転-9 獅子身中の虫
狭い公爵邸のなかでもっとも広い食堂が珍しく満員となったのは、アイザックがゴルドベルク王都パンゲアにあるダンタン中将邸にやって来た3日後のことだった。
結婚休暇中である上司、エミリア・ダンタン中将に殴り飛ばされそうになったアイザックだったが、彼女の夫であるサブの
『待て、随分と思い詰めた顔してやがる。話くらい聞かねぇと、上のモンの貫目が落ちるぜ』
という一言で、渋々拳を収め、事の次第をアイザックから聞くことになった。
同席の小柄な女、つい先ごろから『バルトークの聖女』と呼ばれ始めた笹川綾子も真剣な顔で、時折頷きながらアイザックの話に耳を傾けていた。
アイザックが事の顛末を伝え終えたあと、最初に口を開いたのは、以外なことに賢者小川菫であった。
『あ、あ、あ、あい、アイザ、ック、さんの、あ、あの、その、その、そ、その話、はや、はや、早く、おう、お、お、王、様に、つ、伝え、伝え、ないと』
珍しく菫は焦った様子で綾子とエミリアにすがりつく。
いつも表情をほとんど変えず冷静にして沈着であった菫の顔には、明らかな焦りと不安の感情が浮かんでいた。
『どうしたのスミレちゃん、何か不安?』
こくり、と小さく菫が頷く。
ぱちん、と小さな手で指を鳴らすと、どこからともなく霞が現れ、黒衣をまとった血色の悪い男が現れる。
『吾輩が代弁しよう。菫は口から言葉を紡ぐのが苦手だが、急を要する事態なようだ』
もはやその姿に驚くものはいないが、彼は単身で一国を1日で焦土と化すことも出来るほどの大悪魔、地獄の大公爵アシュタロスだ。
『公爵に危険が及ぶおそれが強い。公爵がゴルドベルクに帰順するという方針がサンサルバシオンの王都に届くまでにいささか時間がかかるだろう。が、第二騎士団から離脱した一団の中に王城からの間諜の類が紛れ込んでいる可能性を考慮せねばならん。となれば、最悪の場合、サンサルバシオンからの離脱を決めた公爵を消す恐れもある』
『ふん、道理だな。だがそうなれば我々は表立って動きにくい……アシュ、アヤコ、それにスミレ、頼めるか』
『もちろん、任せて。じゃあアシュさん、とりあえず急場だけでもそのナントカ公爵の実の安全の確保、頼める?』
『……我が主よ、構わんか?』
アシュの問に、いつになく真剣な表情の菫が大きく頷いた。
『よかろう、吾輩の下僕に公爵の身辺を護らせる。念の為吾輩も菫も、アヤコも現地に赴いたほうが良かろう。吾輩は菫から極端に遠く離れるわけにはいかん。それに公爵に万一のことがあったとしても、アヤコがいれば命を救うことも出来よう』
『そっか、それもそうよね。じゃ出るのは早ければ早いほど良いわ。私とスミレちゃん、それにアシュさんは今日にでも出発しようか。アイザックさんはその、えーと……ナントカ公爵の話をエアリアさんにも通しておいたほうが良いわね。エアリアさんからヨシュア様に話をしてもらったほうが通りが早いと思う』
『へぇ、わかりやした。それじゃああっしはすぐにでも大親分に報告に行ってきやす』
『お嬢、自分も』
思わず立ち上がったサブに向けて、素早くアヤコが手の平をばっと出して動きを停めた。
『何言ってんの。アンタは嫁といっしょにここで仕事すんのよ。いい? 新婚の嫁を放ったらかしにするような情けない男はいらないわよ? こっちは十分。私とスミレちゃんの身の安全はアシュさんがなんとかしてくれるでしょ。頼りにしてるわよ?』
アシュタロスは憮然と眉間にシワを寄せて綾子を睨みつけるが、胆力に関していうなら一軍の将をも凌ぐ綾子は表情一つ変えない。
『まったく、貴様という奴は……そこまで図々しく吾輩に指図をするやつは初めてだ』
『あらそう? 良かったじゃない、初めての相手が私みたいな可愛い女で』
『貴様を可愛いなどという男がいたら、そいつは目が悪いか趣味が悪いかのどちらかだろうな』
『はいはい、男がいちいち細かいこと言わない。ほら、さっさと出るわよ。10分で支度。エミリアさん、馬車の手配だけ頼んでいいかしら』
『うむ、任された』
こうして、アイザック到着からわずか1時間後、ダンタン中将邸を出発した馬車は全速力で東を目指して走ることになる。
通常であればバルトーク渓谷まで1週間の道のりであったが、菫が使う馬専用の回復術という非常にニッチな魔法のお陰でほぼ一日中走り続けることが出来ていた。
公爵領シュワルツ・カステルへ通じる橋を渡った一行には、ゴルドベルク側からアイザックの部下が同行することになった。
レッドドラゴン討伐の際に弓兵として活躍したエルフ族の男、ベイラックス・バイエル中尉は、アイザックの補佐として何度もバルザックと会ったこともあるため、顔つなぎ役として指名されることとなる。
無事にバルザック公爵邸に到着した一行は、公爵本人の案内で食堂へと招かれていた。
「お初にお目にかかります。私、エミリア・ダンタンの親分さんの下でお世話になっております、笹川組第二代組長の笹川綾子と申します。どうぞお見知りおきを」
独特の所作で綾子が短く公爵に挨拶をすると、菫が続いてぺこりと頭を下げる。
「お、お、お、おが、おが、わ、すみ、す、すみれ、です」
『吾輩は地獄の大公爵アシュタロス。この小さき賢者、菫は我が主である。くれぐれも無礼の無いよう心せよ』
ベイラックスが少し慌てたようにアシュタロスを睨みつけて、バルザックへと頭を下げた。
「すみません公爵、その、彼らは何と言いますか」
「あぁ、気にしないでくださいベイラックス中尉。彼らですね、我が父が召喚した勇者の一行という方々は」
バルザックは静かに立ち上がり、そして小柄な綾子と菫に向かって深々と頭を下げた。
「我が父の愚かな行いで、皆さんには取り返しのつかない苦痛を与えてしまいました。謝って許されることで無いことは百も承知ですが、代わってお詫びを申し上げます」
菫は驚いた顔で公爵の低く下げられた頭を見て、それから綾子の顔を見上げる。
綾子はふん、と短く息を吐いて、やれやれと言わんばかりに頭を振った。
「公爵閣下、今はそんなことをしている場合じゃないでしょ。とりあえず謝罪は受け取りますけどね、許す許さないは別問題。それよりも大事な用件を。アシュさん、頼める?」
『……やはり吾輩が話すのだな。まぁ良かろう。公爵バルザックよ』
まるで高位貴族に話す口調とは思えない傲岸不遜な態度だが、アシュタロスには不思議とその態度が自然に思えるほど堂に入っている。
『端的にいうぞ。貴様の身に危機が迫っている可能性がある。先ごろ第二騎士団とやらがこの地にやって来たであろう、全部で何人だ』
「第二騎士団……確か、アレクサンドラ・ライツ伯爵以下200名ですね」
『その一人ひとりを貴様が見知っているわけではあるまい。その者らの中に間諜が紛れ込んでいる可能性については考慮したか』
「……やはり、そうなりますね……もちろん、考慮しています。ですが今のところ彼ら第二騎士団に怪しい動きはありません。第五騎士団にもです」
『そうか。無論何事も無いのがベストではあろうが、今の状況にあっては希望的観測を根拠に動くのは無謀を通り越して愚かとしか言いようがない。公爵よ、貴様の身辺警護には吾輩の眷属を当たらせる。異論は認めん』
アシュタロスが指を鳴らすと、食堂がざわ、と不穏な気配で満ちる。
『案ずるな、常人には姿は見えんが』
地獄の大公爵と名乗った悪魔の口元が歪み、酷薄な笑みを浮かべる。
『こいつらの一人一人が、ゴルドベルクのオーガ兵10人に匹敵する。この館のあらゆるところに忍ばせた。貴様は普段と変わらず生活するが良い』
「そうですか……出来ればお1人だけでも、顔を見ておきたいところですが」
『ふむ、道理だな』
アシュタロスが軽く手を上げると、何も無かった場所に突然小柄な少年としか思えない体躯の人物が現れる。
『許す、名乗れ』
『御意に』
少年が上げた顔を見た公爵が、驚きと恐怖の入り混じった表情を浮かべ硬直した。
少年には、通常の左右の目と別に、額にもう1つの目があった。
仮面のように貼り付けられた笑顔からは、友好の意思とは明らかに異なるものしか感じ取れなかった。
『センチネルと申します、公爵閣下』
「……そ、そうですか……」
『閣下の安全は、小官がお守り致します。閣下に敵意を持つ者、害意を抱くもの、攻撃の意思を持つものは』
センチネルと名乗った少年の口が、まるで仮面のように笑顔を形作る。
『悉く排除いたします』
『屋敷の中に張り巡らせたのは、センチネルの「根」とも言えるものだ。複数の姿が見えるであろうが、それら全てがセンチネルだ。此奴は1人であると同時に100人でもあり、1万人でもある。此奴が護る以上、貴様の安全は保証された』
バルザック公爵と地獄の大公爵アシュタロスの会話の後、シュワルツ・カステルに逃れてきた第二騎士団から、実に40人もの騎士たちが拘束されたのは、翌朝の事だった。




