41. 馬車からの逃亡
(……ここは……)
かたんかたん。単調な揺れでアデリナは目を覚ました。
ばっと起き上がり、辺りをきょろきょろ見回す。ずきりと頭が痛んで顔をしかめた。
両手首を前でひとくくりに縛られている。が、他に拘束されている場所はない。
視界に飛び込んできたのは、無造作に置かれた荷物。白い幌。
一定調子の揺れと合わせて連想するのは、馬車の荷台。
(あれは、お姉様の侍女だった……)
そう。アデリナに薬を嗅がせたのは、姉の侍女だった。
(でも、どうして?)
御者席に並んで座っている人間の会話が聞こえてくる。アデリナが意識を取り戻したとは思っていないのだろう。
「あのお嬢さんを置いてきていいのか?」
「使えない人間を切り捨てるタイミングは早いほうがいいでしょう。あのお嬢さんじゃ辺境伯の心は動かせない。私が辺境伯の屋敷に堂々と入り込めた時点で役目は終わり」
侍女と男の声だ。アデリナは意識を失っているフリをしつつ、会話に耳を傾ける。
「おいおい。ひどいなあ。あのお嬢さん、王妃になる気満々だろう?」
「あの方の好みとは外れてるの知ってるでしょう?」
「まあな。俺もあの気性の激しいお嬢さんに跪くのはごめんだよ。でもどうして妹の方を攫った?」
「使えるからよ。使用人の話だと辺境伯は妹の方に執心している。でも、ファーデン王国にいる限り『雷』と辺境伯が結ばれる道はないから、説得する隙はある」
アデリナは小さく息を呑んだ。
「なるほどなあ。婚姻を餌にアビオン側についてもらうわけか」
(ライナート様はそんな方じゃないわ)
彼らはアビオン王国の勢力なのだろう。王子は三人。一人は失脚したがまだ二人いる。
ヨーステン辺境伯領を手に入れるために、ライナートと交渉しようとしている。アデリナはその交渉材料だ。
オーティスという反面教師もいるのだ。ライナートが『雷』を選ぶことはあり得ない。彼は身の程をわきまえている人だ。
(これ以上、ライナート様に迷惑をかけるわけにはいかないわ)
おそらく彼らは近いうちにヨーステン辺境伯――ライナートに接触するだろう。ライナートがどう動こうが、彼を煩わせてしまうことには変わりがない。
今の自分に出来ることは何か。必死に考える。
(まず、ここから逃げないと)
幌と荷台の隙間から差し込む日差しは明るい。
まだ日が高いようだから、連れ去られてそこまで時間は経っていないはず。
アデリナは拘束された手を動かして、左手首にはまっていた腕輪を外す。そこまでギチギチに結ばれていなかったおかげでなんとかなった。
あとはどこから飛び降りるか。
幌は丈夫な布だ。刃物があればざっくりと切れたのだが、いつも読む物語の主人公じゃあるまいし、普通の貴族令嬢が刃物など持ち歩いているわけもない。
後方は、ものの出入りのために、扉のような作りになっている。もちろん扉部分も布で外から紐で結ぶのだ。
上下三箇所ずつ、縦に三箇所。
アデリナは隙間に手を突っ込んで、結び目を探り当てる。まずは下から。紐が堅いが、ほどくことを前提にしてあるので、変な結び方がしてあるわけではない。
自分がくぐり抜けられるほどの空間があればいいので、全部をほどくつもりはない。上は無視していいだろう。
(ほどけた)
アデリナははやる気持ちを抑えるようにして、幌の紐をほどいていく。
こんなに集中したのは久しぶりだった。
紐がほどけたので、風に吹かれて布の扉がはためく。
(――これで、大丈夫)
あとは飛び降りるだけ。
アデリナはゴクリとつばを飲んだ。
(やるしかないわ。女は度胸よ)
――覚悟を決めたアデリナは走っている馬車から飛び降りた。
そもそも前で手首を縛られているのだ。身体のバランスを取るのが難しい。
着地の瞬間、身体をすくめてしまったせいだろうか。パチリと『雷』が発動する。幸い、あまり大きな音はしなかった。
着地に失敗したアデリナはごろごろと土の道を転がった。
意外なことに、身体の痛みはそこまでなかった。打ち身だって擦り傷だって覚悟していたのに。
翡翠のドレスも思ったよりは汚れていない。
が、今はそんなことを不思議に思っている暇はない。
布の扉をひらひらさせたまま、馬車が遠ざかっていくのが見えた。
まだ逃げ出したことは気づかれていないようだ。流石に動いている馬車から飛び降りるとは思っていなかったのだろう。
今のうちに逃げなくては。
アデリナは辺りを見回した。馬車が進むのとは反対方向に小さな集落が見える。
とにかく、ヨーステン辺境伯の屋敷に連絡を取ってもらわなくては。
アデリナはなんとか立ち上がると、全速力で走り出した。
手首を縛られている上、ドレスはお世辞にも走りやすいとは言えない。カーロの街でコーエンから逃げたときよりもさらに条件は悪い。
それでもアデリナは、目の前に見える集落に向かって、必死になって足を動かす。
バチン!
アデリナの背後で、異能が発動する音がした。何かを雷がはじいたようだ。
もしかしたら、アデリナが逃げ出したことに気づかれたのかもしれない。
が、気にする余裕はない。アデリナは意識をひたすらに前に向ける。
少しでも早く。助けを求められる人を探すのだ。
異能が発動する音を聞きながら、アデリナは走り続けて――。
道にあった小石に躓いた。
危ない。
反射的に手をつこうとするが、縛られている手首ではうまくいかない。
変な風に転んでしまった。擦りむいたのか膝がズキズキする。手首も変にねじったのか痛い。
「――走っている馬車から飛び降りた度胸は認めてやろう」
男がゆっくり近づいてくる。アッシュブロンドの髪を短く切った体格のいい男だった。先ほど馬車で聞いた声と似ている。
立ち上がろうとするアデリナを牽制するように、男が手の平を一回振る。
その動きに呼応して生まれたのは、風を纏った火の玉だった。――異能だ。
が、それはアデリナの雷にはじかれて、消える。
先ほどから何度か発動していた異能も、これが原因だろう。
「本当に忌々しい異能だな」
男が舌打ちをする。
アデリナはなんとか立ち上がると再び走り出した。
が、このままでは捕まるのは時間の問題だ。せめてあそこで転ばなければまだなんとかなかったかもしれないのに――。
それでもアデリナは逃げようと必死に走る。
前方から一騎の馬が駆けてくるのが視界に入った。
「アディ!」
馬がアデリナの目の前で止まる。降り立ったのはライナートだった。
ライナートの胸にそのまま飛び込もうとして、アデリナは一瞬躊躇する。
が、次の瞬間、アデリナはライナートにきつく抱きしめられていた。
「アディ。よかった……」
その切実な声が以前と変わらない気がして嬉しかった。
「執心、という報告は間違いないようだな」
男の声がして、アデリナの心が冷える。どうやら追いつかれてしまったらしい。
「とにかく、ここは俺にまかせてほしい。あなたはここで」
ライナートがアデリナをかばうように前に出る。男と対峙する形になった。
「無駄なことはやめた方がいい。アビオンの次期王はもうマルクス殿下に決まっている。お前たちの主が王になることはない」
ライナートが淡々と告げると、男がかっと目を見開いた。
マルクスというのはアビオン王国第二王子の名前のはず。
「馬鹿を言うな! まだ決まったわけではない!」
「決まっている。嘘だと思うなら、中央――王宮に問い合わせればいい」
「うるさい!」
男が異能を使うが、ライナートが自分の周りに張っていたらしき結界に吸収される。
ライナートがため息をついた。
「自分の主を心配した方がいいんじゃないか。マルクス殿下はこの際、王宮の膿を全部出すと言っていた。一人蹴落とすも二人蹴落とすも同じだ、と」
そのとき、アデリナは男の後ろから侍女が近づいてくるのに気づいた。
「ライナート様! あそこ!」
アデリナが侍女の方を指さすが、侍女は平然としている。
異能を使おうとしたのだろう。侍女が手を突き出して……目を見開いた。
「どうして……!」
「あなたの前に『結界』を張っただけだ。大方『目くらまし』で逃げようと思ったんだろうが、それくらいは防げる」
少し遅れて騎士たちがやってきた。
アデリナを連れ去ろうとした男と侍女は、騎士たちによって捉えられた。




