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35. 同盟破棄の願い

 怒濤の時間が終わったあとも、アデリナはその場からなかなか動くことができなかった。


 とにかく、ライナートが正式に辺境伯に選ばれた。それは素直に喜ばしい。きっと今の自分は機嫌良く笑っているだろう。

 早く彼に祝福の言葉を述べたいところだけれど、ライナートは既に部屋を退出している。おそらくいろいろと手続きがあるのだろう。ディオも立ち会う必要があり、アデリナはこの部屋で待っているように言われていた。


「アディ、お前のおかげでライナート殿を辺境伯にすることができた」


 アデリナの元にやってきたのはミランだった。手続きの関係か、王太子はライナートと共に部屋を出ている。


「それは、報告書の件ですか?」

「そうだ。結論ありきだったとはいえ、正規の手順を踏まずに強行指名してしまったら後々ゆがみが出てくる。思った以上に素晴らしい資料が作れてほっとしているよ」


 どうやら思った以上に報告書は大切だったらしい。


「お役に立てて良かったです。それよりも、ベルガー卿のあの中身のうっすい報告書は何だったんですか? 逆効果に思えましたけど」


 あれで王太子の心が動かせるとは全く思えない。


「ああ。あれか。あれは私もどうかと思ったのだが……ベルガー伯爵家から圧力があったんだ。あそこの家はなかなか事業に苦戦しているようだから、息子をヨーステン辺境伯に仕立てて、交易に関わりたかったんだろう。ただ、いくら圧力をかけたところで中身がなかったらどうにもならない。その結果がアレだ。面白かったからそのままにしておいた」

「お兄様。私はどうなるんですか?」


 具体的なことは流石に言えないけれど、ミランはそれで察してくれたらしい。


「特家の交代はあったが、もともとヨーステン辺境伯として振る舞っていた男が本物になっただけだ。おそらく、婚約は継続だろう」

「それはつまり。一年間の約束は引き続き有効ということですか」

「ああ。正式な沙汰があるまではこっちにいてほしい。ライナート殿もそう思っているはずだ」

「わかりました」


 アデリナはこくりとうなずいた。

 まだライナートと一緒にいられる、ということが嬉しい。


「ブラムバーグ卿! ちょっといいですか?」


 役人たちが兄を呼ぶ声が聞こえる。

 ミランは小さくため息をつくと、ぽんとアデリナの頭に手をおいた。


「アディ。私はどんなときもお前の味方だ。悪いようにはしない。それは覚えておいてくれ」


 アデリナに向けるまなざしは、とても優しいものだった。







 アデリナはディオと共に辺境伯の屋敷に戻った。

 ライナートが辺境伯になったという知らせに屋敷中がわいた。あの無表情の執事までもが嬉しそうに目元を潤ませていた。

 この結果で本当によかった、とアデリナは思う。そして微力だがその一助になったことがとても誇らしい。


(――早くライナート様に会いたい)


 ライナートは諸々の手続きがいろいろあり、屋敷に帰ってくるのは夜遅くになるだろうということだった。無理して待たなくていい、という伝言もディオを通じてもらっている。

 だから、待っているつもりだったのだけれど……。


「そんなところで眠っていると風邪を引くぞ」


 囁くような優しい声が下りてきて、アデリナはゆっくりと目を開けた。

 視界にうつるのは、帰りを待ちわびていたライナートの顔。アデリナは嬉しくて思わずそのまま手を伸ばす。触れた頬はとても温かくて……え?

 ――はっと目が覚めた。


「ライナート様! どどどどど、どうして」


 ごめんなさい! とぱっと触れていた頬から手を離す。少しだけ彼が残念そうにしたのはきっと気のせいだ。気のせい。

 アデリナは一生懸命今の状況を思い出す。

 そうだ。夕食後、帰ってくる気配のないライナートを図書室で待つことにしたのだ。図書室であればいくらでも時間が潰せる。

 お気に入りのソファに座って本を読んでいたのだが、緊張の糸が切れてしまったのか眠気が襲ってきて……どうやらそのまま眠ってしまったらしい。ランプの灯がゆらゆらと揺れている。


(ということは、ライナート様に寝顔を見られたということ!)


 とてつもなく恥ずかしい。


「もうそろそろ日付も変わる。明日を待った方がいいとはわかっていたんだが、もしかしたらあなたがいるかもしれない、と期待して図書室に来たら本当にあなたがいた」


 ライナートはふわりと微笑む。


「ただ、いくら夏が近づいているとはいえ、そのまま寝るのはいただけないな。――隣、いいか?」

「は、はい!」


 アデリナが大きくうなずくと、ライナートはいつもの通りアデリナの隣に座った。

 違う。いつも通りじゃない。距離が――近い。

 いつもは子ども一人座れそうなくらい距離が空いていたのに、今日は拳一つ分もない。


「アディ。こっちを向いてくれないか?」


 ライナートが発する声も心なしか甘い気がする。先ほどから心臓がドキドキしていて落ち着かない。

 アデリナがなかなかライナートの顔を見られずにいると、もう一度名前を呼ばれた。


「アディ」


 ――愛称で呼んでほしいと頼んだのは、失敗だったかもしれない。

 ここでアドリーヌと呼ばれたら、きっと頭が冷えたはずなのだ。わきまえられたはずなのだ。でも。

 ――まるでアデリナ自身を求められているように聞こえてしまう。


「……っ」


 アデリナが覚悟を決めてライナートの方を向くと、ライナートが心底嬉しそうに笑った。なんだろう。雰囲気がとても甘い。


「会いたかった。アディ」


 この人は、こんなに甘い顔をして笑う人だっただろうか。


「あなたは?」

「私も……会いたかったです」


 若干声が小さくなってしまったけれど、しっかりライナートまで届いたようだ。


「不愉快なら、突き放してもらってかまわないから」

「え?」


 ライナートの手がアデリナの方に回り、彼の方に抱き寄せられる。

 二人の距離がさらに近くなった。そっと触れた肩からライナートの体温が感じられる。

 強い力で拘束されているわけではない。だから、いつでも逃げられる。

 離れた方がいいと警鐘を鳴らす自分と、受け入れたいとわめく自分がいる。そして後者の自分が勝ってしまった。

 アデリナが抵抗するそぶりを見せないからだろう。ライナートが嬉しそうに「アディ」と名前を呼ぶ。


「あなたが報告書の件で尽力してくれた話を聞いた。とても嬉しかった」

「あれは……お役に立てたようでよかったです」


 それから、ライナートとアデリナは離れていたときのことを教えあった。

 留置場の生活はアデリナが想像するより悪いものではなかったらしい。一番きつかったのは、やることがないことだった、とライナートは言った。その気持ちは少しわかる。


「こんなに清々しい気持ちで辺境伯になるとは思ってもみなかった」


 彼の翡翠の瞳はまっすぐに未来を見据えている。アビオンの情勢が落ち着いたらやりたいことがたくさんある、という。

 そんな風にたくさんのことを話して笑い合って――ふいに沈黙が訪れる。


「そういえば、殿下に確認したんだが、この婚約は続行だそうだ。もともとヨーステン辺境伯の身代わりとして俺があなたに接していたのだから問題ないだろう、とのことだ」

「そうなんですね」


 喜んでいいのか悲しんでいいのかアデリナにはわからなかった。


「俺が、婚約を続けられるよう、殿下に頼んだ」

「――え?」

「アディ。一つお願いがある」


 改まったライナートの口調に、アデリナはどきりとした。


「なんですか?」

「俺の勝手ですまないが、あなたと組んでいた婚約解消同盟は破棄させてほしい」


 固い声にひゅっと息を呑む。

 思わずライナートの方を見ると、彼が真剣な表情でアデリナを見つめていた。


「アディ。――俺はあなたが好きだ。結婚してほしい」


 ライナートは、アデリナの手を取ると、そっと指先に口づけた。

 ――彼が辺境伯でなかったら、こんなに嬉しい告白はなかっただろう。

 そうだ。ライナートはアデリナが身代わりであることを知らない。

 つまりアデリナのことを『器』の令嬢だと思っている。特家の当主と『器』の令嬢。結婚に何も障害がない。そもそもヨーステン辺境伯とブラムバーグ公爵令嬢の婚姻は、王命だった。

 でも、アデリナは身代わりだ。『雷』の自分は特家の当主と結婚する資格がない。


「同盟は破棄したが、あなたに無理強いをするつもりもない。ただ、少しでも希望があるのであれば、俺とのことを考えてくれないだろうか。俺も努力するから」


 翡翠の瞳の奥に見える熱。再び指に柔らかい感触を覚えた。

 アデリナの瞳から、一筋の涙が零れた。

読んでいただきありがとうございます。


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