40. 『無能』
少しときは遡る。
「ごめんなさい。ライナート様!」
ライナートにとって誰よりも大切な女性が、顔を真っ青にして駆けだした。
「アディ!」
思わず大声を上げてアディ――アデリナを追いかけようとするが、先ほどアドリーヌ・ブラムバーグを名乗った令嬢に、腕を掴んで阻まれる。
心の中はとても急いている。目配せをすると察した使用人たちがアデリナの跡を追ってくれた。
それを確認してから、ライナートは冷えた視線をアドリーヌに送る。腕を振りほどかない自分を紳士だと褒めてやりたい。
「何か?」
「あの子のことはどうでもいいでしょう?」
本当に似ていない姉妹だ、とライナートは思う。ミランとアデリナも顔立ちはあまり似ていなかったけれど、髪と目の色は同じだった。しかし、アドリーヌはどちらとも顔が似ていない上に、髪と目の色も全く違う。
彼女がアデリナに全く似ていないことは感謝したかった。おかげで手心を加えようという気持ちがゼロになる。
「何故?」
「だって、わたくしがあなたの本当の婚約者ですもの」
しなだれかかってこようとするアドリーヌが不快で、ライナートはよける。アドリーヌが蹈鞴を踏んだ。
今まで美人ともてはやされてきたのだろう。男が自分を拒むとは思っていないのだ。アドリーヌは自分が拒否されたことに気づいて、顔を真っ赤にする。
「あなた、『器』の公爵令嬢であるわたくしに、このようなことをしてもいいの?」
「先に礼を欠いたのはあなたの方だと思うが」
ディオから「厄介なのが屋敷に居座っている」と先日連絡をもらっていた。
「それで、屋敷を探って何か収穫はあったか?」
自分でも驚くくらい冷え冷えとした声が出る。
「なっ」
「内装を指南すると言って、あらゆる部屋に入り込んでいたという報告は受けている」
言葉を失っていたアドリーヌだが、うやむやにすることを選んだらしい。蠱惑的な笑みを浮かべる。
「いいの? わたくしは『器』なのよ? 特家において喉から手が出るほどほしい存在じゃない?」
こびるような声に怖気がした。小さくため息をついて、アドリーヌを見つめると静かに告げた。
「たとえ世界中に女性があなた一人しかいなかったとしても、俺は絶対にあなたを選ばない」
「何ですって」
アドリーヌの水色の目がこれ以上ないくらいにつり上がる。
「俺が選ぶのは最初にここに来たブラムバーグ公爵令嬢――アディ、ただ一人だ」
「あはははははははははは」
しばらく沈黙していたアドリーヌが、急に気でも狂ったかのように哄笑を始めた。それから、血走った目でライナートの方に人差し指を向ける。
「馬鹿じゃないの。残念だったわね。あの子の異能はただの『雷』。特家の当主であるあなたと結婚できるわけがないわ。それとも、前辺境伯のように愛を選んで再び断絶させるつもりかしら」
アドリーヌの水色の目がギラギラと輝いていた。女としての自分を拒否されたことがそれだけ屈辱だったのだろう。
「ブラムバーグ公爵令嬢。俺は、あなたの兄から一通り事情の説明は受けている。あなたは自分の兄の情報収集力を舐めない方がいい」
ライナートがひどく冷静なことを不審に思ったのか、アドリーヌが眉をひそめる。
「どういうこと?」
「あなたのやろうとしたことは筒抜けだ。俺を籠絡してアビオンの第三王子にヨーステン辺境伯領の情報を流すつもりだったんだろう? 最終的に目指していた形はわからないが、内部から崩してアビオン王国に有利な何かをもたらすつもりだった。要するにスパイだな。そしてあなたの報酬は……王妃の座、か」
「……」
アドリーヌがはっと息を呑むのがわかった。図星なのだろう。
「残念だが、アビオンの第三王子の口約束ほど信じられないものはないそうだ。王妃の座を約束した女性があと少なくとも三人はいる。それにそもそも第三王子が王位に就くことはない。ほぼ第二王子で内定している」
「嘘よ!」
それが自身のどの言葉にかかっているのか、ライナートにはわからなかった。どうでもいいかと思い直す。
「嘘ではない。アビオンの第二王子殿下の発案で、先日ファーデン、ラシーヌ、アビオンの三国間で新しい関税についての取り決めを取り交わしたばかりだ。アビオンの国王陛下はたいそうそれを評価しているという話だが……第三王子は知らなかったのか?」
王太子はヨーステン辺境伯の選定のためだけに、ここまで来たのではなかった。辺境伯領にも関わる話なので、辺境伯選定後に王太子から直接あらましを聞いている。
一部品物については、ラシーヌとアビオンの直接取引に限り、ファーデンは関税を取らない。もちろん、その対価となる条件も二国からそれぞれ得ている。
そもそも、第一王子も第三王子も、どうして国王がヨーステン辺境伯領を気にしているからといって、そのまま侵略するという発想になるのかがわからない。
王がヨーステン辺境伯領の何を求めてるのか。それを察して唯一人道的なやり方で向き合おうとした第二王子が国王になるのは、周辺諸国にとっても僥倖だろう。
「とにかく、あなたの兄君には連絡済みだ。何かあったらすぐにでも引き取りに来るという話だったから、近いうちに迎えに来てくれるだろう。それまでは部屋で大人しくしてもらおうか」
アドリーヌは本気で王妃になるつもりだったのか、ぺたんと床に座り込んだ。
ライナートは近くにいた使用人に、アドリーヌを連れていくように命じる。あとで鍵系の異能を持つ使用人に、部屋に閉じ込める処置をしてもらおう。アドリーヌは『器』なので自分では何もできないはずだ。
今でこそもてはやされている『器』だが、数百年前までは『無能』と呼ばれていたのだから。
(余計な時間を食ってしまった。アディを探さないと)
使用人が追っているし、貴族令嬢の足だ。遠くまでは行けないはず。
迎えに行って、ライナートはアデリナに説明しないといけない。いろいろ考えていたことを水泡に帰されて腹が立っていた。
そこへ追っていった使用人の一人が慌てた様子で玄関ホールに飛び込んできた。
「大変です。ブラムバーグ公爵令嬢が消えました!」




