消された記憶
ーー窓の外から雨の音がする。
シリウスとベテルギウスが部屋を出て行ってから、だいぶ時間が経った。ラビィは腕をさする。痣は痛むものの、歩けないほどではない。
彼女はもう一度手鏡で自分の姿を見る。大きな赤い瞳、さらさらの白い髪。腕、足、ワンピースの上からお腹に触れてみた。
ーーわたしはなにかが原因で一時的に声が出なくなっていて、記憶も失ってしまったということだよね。
ーーん、んーーーっ。
やはりいくら声を出そうとしても、声は出せない。この状況はかなり生活に支障がありそうだ。彼女は声が出せないかわりに、身振り手振りで相手に気持ちを伝えてみようと考えていた。
ーーガチャ。
部屋の扉が開く音が聞こえた。
「ーーお待たせ、ラビィ」
ーーこの声はシリウスさんだ。
「ああ、その様子だと、部屋でずっと待っていてくれたんだね」
ラビィはうんうんと頷く。
「表情が明るくなったね。夕飯までまだ時間があるから、少しだけ僕のお屋敷を案内しようか」
ーーそういえば、さっきまで一緒にいたはずのベテルギウスさんの姿が見えない。
「ーーああ、ベテルギウスは自分の家に帰ったよ。今、このお屋敷には僕とラビィと限られたメイドしかいない」
ーーそうなんだ。
「近々、もう一人の友人も貴女に紹介するね」
ラビィはうんうんと頷いてシリウスのあとをついていく。
ーーこのようすだとお友達との話しは深刻な話しではなかったみたい。なにもなくてよかった。
廊下を歩いている途中、自然にラビィの手がシリウスの手に軽く触れてしまった。
ーーあっ、ごめんなさい。
彼女はすぐに手を離した。
シリウスはラビィの視線を追う。
ーーああ、シリウスさんはすごく優しくて、ついつい頼ってしまいそうになる。わたしもしっかりしないと。
ラビィは下をうつむく。表情は白くて長い髪で隠れていて見えない。
シリウスは、笑った。
廊下を通り過ぎるとき、大きな窓から庭を見た。お屋敷のメイドが持っていた傘を折りたたんでいる。
ーー雨があがったみたい。
キッチン、バスルーム、トイレ、二階の客室、広々としたお庭。手入れをされた花壇、柑橘系の木々ーー……。
「明日は僕も休日だから買出しに行こう」
ーーおかいもの?
「これは女性をお屋敷に招いている上で、たいへん申し訳ない話しなんだけど、客人の貴女が着る衣服が全く揃っていなくて、明日一緒に見て欲しいんだ」
ーーたしかにクローゼットの中には女性もののお洋服がたくさんありましたが、それは他の誰かのもので、わたしが着れるサイズのものではありませんでした。
ーーしかし、わたしはお金がない。お金……もってない。
ラビィはまるでうさぎのように小さくなった。
「ーー? なに? その可愛らしい仕草は僕にいったいなにを伝えたいの?」
ラビィは「金がない」とは、はっきりと言えなかった。だから、うさぎのふわふわの両手を胸の前でバツにして言った。シリウスはかがんで真っ白なうさぎの小さな唇を凝視する。
ーーい。
「ーーい?」
ーーけ。
「ーーき?」
ーーちがう、シリウス。わたしの口をよく見て! よーく見て!? ケのお口。これはケのお口だよ。
「ーーま・せ・ん? ハァ?」
ーーまずい。わたしの口が小さすぎて、口パクでは伝わらない!!! いっしょうけんめい考えたのに失敗だ。
「この僕の誘いを断った……」
ーーああっ、ちがいます! わたしは、いけませんと伝えました。それをシリウスさんはいきませんと、《《ごかい》》したまでですっ!
「ーーふぅん。この僕と買い物に行きたくないんだ。ーーわかった、じゃあ、明日楽しみにしててね」
いきなりシリウスの口調が変わった。彼の機嫌をそこねてしまったようだ。
ーーあああ、そんなつもりはなかったんだ。
「手を握っても?」
ラビィがふらふらと歩いていたから、それが危なっかしく見えたのか、ぐいっと手を握られた。彼の骨ばった大きな手のひらに安心する。
シリウスは笑みを浮かべた。
そのあと、二人はお屋敷に戻り、食事を共にした。夕食はお肉に野菜を巻いたスープ。焼きたてのパン。デザートにアイスクリームの焼きリンゴ添えが出た。
食事のあと、ラビィは大きなバスルームを借りて、メイドさんに付き添ってもらいながら入浴した。魔法が使えない彼女はメイドさんの持つ特殊な魔法具の魔法で髪を乾かしていた。
「魔法って便利なものなのね」
昨日の今日なので、彼女の体はだいぶ疲れていて、髪を乾かして貰うときに眠気が襲って、乾かして貰いながら眠っていた。
あたたかくて、ふわふわと気持ちいい気分になって。だれかの懐かしい声が遠くで聞こえて来る……。
「ーーおやすみ、ラビィ」
ラビィは深い眠りについた。
☆
〈☆シリウスのお屋敷。リビングルーム。〉
部屋にはたくさんのトランクが並べられる。一つのトランクを開けると、可愛らしい靴が出てきた。次のトランクを開けると、綺麗なワンピースが出てくる。もう一つのトランクにはつばの大きな帽子が出てきた。
「もう、いりませんとは言わないよね?」
椅子に座ったシリウスが足を組んで得意げにラビィのことを上から見下ろしている。
乙女ごころをくすぐるかわいさとすてきがいっぱい詰まった空間。メイドたちもその様子をうっとりと眺める。仕立屋の店主がトランクを開けたり閉めたりする度に新しい洋服が出てくる。
ーーうわぁ、まっしろなワンピースや小花柄のかわいらしいワンピース。この生地にレースの上着をあわせたら清楚な感じでとっても良いんじゃない? 靴はサンダルもいいけど、ヒールがあまり高くない靴も歩きやすいだろうなぁ……。……あっ、そうじゃなかった、わたし、お金を持っていないんだっけ。
シリウスは紅茶を飲んでいる。
メイドたちは物珍しいトランクに夢中だ。
ーーとても話しを切り出せる雰囲気じゃない。
「どのお洋服もラビィさんにお似合いですね」
「お着換えもするからせめて一日二着……最低でも六なり十あっても問題ありませんね」
ラビィは朝一番に、シリウスのところに行き「おかね」と、伝えたのだが、「お菓子」と、伝わってしまい、キャンディを渡された。もう一度、「おかね」と、伝えたら、「おもち?」と、首を傾げられた。おそらく、お金という言葉はシリウスには通じないらしい。
ーーああああ、この状況いったいどうすれば。
なかなかラビィは洋服を選ばないものだから、シリウスは紅茶でお腹がだいぶ膨れてしまった。
「それではラビィの部屋のクローゼットを一つ、仕立屋と契約しよう。そちらにこちらから注文したものを直接納品していただいて構わない」
ーーんんっ!?
「それでは定期的にお店のカタログも転送させていただきますので、お好みのものがございましたら、お申込みください」
ーーえええっ!?!?
「ーーそれで問題ない」
ーー!?!?!? クローゼットをけいやく? お洋服をのうひん? 転送? はなしについていけない。
「……それでスターのことだが、支払いは納品時に請求書も一緒に送って貰えるか?」
ーースター?? もしかして「スター」って、「おかね」のこと? スターと、言えば、伝わるのね。私は、そっとシリウスのそばに寄って相談した。
「スターを持ち合わせていない? ーーそんなのあたりまえだろう。第一に、君に払わせるワケないだろう」
ーーうっ、うしろのメイドたちの視線が突き刺さる。見知らぬ人に食事や住居を提供していただいている上に、自分で使う洋服も買っていただくことになってしまうなんて。
シリウスは洋服のカタログをペラペラとめくったあと本を閉じた。
「ーーこれから、君には僕のそばについて仕事をしてもらうのだから、これくらい当然だ」
ーーおしごと!?!?!?
「ーーふふっ、かなり重要で責任のある仕事だ」
ーーその、笑みが、こ、こわいんですけど。
☆
〈☆騎士団教会。門前。〉
「ーー相変わらず、教会に入る時は緊張するな」
「お久しぶりです、ベテルギウス様」
教会の門番はベテルギウスに深く頭を下げる。ベテルギウスは上下黒の戦闘服に身を包む。肩の星と雪結晶、胸元の星と狩人の紋章がキラリと輝いていた。自分の魔法具である弓と弓矢を背負っている。彼の赤髪とオレンジ色の瞳は太陽の影に隠れる。
「事前に団長に話はつけたが、中に入れて貰えるだろうか」
「お話は聞いております。受付へどうぞ、こちらです」
ベテルギウスは騎士団の教会へ入って行った。長い髪を金の髪飾りできつく結んでいるからなのか、いつものやわらかな印象の彼とは違って見えた。
〈☆騎士団教会。客室。〉
☆
客室の扉が開く。
「ベテルギウス様、団長はもうすぐ戻られます」
「急な訪問に対応していただき、感謝する」
「いえ、こちらこそ、お戻りいただきありがとうございます」
ベテルギウスは天井を見た。自分が在籍していた頃と何も変化のない部屋。窓。毎日見ていた窓の外の風景。
「戻ってきた……つもりはないんだけどな」
ベテルギウスは鼻で笑う。
まだ時間がかかりそうだったので、彼は椅子に座るように言われたのだが、自分の定位置は扉の前だったので、と、何度か断っていた。
扉の外、通路には騎士団の仲間が声をかけて来た。ベテルギウスは優しく微笑んだ。
「……さぁ、ここからどうやって旧友を騙そうか」
静かな部屋に時計の音が鳴り響く。