く流して、綾子は老シスターに会釈してから教会の礼拝所の椅子に腰掛ける。アレクサンドラは、綾子の背後に影のように付き従っている。
「で、あんたどうしてたの? 大魔道士だったっけ」
「……何も、してなかったわよ……何も出来なかった。私、私はなにも」
「そうみたいね。噂も聞かなかったもの。まぁ正解だったんじゃない? 責任持てない大きすぎる力なんて、身を滅ぼすだけだしね」
藍子と綾子が最初に会った日、綾子が語った言葉を、藍子は覚えていた。
自分の意志で手を差し伸べる以上、その結果には責任が生じる。情報が少なすぎる状況で戦うだの何だの、無責任なことを言うな、と。
「今更だけど……教えてくれない? 笹川さん、あなたこうなるってわかってたの?」
「分かるわけないでしょ。何がどうなってるかも分からない状況で、それで力貸せとか戦えとか言われて、それでハイそうですかとロクに考えもせず動くからこうなった。ただそれだけよ。私は、人の悪意と暴力がどれくらい恐ろしいものかよく知ってる。理解せざるをえない世界で生きてきた。あんたたちは平和な世界で生きてきたんだと思う。それはそれで幸せなことよ。本来私みたいなヤクザな世界、関わらずに済むならそれが一番よ」
教会の奥から軽い物音。
綾子と藍子が同時に視線を向けると、そこには大きなお腹を庇うように手を当てているリズが立っていた。
「お、おい、あの娘は……あの腹は、まさか」
アレクサンドラが目を大きく見開いて狼狽えたような声を漏らした。
「まさか身籠っているのか……? 腹の大きさからして、もうすぐ産まれるのでは」
「はい。あの子は……城勤めをしているときに高貴な方のお手付きになりました……」
老シスターは沈痛な顔で答えると、アレクサンドラは派手に歯ぎしりの音を漏らす。
「あの子もそうよ。本来ならドロドロした世界に関わらない方が幸せだった。あんなロリコンハゲの生臭坊主に差し出されて、周りの大人が守ろうともしなかった。あろうことか弱いモンを護るはずの騎士に犯されて、心も体も傷つけられた。その挙げ句があの姿よ」
「……そう……よね……」
「そ、そんな、そんな事が……まさか騎士があんないたいけな少女を孕ませただと……」
「そうよ。あんた達騎士団が散々持ち上げた聖騎士、村上允恭っていうド変態に、何の罪も無い、抗う力も術も持たないあの子を差し出した。その結果がコレよ」
綾子は静かに立ち上がり、ゆっくりとリズへと歩み寄る。
びくっと身体を硬直させたリズは全身を小刻みに震わせる。次第に奥歯がカチカチと音を立て始めるが、表情は全く変わらない。
「大丈夫。怖がらないで」
務めて優しい声と、優しい表情のまま、綾子がリズへと歩み寄り、しゃがみ込んだ。
「大丈夫よ。もう誰もあなたの事傷つけたりしない。もう心配しないで大丈――」
リズの震えはまだ止まらない。ガチガチと歯が音を立て、全身が震える。
ばしゃ、という派手な水音をたて、リズの足元に水たまりが出来た。
「……は、破水した!? まずい、産まれる!」
綾子の声に緊張が走る。
「シスター長! 産まれるわ!」
「なんてこと! 大変だわ! 皆さん手伝ってください!」
慌てた様子で老シスターが駆け寄ってくる。藍子は立ち尽くしてオロオロするばかりだ。
「私も流石に出産は初めてだわ。シスター長、あなたナントカ出来る?」
「えぇ。大丈夫。この村だけでも三十人は取り上げてますから、お産の手伝いは慣れています。シスターアイコ、あなたはできるだけたくさんお湯を沸かして。それから清潔な布を。あと村から女衆に声をかけて連れてきてちょうだい! 今すぐよ」
「じゃあアレクサンドラさん、あんたはお湯をお願い! 今すぐ! あと私は法術が使えるわ。出来ることがあったら言って。あと小西さん? だっけ? えっと……ああもう良いわ、アンタはさっさと行きなさい! 人手かき集めて!」
「助かります! さぁアイコ、早く動きなさい! シスターリズを、子供を助けるのよ!」
「は、はい!」
がくがくとおぼつかない足取りで、藍子は教会のすぐそばにある石段を駆け下りていく。
「法術士様、どうかリズをお護り下さい」
「うまく出来るかどうかはわかんないわよ。ただね」
真剣な顔の綾子は、リズの小さな手をしっかりと握り、力強く、それでいて優しい声を掛ける。
「大丈夫よ。あなたを守れる大人だっている。あなたを助けたいと思うモンだっている。あなたが頼って良い大人もいることを、私が見せてあげる。だから」
脂汗の浮いたリズの額にそっと小さな手を乗せると、綾子が力強く笑みを浮かべる。
「安心して生みなさい。大丈夫よ」




