表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

幼い宇宙について

 春の夜空は、どこまでも柔らかい藍色をしていた。


 雪村奏はベランダに立ち、目を閉じて風の音に耳を澄ませた。

 耳の奥に微かな声が響く。言葉にならない、ざわざわとしたささやきだ。

 それは昔からずっと聞こえていた。幼いころは「空がしゃべっている」と母に話して笑われたものだが、大人になった今もその声は消えない。


 ただ、最近になって、その声がはっきりと悲しげになってきている気がする。


 ――寂しい。怖い。誰か、抱きしめて。


 そんな声が、夜風に紛れて聴こえるのだ。


 奏は深呼吸をし、白い息を吐いた。科学者としての自分は、こんな現象は脳の錯覚だと説明できる。

 だが心のどこかで、あれは本物なのではないかという恐れもあった。



 奏は国立天文台の研究員だった。

 今日も深夜まで観測データと向き合い、同僚たちと議論を交わしていたが、ここ数日の異変は説明できるものではなかった。


「銀河団の一部が、急速に崩壊している……」


 モニターに映るのは、宇宙の広大なスケールで起きている異常現象だった。

 ブラックホールがまるで暴走するように成長し、星々を飲み込んでいる。


「エネルギー保存則が崩れてるぞ、こんなの……理論的にあり得ない」


 同僚が声を荒げた。だが奏の心臓は別の理由で早鐘を打っていた。

 ――あの声だ。

 今夜に入ってから、宇宙の声がますます大きく、悲痛に響いている。


 寂しい……ひとりぼっち……抱きしめて……


 その声に呼応するかのように、星々が次々と消えていく。

 奏は震える手でデータを閉じ、会議室を飛び出した。



 翌日、奏は一人で古い天文書を調べていた。

 人類の神話や伝説には、宇宙を「生きた存在」として語るものが多い。

 もしそれらが単なる比喩ではなく、宇宙そのものが感情を持つ存在だったとしたら……。


 夕暮れ時、研究室のドアが静かに開いた。

 そこに立っていたのは、幼馴染の麻衣だった。

 彼女は一般人でありながら、奏の数少ない理解者だった。


「また徹夜してるんでしょ。顔色、最悪よ」


「麻衣……聞いてくれ。宇宙が、泣いてるんだ」


 その言葉に、麻衣は一瞬だけ目を見開き、それから苦笑した。


「また、子供のころみたいなこと言ってる」


「違う、これは幻聴なんかじゃない。宇宙そのものが……まるで赤ん坊みたいに泣いてるんだ。

 だから星が壊れていく。あれは宇宙の『駄々』なんだよ」


 麻衣は言葉を失った。

 だが奏の必死な目を見て、嘘ではないと感じた。


「……もし、それが本当だとしたら、どうするつもり?」


「宇宙を安心させるしかない。赤ん坊が泣き止むように、あやしてやらなきゃ」


 奏は深く息を吸った。


「つまり……宇宙を抱きしめるんだ」



 言葉だけなら簡単だが、現実は違った。

 宇宙規模で感情を伝えるには、地球全体を巻き込む巨大な現象が必要だ。

 そこで奏は考えた。春風を使う、と。


 春風は、地球上で最も優しい自然現象だ。

 その風を一斉に鳴らすことができれば、宇宙に「安心」のメッセージを届けられるのではないか。


 計画は無謀だった。世界中の人々に協力してもらい、同じ時刻に一斉に「音」を響かせる。

 風鈴や鐘、笛……春風が運ぶ音ならなんでもいい。


 麻衣はその計画を聞いて、ぽつりと呟いた。


「……まるで子守唄ね」


「そうだ。宇宙への子守唄だ」


 麻衣は涙ぐみながら笑った。


「私もやるわ。あなた一人にそんな大役、背負わせられない」



 数日後。

 人類史上初めて、世界が一つの目的のために動いた。


 日本の古い寺院では無数の風鈴が吊るされ、ヨーロッパでは教会の鐘が一斉に鳴り響いた。

 アフリカの砂漠では人々が太鼓を打ち、南米では笛の音が風に乗った。


 その中心で、奏は天文台の屋上に立っていた。

 耳を澄ませば、地球全体が一つの子守唄を歌っているように聞こえる。


 夜空に、無数の星が震えるように瞬いた。


 そして――宇宙の声がはっきりと聞こえた。


 ありがとう……安心したよ……


 星々が崩壊する速度がゆっくりと止まっていく。

 宇宙が、泣き止んだのだ。



 その瞬間、奏の視界が真っ白に染まった。

 意識が遠のく中で、巨大な何かに包まれる感覚があった。


「奏!」


 麻衣の声が遠くで響いた。


 次に目を開けたとき、彼は見知らぬ場所に立っていた。

 足元は柔らかな光でできた床。頭上には、まるで星雲そのものが漂う天井。

 目の前に、巨大な赤子が浮かんでいた。


 それは宇宙だった。


 声にならない泣き声が、直接心に響く。


「……君が、宇宙なのか」


 奏は震える声で呟いた。

 赤子の瞳がこちらを見た。寂しげで、温もりを求める目だった。


 奏は恐怖を押し殺し、その巨大な存在をそっと抱きしめた。

 まるで無限に広がる空を腕で包み込むような感覚。


「大丈夫だ……俺たちはここにいる。君は一人じゃない」


 その瞬間、宇宙はふわりと笑った気がした。

 光が爆発的に広がり、奏は再び意識を失った。



 気がつくと、天文台の屋上に戻っていた。

 麻衣が泣きながら彼を抱きしめていた。


「奏! 無事なのね……」


「宇宙は……大丈夫だ。もう泣いてない」


 夜空を見上げると、星々が穏やかに瞬いていた。

 宇宙は、春風に包まれながら眠っている――そんな気がした。


 麻衣は小さく笑い、彼の肩に額を預けた。


「世界中で風が吹いてるわね。……まるで子守唄みたい」


「そうだな」


 奏は空を見上げ、そっと目を閉じた。

 宇宙の奥深くで、安らかな寝息が聞こえる気がした。



 この世界はまだ幼い。

 そして、人類はその小さな宇宙を、優しく抱きしめながら育てていく。


 春風が、星々の間を静かに吹き抜けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ