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16. 前辺境伯夫人・襲来

 数日後。

 アデリナは、足りなくなった刺繍糸を購入するために、キーカと共にカーロの街へ出かけることにした。すっかりカーロ刺繍にはまってしまっている。


 外は快晴。外出用に選んだのは、空色のワンピース。

 さて、でかけようかとキーカと共に玄関ホールに向かったところで、妙に屋敷が騒がしいことに気づいた。


「誰か。オーティスはいないの!」


 甲高い女性の声が響く。オーティス――辺境伯の名前を呼び捨てに出来る人間は限られているだろう。

 アデリナは吹き抜けの階段の上から、ホールを見下ろす。

 玄関ホールにいたのは、年齢不詳の美しい女性だった。夜会に着るような身体のラインに沿った黒いドレス。白いファーを首元にまいている。長い黒髪に、真っ赤な唇が扇情的な化粧。昼間から眉をひそめたくなるようなけばけばしい装いだ。


「そうだ。早く辺境伯を出せ!」


 女性の後に続くように、彼女の隣に立つ痩身の男が声を上げる。

 辺境伯と同世代くらい。黒髪を後ろになでつけて、茶色のスーツを着ている。どこか傲慢そうな雰囲気が、先ほどの声のトーンだけでも感じられた。


「アディ様。申し訳ありません。今日は外出はやめた方がよさそうです」


 女性の姿を目にとめるなりキーカが固い声で言う。

 あの二人が辺境伯家にとって招かれざる客なのは、部外者のアデリナでも感じ取れた。


「申し訳ありませんが、二階から下りないようにしてください」


 アデリナは神妙にうなずく。あの二人とは関わりたくないと反射的に思う。


「ちょっと。早く。誰かいないの?」


 女性の視線がこちらに注がれる。目が合いそうになって慌ててそらした。

 よくわからないが、捕まったらとてつもなく面倒なことになりそうな気がしたのだ。


「申し訳ありません。ゲルデ様」


 慌てた執事の声が聞こえてくる。


「今日はいきなりどうされたのでしょうか?」

「あら。私が息子に会うのに理由がいるとでも?」


(息子……ってことは、やっぱりあの人が前辺境伯夫人なのね)


 キーカたちが持っていた王都出身の令嬢に対する偏見の元になった女性。

 辺境伯とは髪の色以外あまり似ていない。ゲルデも美人の部類だが、辺境伯のような精緻な印象はない。

 それにしても、いくら息子相手でもあの態度はどうなのだろう。人ごとながら不愉快だ。

 ムカムカしながら自室に戻ると、アデリナはキーカに尋ねた。


「キーカ。もしかしてあの方が前辺境伯夫人なの?」

「ええ。……ご存じでしたか?」

「ちょっと辺境伯様に聞いたことがあったの」


 素直に答えると、キーカは少し驚いたようだ。旦那様から、と呟く。


「あの方は、前辺境伯夫人のゲルデ・フックス様です。もう十年以上前に離縁されて、王都で暮らしているはずなのですが、こうして思い出したようにお金を無心しにいらっしゃるのです。もちろん旦那様は毅然とした対応をしているんですが諦めが悪くて。しばらく姿を見せなくなってほっとしていたんですが」


 キーカの口調には苦々しいものが含まれている。気持ちはわからなくもない。あのほんの少しの間の態度を見ただけで、アデリナも眉をひそめたくなったのだから。


「しかも今日はおまけがついてきたみたいですね。――おそらく、ゲルデ様の愛人とかそんなところじゃないですか」


 キーカが吐き捨てるように言う。愛人にしては二人の間に距離があった気もしたが、ゲルデの過去の行いからそう思われても仕方がないということだろう。


「とにかく、ちょっと私は情報を集めてきますね。アディ様はあまり部屋の外に出られない方がいいと思います。特に二階からは絶対に降りないでください」


 そう言ってキーカは部屋を出て行った。

 アデリナは部屋に一人取り残される。外出が取りやめになったので、普段着の動きやすい紺のワンピースに着替える。


 ぽっかりと空いた時間。刺繍は材料が足りないので気が乗らない。

 こういうときはやはり読書だ。

 そう思ったアデリナだが、あいにく部屋には読み終わった本しか置いていなかった。


(よし、図書室に行こう)


 図書室も二階にある。キーカが「二階から下りるな」と言ったのは、おそらくあの二人の客との鉢合わせを防ぐためだろう。すぐ戻ってくれば大丈夫なはず。

 図書室が見えてきたところで、アデリナは見慣れない男が図書室から出てきたところを目撃する。あれは確か、先ほど辺境伯の母親の隣にいた男だ。

 後ろめたいことをしている自覚でもあるのか、きょろきょろとせわしなく辺りの様子を確認している。

 これは見つからないうちにさっさと部屋に戻った方がよさそうだ。

 きびすを返そうとしたところで。


「そこの使用人!」


 男がアデリナの存在に気づいたようで、びしっと指をさしてきた。

 向こうは地味な服装のアデリナを使用人だと勘違いしたらしい。ここはその勘違いに乗ることにした。変に正体を明かすよりマシだ。地味でよかったとすら思う。

 アデリナは気持ちを落ち着かせると冷静を装った。


「何でしょうか」

「お前、俺が何をしていたか見ていないよな?」


(この人、馬鹿なの?)


 アデリナは威嚇してくる男に内心呆れていた。自分で悪いことをしていましたと白状するようなものではないか。とにもかくにも関わらない方がいい。


「私は何も見ておりません」


 嘘も方便。アデリナはぺこりと頭を下げて、そそくさと去ろうとする。しかし、ふいに右腕を掴まれた。そんなに強い力ではなかったが、不快感から肌が粟立つ。

 異能を封じる腕輪をしていて本当に良かった、と心底思った。

 そうでなければ、きっと今頃、男性の手を雷ではじいていたに違いない。アデリナが恐怖を感じるときに発動するから。

 アデリナが怪訝そうに男の方を見ると、男は得意げに薄い唇を歪ませた。


「おい待て。お前、新顔だろう。――俺につかないか?」

「お断りします」


 アデリナは即答するが、男は自信ありげに続ける。


「つれないことを言うな。今のうちに、次期辺境伯に恩を売っておいた方が得だぞ?」


 アデリナは眉をひそめたくなるのをこらえた。

 辺境伯は健康体だ。代替わりする予定などない。

 そもそも特家の跡取りは誰にでもなれるものではない。異能の継承のためにそこは厳しい決まりがある。その昔、異能を騙って特家の当主になろうとした男がいたらしく、それで厳格な規則ができたのだ。


 例えば兄のミランがブラムバーグ公爵家の後継として確固たる地位を築いているのは、兄が『防壁』の異能を持っており正式に後継として登録されているからだ。

 登録された後継者がいないまま、特家の当主がこの世を去った場合、その家は特家としては断絶扱いになる。その爵位は空白となり、ふさわしい異能を持つ人間が新たに選ばれる。それを特家の交代という。


 実際、過去何回か特家の交代は行われてきた。

 交代先を決めるのは王家と特家の人間だ。王家への忠誠心や領地を管理する能力も問われる。仮に特家と同じ異能を持っていたとしても、そう簡単になれるものではないはずだ。


 アデリナが黙り込んだのを、検討の余地ありだと男は思ったらしい。にやりと蛇のような笑いを浮かべると続けた。


「十分な礼をしよう。ちょうど駒がほしかったんだ。お前は顔も悪くないし、働きが良ければ愛人にしてやろう」


 アデリナへすべらせる男の視線が気持ち悪い。目の前の男の容姿はそれなりに整っているのに、生理的嫌悪が先に立つ。香水なのかふわりと漂う甘ったるい匂いも気持ち悪かった。


「しばらくカーロに滞在している。気が向いたらここまで連絡を寄越せ」


 そう言って、男はおそらく宿の名前を口にした。


「ベルガーで通じる」


 そのとき、ベルガー卿と呼ぶ辺境伯の声が聞こえた。どうやら目の前の男を探しているらしい。男――ベルガー卿はちっと舌打ちをする。


「お前が賢明な判断をすることを祈っているよ」


 そう言い残して、ベルガー卿は階段の方へ向かって去って行った。

 アデリナはその背中に向けて舌を出したい気分になったが、見られては困るので耐えた。


 ベルガー卿は屋敷の中を探っていたのだろう。でも、何のために?

 小さく首を振って不快感を振り払うと、図書室へ向かう。

 ずっと部屋にこもっていられるように、十分な数の本を選ぼう。


(それにしても、一体次期辺境伯ってどういうこと?)

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