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承-3 ようこそ魔族領へ

 渓谷の向こう側が霞んで見えるほどの大渓谷、それがニンゲンの国サンサルバシオン王国の西の果てにあるバルトーク渓谷だ。

 太古の昔、レナータ近辺がまだ魔族領であり、そしてニンゲンと魔族が友好関係にあった時代に築かれたバルトーク大橋は、幅が数十メートル、長さが20キロに及ぶ世界最大の建築物の一つである。

 

「まぁよく作ったモンだわ」

 

 サブが御者を務める馬車の荷台から身を乗り出して、感慨深げに綾子が呟いた。

 同じく荷台で座っている菫は、先ほどからもくもくと小さな焼き菓子を食べている。

 

「しかし不気味よね。誰もいないなんて」

「事実上の国境で、そこに警備のモンもいないというのは、確かに不気味で」

 

 サブも綾子に答える形で久々に声を出した。

 渓谷にかかるバルトーク大橋には、綾子にサブ、そして菫の三人が乗った馬車以外なにもない。

 石で緻密に舗装された路面は馬車が通ってもそれほどガタつくこともないほど、良好な状態が保たれている。

 これはこの立派な橋を行き来するものが少ない、ということを意味している。

 橋の両端には街灯のようなものも備えられてはいるが、陽が高い今の時間帯はおおよその距離を測るための指標にしかなっていない。

 

「い、い、い、いま、い、ちょ、ちょうど、は、半分」

 

 菫が外を眺めながら呟く。

 街灯は正確に25メートルごとに配置されている。彼女は焼き菓子を食べながら、街灯の本数を数えていた。

 

「サブ、とめて」

「はいお嬢」

 

 不意に綾子がサブに馬の足を止めさせる。

 

「どうしました」

「ちょっと降りて景色見てみたいの。スミレちゃんも来る?」

 

 こくり、と菫が頷く。

 サブが馬車の荷台のすぐ近くに足場となる踏み台を置くと、綾子と菫は整備された石畳の上に降り立った。

 渓谷はかなり深く、谷底までは200メートルほどあるだろうか。落ちたらまず命はないことだけは確実だ。

 

「橋の中間ってことは、事実上この辺が国境ってことよね」

「はいお嬢、そのようで」

「で、その国境には、サル王国側にも魔族領側にも誰もいない、と」

「そのようで」

 

 無人だった。

 

 石畳には馬車の車輪で作られた轍がうっすらと刻まれているだけで、橋の端に築かれた柵も美しく整備されたままだ。

 

『我が主、菫よ』

 

 不意に綾子と菫の背後から低い声。2人が振り返ると、血色の悪い痩せた男が音もなく歩み寄っていた。

 

『何者かがこちらへ向かってきている。橋の向こう、魔族領とやらからだ』

 

 アシュタロスが視線を橋の西側へ向ける。

 遠くから小さく聞こえてきた足音が次第に大きくなって来た。

 その足音は、数十名が歩調を合わせて行進するかのようなものであった。

 

「お嬢、菫、荷台へ」

「私はいいわ。スミレちゃんは中に入ってて。アシュさん、一緒にいてあげて」

『ほう、貴様は入らぬか』

「話しつけなきゃいけないんなら、私が出るべきでしょ。ボスは私なんだから」

『ふむ、道理であるな』

 

 短くそう言うと、アシュタロスは軽やかに菫を抱きかかえ、ふわりと宙に浮かび上がる。

 

『菫の事は吾輩に任せておくが良い』

「ありがと。サブは私といっしょに」

「はいお嬢」

 

 足音はかなり近づいてきている。

 綾子が眼鏡をかけて遠くを見ると、先頭のかなり大柄な人物が集団を率いているような形になっている。

 

「一応、対話を試みるから。ダメだったら力ずくで押し通るわよ」

「はいお嬢」

 

 先頭の人物の顔が判別できる距離まで近づくと、大柄な人影が機敏な動きで手を挙げる。

 集団が一斉に足を止めた。かなりよく訓練された集団であることが一目でわかった。

 

「ようこそバルトーク渓谷へ。此処から先はニンゲン達が言うところの魔族領、もし迷われたのであれば引き換えされるがよかろう」

 

 よく通る声だった。大柄な人物はゆっくりと、1人で綾子たちへと歩み寄ってくる。

 燃えるような赤毛と長く伸びた耳、そして褐色の肌に真紅の瞳という組み合わせは、サブも綾子も初めて見るものだった。

 

「私はこの地の警備を任されている。エミリア・ダンタンという者だ。念の為問うが、何用でこのような辺境まで来られたか」

 

 綾子が1歩前に出る。サブが止めようとするが、手の動きだけで綾子が制止した。

 

「私は笹川綾子。サン……えっと……何とか王国っていう国に召喚? されたらしいけど、色々あって追放されたの。このデカいのは私の部下でサブ、馬車の中にはあと2人乗ってるわ。迷ってきたわけじゃない、できれば魔族領で保護して欲しい、亡命が望みよ」

「ふむ、なるほど」

 

 エミリアと名乗った大柄な人物は、更に綾子へと歩み寄る。

 筋骨隆々の体付きではあるが、その旨には山のように盛り上がった乳房がある。ほぼ無意識に綾子は自分の胸に手を当てたが、小さくため息を付いてすぐに手を下げた。

 

「ニンゲンどもがまた勇者召喚術を実行した、とは噂で聞いていたが、本当だったか。召喚しておいて追放とは、それは災難だったな」

 

 エミリアが優しい声をかけつつ後ろを振り返る。その先には、綾子と同じくらい小柄な、耳の長い女が立っている。

 小柄な女が大きく頷き、何事かの合図を送ると、エミリアも大きく頷いた。

 

「どうやらオマエ達の話に嘘はないようだ。亡命となると私の一存で判断できる問題ではないのでな、とりあえずは保護という形をとらせて頂く。そちらの御仁もそれでよろしいか」

 

 手を伸ばせば届くくらいの距離にまで近づくと、エミリアの巨体がいかに規格外かがよく分かる。

 おそらく身長は軽く2メートルを超えるだろう。サブよりも少し背が高く、鍛え抜かれた筋肉はサブにまさるとも劣らない。

 

「ありがとう、助かるわ。こちらの情報を一応伝えて置くけど、このデカいの、サブは『拳王』らしいの。馬車の荷台に居るスミレちゃんっていう小さい女の子がいるけど、彼女は『賢者』、スミレちゃんといっしょにいる顔色が悪いのはスミレちゃんの眷属みたい」

「ほう、拳王」

 

 エミリアの目が大きく見開かれる。口角が上がり、腕の筋肉が盛り上がる。

 

「なるほど、確かに……その立ち姿、体つき、鍛えからして、かなりの手練れとお見受けする。どうだろうか、御仁。私と少し手合わせしてみないか?」

 

 サブは眉ひとつ動かさない。当然綾子も断る……であろうと考えたサブの予測は、見事に裏切られた。

 

「あら、良いじゃない。サブ、遊んで頂きなさい」

「お嬢」

「こっちはいきなり押しかけて、亡命なんて面倒事を持ち込んでんのよ。誠意ってやつを見せないとね」

「綾子殿は話がわかる。私はこうみえて戦士でな、強き者との切磋琢磨の機会があるなら逃す手はない」

 

 エミリアの顔は、まるでおもちゃを眼の前にした子供のようでもあり、同時に獲物を見つけた獰猛な捕食者のようでもある。

 

「ルールは」

 

 サブが短く問いかけると、エミリアは一層嬉しそうな笑みを浮かべる。

 

「そうだな……武器は使わない。目を狙わない、降参の意思表示か続行不能で決着、でどうだ」

「わかった」

 

 サブの言葉は短かった。低い声で答えると、ゆっくりとエミリアの巨体に向かって脚を踏み出す。

 

「お嬢、合図を」

 

 途中まで言いかけたサブの言葉は、まるで交通事故のような衝突音でかき消された。

 エミリアが鋭く踏み込んだと同時に、足元の石畳が1枚粉砕されている。エミリアの岩のように固く握りしめられた拳が、サブの腹を捉えていた。

 

「ずいぶんとお行儀が悪いな。だが」

 

 だが、サブの鍛え抜かれた腹筋を貫いてはいない。分厚い岩盤のような筋肉に阻まれていた。

 

「俺は嫌いじゃねぇ。度胸もある、イイ女じゃねぇか」

 

 再び衝突音。

 至近距離から『拳王』のスキルを持つサブの拳が、エミリアの顔面を狙った。

 こちら側の世界に来る以前から、瓦やコンクリートブロック程度ならやすやすと粉砕し、機動隊のポリカーボネートの防弾盾に亀裂を入れるほどの威力を誇るサブの拳は、エミリアの両腕のブロックで防がれた。

 

 エミリアの背後に居る集団がざわついた。彼女がこうして攻撃を防ぐ事自体、珍しいのだろう。

 

「嬉しいぞ、私の拳を受けて生きていた者すら珍しいが、まさか反撃してくれるとは」

 

 まるで2体の闘神像のような2人の立ち合いは数十分に及んだ。

 大きな拳が飛び交い、時折血しぶきまで舞う。石畳はところどころ踏み割られ、渾身の踏み込みはまるで地響きのような音すら立てていた。

 

「オマエ、サブだったか」

 

 肩で息をしながら、エミリアが満面の笑みを浮かべて話しかけてきた。鼻血が出て、髪は乱れている。

 

「私の部下にならんか?」

「悪い話じゃねぇな」

 

 同じく、顔を赤く腫らし口の端から血を流したままのサブが笑みを浮かべる。

 

「だが、俺の上に立つのはお嬢だけだ。オマエこそ、俺のオンナになるか?」

「ははっ、見事だ。ますます気に入ったぞ、サブとやら」

「そうかい」

 

 サブが答えると、エミリアがどかっと勢いよく石畳に腰を下ろした。

 

「参った! ここまでだ!」

 

 豪快な声でそう言うと、大口を開けてエミリアは豪快に笑う。

 

「初めてだ! 私と互角に渡り合った上、私よりも殴り合いが強い男など生まれ出てより250年、初めてのことだ!」

 

 はっはっは、と笑い声を上げるエミリアを、彼女自身が引き連れて来た集団もぽかんと眺めている。

 

「サブとやら!」

「なんだ」

 

 エミリアが実に嬉しそうな、鼻血を拭ってもいない顔をサブへと向けた。

 

「決めたぞ、私はオマエの妻になる!」

「はぁ?」

 

 思わず素っ頓狂な声を上げたのは、綾子だった。

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