ある戦場と宇宙について
火薬の匂いは、もう鼻の奥に焼き付いてしまった。
春野湊は、廃墟と化した市街地を銃を抱えて走っていた。
爆音と叫び声が交錯する。
アスファルトは砲撃でえぐれ、ビルの壁には銃痕が蜂の巣のように刻まれている。
ここは前線だった。
「湊、こっちだ!」
無線から隊長の怒声が響く。
湊は仲間たちと合流し、瓦礫の影に身を伏せた。
息を吸うと、喉が焼けるように痛む。
まるで世界全体が、焦げた鉄と血の匂いで満ちているようだった。
――戦場の匂いだ。
⸻
湊はまだ二十歳になったばかりだった。
この国では徴兵が義務化され、大学入学と同時に軍に召集された。
戦争の理由は単純だと教えられた。
「隣国が我々を脅かすから」「祖国を守るため」――
しかし、実際に戦場に立ってみると、そんな言葉はどうでもよくなった。
生き延びること。それだけがすべてだった。
湊の小隊は、市街地で孤立した民間人を救出する任務を与えられていた。
だが現場に着くと、そこはすでに地獄だった。
瓦礫の山の中で、泣き叫ぶ子供。
血に染まった腕を抱えてうずくまる老人。
助けを求める声が、四方から降り注ぐ。
「隊長! 敵の増援が来ます!」
無線が悲鳴のように響く。
湊は銃を構えた。視界の端で、民間人たちが恐怖に震えている。
――自分たちは彼らを守れるのか?
⸻
激しい銃撃戦が始まった。
湊は何度も引き金を引いた。
敵兵が倒れるたびに、胸の奥が冷たくなる。
「守るため」――そう自分に言い聞かせなければ、壊れてしまいそうだった。
やがて敵が撤退し、瓦礫の間に静けさが戻った。
湊は深く息を吐いた。その瞬間、背後から小さな声がした。
「……おにいちゃん」
振り返ると、瓦礫の隙間から少女が顔を出していた。
まだ七歳くらいだろうか。
ほこりと血にまみれ、目だけが大きく見開かれている。
湊は銃を降ろし、少女の前にしゃがみ込んだ。
「大丈夫だ。もう安全だから……俺と一緒に来るんだ」
少女は震える手で湊の袖を掴んだ。
その手は冷たく、力がなかった。
⸻
撤退まであと数分。
湊は少女を抱き上げ、仲間と共に脱出ポイントへ向かった。
その途中、空にふと目をやった。
戦火に包まれた街の上に、うっすらと春の星座が浮かんでいた。
遠い昔、故郷で麻衣――いや、妹の遥と一緒に眺めた夜空と同じだった。
「宇宙は、俺たちの戦争なんて知らないんだろうな……」
呟いた声は、爆撃音にかき消されて消えた。
⸻
撤退寸前、砲撃が直撃した。
視界が真っ白になり、鼓膜が破れそうな轟音が響く。
湊は少女を抱えたまま地面に叩きつけられた。
痛みと熱が全身を駆け抜ける。
……耳が聞こえない。
ぼんやりした意識の中で、湊は必死に少女を抱きしめた。
そのとき、頬を撫でるような優しい風が吹いた。
戦場には似つかわしくない、柔らかな春風だった。
その風が――一瞬だけ、砲煙の臭いを消し去った。
⸻
湊は目を開けた。
そこは戦場ではなかった。
無数の星々が漂う、静寂の世界だった。
目の前に、巨大な何かが浮かんでいた。
それは言葉では説明できない存在――まるで宇宙そのものだった。
「……ここは……」
言葉を発する前に、少女の声が響いた。
だが、それは人間の声ではなく、直接心に響くものだった。
ありがとう……
湊は驚いて少女を見る。
彼女の姿は淡い光に変わり、星々と一緒に消えていった。
「待て! 君は……」
もう大丈夫。これからは……春風と一緒に眠るから
声が遠ざかり、湊はひとり残された。
⸻
次に目を開けたとき、彼は再び瓦礫の中にいた。
少女の姿はもうなかった。
彼女を抱いていたはずの腕は、空を掴んでいる。
遠くで仲間たちの声がする。
敵も味方も、同じ空の下で叫んでいた。
湊は空を見上げた。
そこには、星々が穏やかに瞬いていた。
「宇宙は……俺たちの争いなんて知らないんだな」
呟くと、頬を春風が撫でた。
その風は、少女の最後の声と同じくらい優しかった。
⸻
その夜、湊は夢を見た。
夢の中で、少女は笑っていた。
戦火に焼かれた街も、血に染まった瓦礫もない世界で――
ただ柔らかな春風に吹かれながら、星空を見上げていた。
湊はそっとその隣に座った。
「君はもう、宇宙に帰ったんだな」
少女は笑顔で頷き、湊の手を取った。
その瞬間、世界が光に包まれた。
⸻
目覚めた湊は、空を仰いだ。
春の星座が、戦場の煙の向こうに淡く輝いている。
それは、戦争の悲しみを少しだけ癒やす祈りのようでもあった。




