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19. 偽物の辺境伯

(嘘よ)


 アデリナは砦で見た光景を思い出す。

 砦で見た辺境伯の異能は本物だった。身代わりのわけがない。

 けれど。少なくともコーエンがそれを信じているのであれば、彼が堂々と「次期辺境伯」と述べた理由がわかる気がした。ヨーステン辺境伯家の断絶を狙っているのだ。


「信じていないな」

「信じる理由がありませんから。なので、私はあなたにつく気はありません」


 アデリナはきっぱりと言い切った。


「俺が手の内を明かして、それが通用するとでも?」


 じり、とコーエンが一歩近づいてくる。ぞくり、と背筋に恐怖が走った。

 浅はかだった。彼は異能ではアデリナを傷つけられないかもしれない。

 でも、もともと男女では力が違うのだ。たとえ目の前の男が優男風だったとしても。

 判断を間違えた。

 今ほど、自分が異能制御の腕輪を付けていることをもどかしく思ったことはない。


(嫌な予感しかしない。こういうときは逃げるが勝ちよ!)


 アデリナはくるりとコーエンに背を向けると、全速力で走り出した。

 もともと平民として育ったアデリナは、普通の貴族令嬢よりは動くことが出来る。

 向こうも貴族令嬢がいきなり走り出すとは思わなかったのだろう。


「おい待て!」


 声が聞こえてくるが、振り返る余裕はアデリナにはない。

 建物が面していた小さな通りにすぐに出る。人通りは少ないほうだけれど、決してゼロではない。この辺の土地勘はないけれど、行きに通った道は大体覚えている。大丈夫。そこまで遠くない。


(早く。キーカがいたところに戻れば)


 アデリナは必死に足を動かす。ぺたんこのブーツを履いてきてよかった。比較的走りやすい。

 けれど、アデリナが活発に走り回っていたのは幼い頃の話だ。すぐに息が切れる。

 走って逃げる身なりのいい少女に対し、何があったのかと通行人がこちらに怪訝な目を向ける。その人目があるうちは、コーエンも滅多なことはできないはず。


 早く、早く……。

 けれど、大通りに出る前に後ろから非常にもコーエンの声がした。追いつかれてしまったらしい。


「捕まえたぞ」


 コーエンがぎゅっと強い力で手首を握ってくる。ぞわりと全身に悪寒が走った。

 だが、周囲には通行人がいる。誰か助けてくれないだろうか。周りに必死に見回す。

 コーエンが明らかに貴族とわかる格好だからだろうか。関わり合いになりたくない、といった顔で通行人が遠巻きにしているのがわかる。

 さらに。


「すみません。身内のゴタゴタなんです」

「ちが……」

「本当に強情で」


 通りすがりの人に気にするなとでも言うように、コーエンが愛想よく振る舞う。アデリナは唇を噛んだ。このまま連れ去られてしまったとしても「身内のゴタゴタ」で済まされてしまうのかもしれない。

 嫌だ。いっそのこと腕輪を外して異能を使えば――。


「行くぞ。俺から逃げようと思うなよ」


 コーエンが強い力で握り込んだまま、アデリナを引きずるようにして歩き出そうとする。アデリナが腕輪を外そうと手首に手を伸ばしたしたそのとき。


「アドリーヌ!」


 辺境伯の声がしてアデリナは青い瞳を見開いた。今、一番聞きたかった声。


(どうして……)


「辺境伯様!」


 アデリナの視線の向こう、辺境伯がこちらに向かって歩いてくる。

 整った顔に乗っている感情は、おそらく怒りだ。

 翡翠の目がギラギラしている。

 ちっというコーエンの舌打ちが聞こえた。それを無視して、辺境伯がコーエンの腕を掴んだ。強い力なのか、コーエンがわずかにうめく。


「ベルガー卿。彼女の腕を放してもらいましょうか?」


 辺境伯の声は恐ろしく低く、淡々としていた。それがかえって静かな怒りを感じさせる。


「彼女とは平和的に話をしていたんだ。邪魔されるいわれはない」

「この状況を平和的というのであれば、大抵の話し合いは平和的になりますね」


 この場を支配しているのは圧倒的に辺境伯だった。コーエンが押されているのがはっきりとわかる。格が違うとでもいうのだろうか。その証拠にコーエンの声は少し震えていた。


「それとも、騎士を呼びましょうか? 当然ですが、騎士は軍に顔が利きますよ」


 渋々コーエンがアデリナの腕を放す。アデリナは安堵の息をつきたくなった。


「覚えてろよ。余裕なのも今のうちだ」


 陳腐な捨て台詞を吐き捨てると、コーエンは走り去っていった。


「……」


 安堵のあまり力が抜けそうになるアデリナを、辺境伯がしっかりと支えてくれる。まるで抱きしめられるような形になってしまった。


(なんでこんなに安心できるんだろう)


 先ほどコーエンに手首を掴まれたときは嫌悪感しかなかったのに。なのに。

 かすかに漂う清涼な香りも落ち着く。何もかもがコーエンと違いすぎた。

 アデリナは、ぎゅっと目を閉じてアデリナは辺境伯に身を預ける。

 彼が小さく身じろぎしたのがわかった。でも、すぐにアデリナを受け入れてくれる。背中に回された手に、力が込められた。


「大丈夫か。アドリーヌ」


 耳元で囁かれた声に、アデリナは小さく息を呑んだ。

 すうっと頭の中が冷えていく。

 アドリーヌ。そう。今、彼の腕の中にいるのは、アデリナではない。

 アデリナは小さく深呼吸をする。辺境伯の胸をそっと押して、彼から距離を取った。


「ありがとうございます。助かりました」


 にっこりと笑顔を浮かべる。たぶん、いつもの通りに笑えたはずだ。

 辺境伯は何かを言いたげに口を動かしたものの結局呑み込む。


「――辺境伯様はどうしてここがわかったんですか?」


 アデリナの外出先は、馬車の手配の都合で大まかなところは辺境伯にも伝えられる。とはいえ、コーエンとの邂逅はアデリナにとっても予想外だった。


「部下にベルガー卿をマークさせていたんだ。そうしたらあなたに声をかけたという連絡が入って、慌てて追ってきた。間に合ったようでよかった」


 なるほど。


「ベルガー卿はあなたに一体何を?」

「自分に乗り換えないか、と言いました。その、ヨーステン辺境伯家は泥船だからと。……あなたを偽者だと言っていました」


 最後の言葉は伝えるかは悩んだ。けれど、コーエンのスタンスを伝えるためには必要だろうと思って言葉にした。


「……」


 辺境伯は何も言わずに、ぎゅっと拳を握り込んでいる。整った顔立ちから表情が消えていた。


「辺境伯様?」


 アデリナが恐る恐る声をかけると、辺境伯は我に返ったようだった。


「あ。すまない。偽者、か」

「あ。もちろんベルガー卿がそう言っただけで私は信じていませんし、話も断りました。だからこそ実力行使をしようとしてきたんだと思います」


 あのままコーエンに連れ去られてしまっていたら。考えるだけでぞっとする。もちろん、その場合は躊躇なく腕輪を外して異能を使ったけれど。


「ああ。本当によかったよ。もし、あなたが攫われていたら俺は……」


 それ以上、辺境伯は言葉にせず、アデリナの顔を覗き込む。


「キーカのところに戻ろう。部下が事情を話してくれているはずだが、心配していると思うから」

「はい」


 辺境伯がアデリナの手をそっと握って歩き出す。その手はとても温かくて、アデリナは少しだけ泣きそうになった。

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