アリス・アルハザード(2)
真っすぐ外に出ると甘いバラの香りがした。
辿って行くと、高台の風下に立って煙草を吸う菅さんの姿を見つけた。アキちゃんも隣にいる。私に気付くと、菅さんが煙を巻いて振り返った。
「終わったのか?」
「はい」
「予定より早いが、アリス博士の体力を思うとこんなものか。どうする? もう戻るか?」
「アキちゃんと、少し散歩してもいいですか?」
「構わない。そこの道が軽い散歩コースになっている。私はここでヤニを補給しているから、ゆっくりしていけ」
「ありがとうございます。行こ、アキちゃん」
「……うん」
そっとアキちゃんの手を取って、菅さんが煙草で指した道を行く。
山の中なのに平坦で整備された道だった。
ずっと続く手すりの向こうには、山並みと街を見渡す壮大な景色が広がっている。時刻はお昼から夕方に向かいつつある頃、山の風は一足先に冷たくなり始めていた。
「アキちゃんの気持ち、ちょっと分かったかも」
「そうなの?」
「あの人、私のお母さんに似てる」
「そうなんだ……」
アリス博士に会うと決めてから、アキちゃんはずっと無口だ。カラオケに居た時とは別人のよう。そうなってしまう理由を何となく察した。
私もお母さんに会う時はこんな感じだ。
二人で黙ったまま、山の中の散歩道を歩く。
けれど重たい沈黙ではなくて、繋いだ手を通して雄弁にお喋りしているような、意味のある沈黙だった。
散歩道はコテージの周りを一周するように作られているようで、半周したくらいの所で、私の方から言葉にした。
「ねぇ、アキちゃん、ちょっと思ってたんだけどさ」
「うん」
「ちゃん付けって、なんだか子供っぽいし、次からはアキって呼んでもいい?」
「そうかな? そうかも? リリちゃんがそうしたいならいいよ?」
「私のこともリリって読んで欲しい」
「分かった、それじゃ、そうしよっか」
「うん、よろしくね」
繋いだ手を持ち上げ、アキがようやく微笑む。
それからは新しい呼び方を確かめるように、なんでもない話をしながら散歩を続けた。
寮のご飯の何が好きとか、次に遊びに行く時はどこに行こうとか、本当に取り留めのない、ささやかなお喋りをひと時続けていると、あっという間にもう半周して、コテージの正面に戻ってきていた。
待ちわびたのか、菅さんが車に寄りかかって待っていた。
「お帰り。もう戻ろうか。私も用事ができた。今からなら寮の夕食にも間に合うだろう」
「はい、分かりました。よろしくお願いします」
「秋穂、お前はこのまま泊まりだ。アリス博士が話したいようだよ」
「うん、わかった。安全運転でね? アカネちゃん」
「私をちゃん付けで呼ぶのはお前くらいだよ」
菅さんが運転席に入ってから、アキと視線を合わせる。
「じゃ、アキ、また明日」
「うん、またね、リリ」
二人だけで挨拶を交わして、私は後部座席に乗った。
ドアを閉めても、アキは手を振って見送ってくれる。私も見えなくなるまで手を振り返して、車が本格的な下り道に入ってから、ようやく前を向いて息を付いた。
「どうだった? 我らがCEOは。何を話した?」
菅さんが前を見たまま問いかけてくる。雑談以上の意味はないだろう。
「何を話したかは、監視カメラの映像を見返せば分かると思います」
「それはそうだが、私は君の感想が聞いてみたいんだ」
「感想……そうですね、特に」
「特に?」
「特に感想はないです。可も不可もなく、102歳のお婆さんでした」
菅さんがブッ、と吹き出し、大きく笑い声を上げる。
そんなリアクションもするんだ、この人。
「君は本当に面白いな。世界5本の指に入る金持ちだぞ? 彼女の一言で国一つが傾く。想像できる限りの偉いさんを思い浮かべてみろ、そいつが喜んで靴を舐めるほどの人物だ。普通なら緊張して話すことすら難しいだろうに」
「そうなんですか? まぁ……こんな性格ですから。ごめんなさい」
「謝ることはない。彼女も君のそういう所を気に入ったんだろうよ」
菅さんの運転に身を委ね、何を思うでもなく外の景色に目を向ける。
アリス・アルハザード博士は、次の日を迎えることなく息を引き取った。




