13 疑念
ローランド卿との約束の日が迫ってきた。ある日の夕暮れのことだ。シアーズは甲板に乗組員を全員集めてた。
「これから俺は、ウィリアム・ローランドのもとへ行く。お前らも気づいてたと思うが……あの女、シルヴィアはセイレーンだ。あいつは今、ローランドのところにいる。率直に言えば、俺はあいつを助けたい。だがローランドが交換条件を出してきた。セイレーンを釈放する代償に、俺に公賊になれという……」
『セイレーン』と言う時、シアーズは自分の声がつかえるのが分かった。彼女を今までそんなふうに呼んだことなどない。呼ぼうとも思わなかった。
乗組員達の空気が張り詰めるのが、手にとるように分かった。当然だ。今まで海賊の中でも、シアーズの一団は自由の代名詞になるほど勝手気ままな暮らしをしていた。それが、たかが女一人のために女王の犬に成り下がろうというのだ。世の人々は何と言おう。
気持ちを落ち着けるように深呼吸をして、彼はまた口を開いた。視線が彼に集中する。
「俺がわがままを言っているのは分かっている。だからこそ、お前らに聞きたいんだ。明朝、もう一度ここに集まってくれ。公賊として仕えるのが嫌な奴は、その時に言ってくれ。ロンドンに行く前に他の港に寄る。そこで別れよう。言っておくが、止めはしない。自由にしてくれ。俺のわがままに付き合える奴だけ残ってほしい。忠告しておくが、俺と残ればただでさえ短い一生を女王の犬として使われる。逃げるチャンスは無いかもしれない。明日の朝までによく考えてくれ」
シアーズは足早にその場を去った。乗組員の誰もが無言で迷っているのが、背中で感じられた。当たり前だ。もしかしたら、一人になるかもしれない。若干の恐怖を感じるが、それでもいい。自分のわがままにこれ以上、他人を苦しめる理由も無い。彼らにはもともと関係のないことだったのだから。
その夜は船が暗い雰囲気に包まれていた。シアーズは誰にも会おうとしなかった。船長室にこもり、海図をぼうっと眺める。何もする気が起きない。自然に涙が出てくる。海賊になって以来、泣いたことなどほとんどない。今となっては女一人のためなんかに泣くことはないと思っていた。
ただ一人。ただ一人が恋しくてたまらなかった。
翌朝、シアーズは再び乗組員を甲板に集めた。永遠に来ないでほしいような、早く過去にしてしまいたいような瞬間だ。
太陽が嫌味ったらしく世界を照らす。心と裏腹の白い光を放つあの眩しさが憎らしい。こっちが今、どんな気持ちかも知らないで、全てをはっきりと映し出すのだ。いつだってそうだ、太陽というやつは。
シアーズは目を閉じ、そして重い口を開いた。
「公賊になるのが嫌なやつは、はっきり言ってくれ。俺に構うな。無理をするな」
乗組員の誰もが、真剣な表情でシアーズを見た。長い沈黙があった。誰も微動だにしないのを見て、シアーズは焦った。おかしい。こんなことはあるはずがない。
「誰かいないのか?本当に無理をする必要はないんだぞ。てめえの命のことをもっと考えろ。俺について来たって美味い汁は吸えやしねえんだぜ」
乗組員の一人がおそるおそる口を開いた。
「キャプテン。俺達、昨日皆で話し合ったんでさあ。俺達皆、死にそうなところをキャプテンに助けられた奴ばっかだ。たしかに俺達は頭も良くないし、世間から見ればどうしようもない奴ばっかだ。それでも、自分にとって正しい道を見極められないほど目玉も脳ミソも腐っちゃいねえや。キャプテンと契約した時から、一生をキャプテンとこの船と共にしようと誓ったんだぜ!俺達皆、キャプテンについて行ってやるよ」
乗組員たちの間から次々に同意の声が上がった。
「お前ら……」
シアーズは目頭に熱いものを感じた。この時ばかりは涙を情けないとは思わなかった。こんな人間を、キャプテンだと慕ってくれるなんて。なんという馬鹿者の集まりだろう。海軍にいた頃には知らなかった世界。知り得なかった人。それが今、こんなにも嬉しいなんて。
ファントム・レディ号は誰一人欠けることなく、再び港を目指して帆に風をたっぷりと吸い込んだ。
約束の日まであと八日といった頃だ。どうやら噂の方が先に港に着いたらしい。アート・シアーズが恋人を救うため、公賊になるらしいという噂でどこも持ち切りだった。もちろんローランド卿の耳にも入っていた。シアーズにすれば、なんという汚名だろう。
「やりましたね、閣下。ついに魔物もシアーズも手に入れることが出来ますよ。これで閣下の長年の努力も……」
ローランド卿の部下が先日捕まえた海賊の罪状を整理しながら、笑顔で言った。対してローランド卿は慎重だった。あまり喜んでいないようだ。
「あんな根拠のない噂を信じるな。当人が来て確認したわけじゃあないんだ」
「でも、何か動きがなければ噂もたたないでしょう」
「それはそうだが……作り話の可能性だってある」
証拠のない噂など、水と同じだ。掴んでも、簡単に手からこぼれる。後には何も残らない。
ローランド卿は窓の傍に歩み寄った。眩しい光が顔に当たった。この仕事場は、すぐ港に通じている。海の水が、きらきらと光を反射している。絶え間なく揺れ動く光に、ローランド卿は気が遠くなってきた。ぼうっとする。
長年の努力、か。自嘲気味の笑い声が出そうだ。ローランド卿は手を握りしめた。
海賊と魔物を一掃し、この世に平穏をもたらす。覇権を握ったイギリスが世界に平和をもたらす。結果として市場は栄え、帝国はますます発展する。皮肉なことだ。本来なら今とは全く逆の立場にいるこの私が、軍人として、貴族として。女王の犬として、帝国を支えようなどとは。
反射した光が目に入る。急に現実に呼び戻された彼は、光から逃れるようにその場を離れた。




