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第10話 初めての野宿


ラーニア村を出てから数時間


荷馬車は街道をのんびりと進んでいた


左右に広がる景色は

見渡す限り知らないものばかり


遠くに見える山も


道端に生えている草も


時折空を飛んでいく見たことのない鳥も


全部が新鮮だった


これからどんな場所へ行くのか


どんな人と出会うのか


どんな物が売られているのか


考えるだけで自然と気分が上がってくる


異世界を旅する


なんて素敵な響きなのかしら


――そう思っていた


最初のうちは


ガタン


「…………」


ガタン


「…………っ」


ガタンッ


「…………バルド」


「なんだ」


「ちょっと聞いていい?」


「なんだよ」


「ローデンまであとどれくらい?」


バルドが手綱を握ったまま空を見上げる


「天気が崩れなきゃ五、六日ってとこだな」


「…………」


「どうした?」


五、六日


私はゆっくりと

自分のお尻へ視線を落とした


木の板


その上に薄い布


以上


「私のお尻

今日が命日かもしれない」


「は?」


「痛いのよ!」


思わず立ち上がりかけて

腰に走った痛みに顔が引きつる


「いたたた……!」


お尻だけじゃない


腰も痛い


背中も痛い


なんなら肩まで凝ってきた


ラーニアまで乗せてもらった時は

こんなこと気にならなかった


あの時は村までそれほど距離がなかったし


何より

異世界に来た直後で

それどころじゃなかったのだ


でも今回は違う


朝から何時間も


ずっと


ずーっと


この荷馬車に揺られている


当然

舗装された道路なんてものはない


土の街道を車輪が転がるたび

その振動が容赦なく身体へ伝わってくる


「アンタよく平気ね!?」


「慣れてるからな」


「慣れって怖いわね……」


「そのうち慣れる」


「私のお尻が慣れる前に壊れるわよ!」


しかもこれが


ローデンまで

あと五、六日


「…………無理」


「何がだ」


「文明の力に頼るわ」


「ぶんめい?」


「こっちの話よ」


私はスマホを取り出した


画面を開いて検索する


長時間 座る クッション


いくつか商品を見比べる


選んだのは

長時間座る人向けの体圧分散クッション


厚みはあるけど

持ち運べないほど大きくはない


どうせなら――


二つ


そのまま購入画面へ進み

配送先に《無限収納》を指定する


購入を確定


商品はそのまま

《無限収納》へ送られた


便利すぎる


「バルド

ちょっと止めて」


「今度はなんだ」


「いい物出すから」


「嫌な予感しかしねぇな」


失礼ね


荷馬車が止まったところで

私は《収納》から二つのクッションを取り出した


「はい」


「……クッションか」


「そう

長時間座るためのやつ」


「いらん」


「まだ何も言ってないでしょうが!」


一つを御者台へ置いて

その上に座ってみる


「…………!」


全然違う


柔らかい


でも

ただ柔らかいだけじゃない


身体が沈み込みすぎず

さっきまでお尻へ直接伝わっていた衝撃がかなり和らいでいる


「これよ……!」


「何がだ」


「私が求めていたものよ!」


「大袈裟な奴だな」


もう一つをバルドへ差し出す


「アンタも使ってみなさい」


「いらん」


「いいから」


「今までこれで困ってねぇ」


「騙されたと思って使ってみなさいって」


「なんで俺まで……」


ぶつぶつ言いながらも

バルドはクッションを受け取った


御者台へ敷いて

その上に座る


「…………」


「どう?」


「……悪くねぇな」


「でしょう?」


バルドが何度か座り直す


「柔らけぇのに

思ったほど沈まねぇな」


「長時間座るための物だからね」


「こんな作りのは見たことねぇ」


「あら

そこまで分かる?」


「何年荷馬車に乗ってると思ってんだ」


確かに


毎日のように荷馬車へ乗っている人なら

私よりこういう違いには敏感なのかもしれない


「気に入った?」


「まあな」


「ふふん」


何に勝ったのかは分からないけど

なんとなく勝った気がする


再び荷馬車が動き始める


ガタガタするのは変わらない


でも

お尻へ直接伝わっていた衝撃はかなり減った


これなら生き残れる


文明万歳


しばらく進んだところで

私は隣を見る


バルドは何事もなかったように

さっき渡したクッションへ座っている


「それ

あげるわ」


「いらん」


即答された


「なんでよ!」


「商人がタダで物もらえるか」


「別に売りつけようってんじゃないわよ」


「そういう話じゃねぇ」


バルドがクッションを軽く押す


「それに

この作りで安物ってことはねぇだろ」


「あら

分かる?」


「見りゃ分かる」


確かに


布も縫い目も綺麗だし

この世界の物と比べれば

随分と丁寧な作りに見えるのかもしれない


「でもあげる」


「だから――」


「私

この国のお金持ってないでしょう?」


バルドが黙る


「馬車に乗せてもらって

ご飯も食べさせてもらって

この先も色々お世話になるんだから

その分よ」


「村じゃ働いてもらうぞ」


「それは商売を見せてもらう分でしょう?」


「…………」


「これは私の気持ち」


バルドはしばらく黙っていたけど


「……分かった」


やがてそう言った


「ありがたく使わせてもらう」


「そうしなさい」


「偉そうだな」


「いい物あげたんだからいいのよ」


「はいはい」


ちょっと


その返事

私の真似じゃないでしょうね



日が傾き始めた頃


バルドが街道から少し外れた


「どこ行くの?」


「今日はここまでだ」


少し進んだ先には

木々が途切れた開けた場所があった


離れたところには

小さな川も流れている


「今日はここで野宿?」


「ああ」


初野宿


異世界に来て初めての

本格的な野宿である


「なんかちょっとワクワクするわね」


「そうか」


バルドは荷馬車を停めると

休むこともなく周囲を見回し始めた


地面を確認し


木々の間を見る


少し離れた場所まで歩いて

また戻ってくる


「何してるの?」


「周り見てんだよ」


「何かある?」


「何もねぇか確かめてんだ」


「魔物とか?」


「魔物も獣もな

あとは人が潜めそうな場所がねぇかも見る」


なるほど


平らな場所を見つけて


はいキャンプ


とはいかないらしい


バルドは風向きや地面の状態まで確認して

荷馬車を停める位置を決める


「ここは大丈夫なの?」


「絶対とは言わん」


「そこは言い切ってほしかったわね」


「街道の近くだ

魔物もそうそう寄ってこねぇよ」


「街道だと?」


「人がよく通る場所だからな

魔物だって馬鹿じゃねぇ

わざわざ人間の多いところに近づく奴は少ない」


「ああ

なるほど」


魔物だって生き物なのだ


人間を見つければ

何がなんでも襲ってくる


なんてわけではないらしい


もちろん

絶対に安全というわけでもない


腹を空かせていたり

人間を恐れない魔物なら

街道の近くまで出てくることもある


バルドは荷馬車へ戻ると

荷物の中から小さな革袋を取り出した


「あ」


「なんだ」


「それ

最初に会った時に見せてくれた魔除けでしょう?」


「覚えてたか」


「一応ね」


バルドが革袋を開く


中に入っているのは

乾燥させた葉や木片


やっぱりあの時の物だ


「野営する時は

火にくべるって言ってたわね」


「ああ」


バルドは中身を少し取り出すと

野営地の周囲にいくらか置いていく


焚き火の準備ができれば

そちらにも使うらしい


私はその様子を眺めながら

改めて魔除けの匂いを嗅いでみた


「……結構いい匂いなのよね

これ」


「人間にはな」


香草に少し木の香りを混ぜたような

嫌いじゃない匂いだ


最初に見せてもらった時は

こんなふうにじっくり見る余裕なんてなかった


何時間も森の中を一人で歩いた末に

ようやく人と会えたという安堵


その直後に

あの森には魔物がいると知らされた混乱


あの時は

魔除けの匂いなんて気にしている場合じゃなかったのよね


「……あれ?」


「今度はなんだ」


「この匂い

どこかで嗅いだような……」


もう一度匂いを確かめる


最近嗅いだ


それも何度か――


「ラーニア?」


「そりゃそうだろ」


「え?」


「村の周りに植わってただろ

こいつの原料になる木や草が」


「そうなの!?」


普通に生えている植物だと思ってた!


「村じゃ珍しくねぇ」


「私

ラーニアが初めての村なんだから

知らないわよ!」


「…………」


バルドが一瞬

こちらを見る


「……そうなのか」


それだけ言って

手元の革袋へ視線を戻した


「私

ただのいい匂いの木だと思ってたわ」


「人間にはそんなもんだ」


なるほどねぇ


村の周りに植えておけば

そこへ近づく魔物を減らせる


旅人や商人は

持ち運べるように乾燥させたり

いくつか混ぜたりして使っているわけね


「じゃあ大きな街も

こういうのを植えてるの?」


「場所によるな

でかい街じゃ魔道具を使ってるところもある」


「魔除けの魔道具?」


「ああ

高ぇからどこにでもあるわけじゃねぇけどな」


「へぇ〜」


植物を利用する村もあれば

魔道具を使っている街もある


「魔道具なら

魔物が入ってこられないとか?」


「そんな便利なもんじゃねぇよ」


「違うの?」


「薬草より強力ではあるが

魔物が近づくのを嫌がるってのは同じだ」


「ああ

なるほど」


絶対に入れない壁を作るんじゃなくて


ここ嫌だな


近づきたくないな


そう思わせるものらしい


「だから街道でも

魔物が出ねぇとは思うなよ」


「分かったわ」


「見つけても下手に近づくな」


「逃げるの?」


「逃げる」


即答だった


「やっぱり商人は戦わないのね」


「当たり前だ

商品と馬抱えて

わざわざ魔物と殴り合ってどうすんだ」


「まあ

そうよね」


異世界ものなら


魔物を倒して

素材を売ってお金にする


なんていうのは定番だけど


この世界でも同じなのかしら


「ちなみに

魔物って倒したら素材を売れたりする?」


「売れるぞ

物によっちゃ肉や皮

牙や角なんかも金になる」


なるほど


その辺りは

私の知っている異世界ものと

そう変わらないらしい


「じゃあ

そういうのを扱う冒険者ギルドもあるの?」


「ああ」


やっぱりあるのね


冒険者ギルド


存在してほしくなかった魔物とは違って

こっちはちょっと見てみたい


「魔物を見かけたら

近くの冒険者ギルドに報告すればいい?」


「ありゃな

なけりゃ村長にでも伝えとけ」


「その後は冒険者が確認して

必要なら討伐する感じ?」


「大体はな

種類や数にもよる」


「なるほどね」


想像していたものと

似ているところもある


でも


だからといって

全部が同じとは限らない


分からないことは

ちゃんと聞いた方がよさそうね


「マサキ」


「何?」


「話は終わりだ

馬の世話するぞ」


「はいはい」


「そのあと荷物の確認」


「分かったわ」


「終わったら薪だ」


「ちょっと待ちなさいよ!

一個ずつ言って!」


「全部やるんだよ」


「それは分かってるわよ!」


野宿って


寝るだけじゃないのね……


馬の世話を手伝い


荷馬車の荷物を確認し


薪になりそうな枝を集める


戻ってくれば

バルドは火を起こす準備をしていた


私はその横へ枝を置く


「これくらい?」


「もう少し欲しいな」


「まだ!?」


「夜は長ぇぞ」


「…………行ってきます」


「遠くまで行くなよ」


「分かってるわよ」


再び枝を拾いに行く


数時間荷馬車に揺られた後にこれ


旅って


思ってたよりずっと体力使うわね……


二往復して戻った頃には

すでに火がついていた


ぱちぱちと薪が燃えている


さっきの魔除けも火にくべられ

ほんのりと香草のような匂いが漂っていた


「つっかれたぁ……」


私はその場へ座り込む


もちろんクッションは持ってきた


「まだ飯があるぞ」


「…………」


私はゆっくりバルドを見る


「作ってくれるの?」


「干し肉とパンだ」


「…………」


バルドが荷物から干し肉を取り出す


そしてパン


以上


「これ夕飯?」


「そうだ」


「…………」


「なんだその顔」


「野宿って毎回これ?」


「大体はな」


「…………」



いや


干し肉もパンも嫌いじゃない


嫌いじゃないけど


何日もこれが続くのは嫌


私は料理が好きなのだ


そして何より


美味しい物が好きなのだ


「ちょっと待って」


《収納》を確認する


ラーニアを出る時

村のみんなから色々持たせてもらった


野菜やチーズ


それに少しの肉


使える


「何する気だ?」


「料理」


「今からか?」


「今からよ」


「干し肉とパンでいいだろ」


「よくない」


即答する


「せっかく食べるなら

美味しい方がいいでしょう?」


「食えりゃ同じだ」


「同じじゃない!」


この人とは一度

食事についてじっくり話し合う必要がありそうね


とはいえ

凝った料理を作るつもりはない


野宿だもの


簡単でいい


私はスマホを取り出した


せっかくだから

こういう時に使えそうな物を買っておこう


検索して見つけたのは

肉にも野菜にも使える万能調味料


塩や胡椒


ニンニクに

いくつかの香辛料や香草が混ぜられたもの


これ一本あれば

大体なんとかなるタイプね


購入


配送先は《無限収納》


そのまま取り出す


「それは?」


「私の故郷の調味料よ」


「また変なもん出してきたな」


「変な物じゃないわよ」


バルドが用意していた調理道具を借りる


ラーニアでもらった野菜を切り

肉と一緒に焼いていく


火が通ってきたところで


万能調味料を


パッパッ


「おい」


「何?」


「今何入れた?」


「だから調味料」


「見せろ」


「はいはい」


瓶は私が持ったまま

バルドへ中身を見せる


バルドが少し匂いを嗅いだ


「……胡椒入ってるな」


「あら

匂いだけで分かるの?」


「そりゃ分かる」


「へぇ」


「へぇ

じゃねぇ」


「何よ」


「それ

気軽に使うなよ」


「なんで?」


「胡椒は高ぇ」


「……マジか」


そういえば


異世界ものだと

胡椒がとんでもない高級品として出てくること

結構あったわね


昔は金と同じくらい価値があった――


なんて話も

どこかで聞いたことがある


もちろん


それがこの世界でも

同じとは限らないけど


少なくとも

バルドの反応を見る限り


気軽にパッパッと使う物ではないらしい


「それだけじゃねぇぞ」


「まだあるの?」


バルドが私の持つ瓶へ目を向ける


「塩も随分白い

粒も揃ってやがる

それに香草も何種類か入ってるな」


「そんなところまで見るのね」


「商人だからな」


バルドはもう一度

中身を確かめるように見る


「これだけ色々入ってりゃ

この国じゃ随分贅沢な調味料だ」


「なるほどねぇ」


私にとっては

肉や野菜にパッパッとかけるだけの万能調味料


でも


この国では

中に入っている物を一つずつ見れば

話が違ってくるらしい


危ない危ない


何も考えず

人前で使うところだったわ


「私の故郷じゃ

そこまで珍しい物じゃないのよ」


「そうか」


「…………」


それだけ?


もっと聞かれるかと思った


どこで作ってるとか


どこで手に入れたとか


いくらするんだとか


商人なら

気になってもおかしくないはずなのに


でもバルドは

それ以上何も聞かなかった


「ただ

人前で気軽に出すのはやめとけ」


「分かったわ」


こういうところは

素直に聞いておいた方がいい


知っている話と似ていたとしても


この世界が

その通りだとは限らないのだから


料理が完成する


「はい」


皿へ盛ってバルドへ渡す


「熱いから気をつけて」


「おう」


バルドが一口食べる


「…………」


「どう?」


もう一口


「ねえ」


「うまい」


「でしょう?」


ふふん


料理を褒められるのは

やっぱり気分がいい


私も食べてみる


「うん」


簡単な料理だけど十分美味しい


やっぱり食事はこうじゃないと


「明日もお前が作れ」


「なんでよ」


「うまいからだ」


「…………」


「嫌ならいいが」


「仕方ないわねぇ」


「嬉しそうじゃねぇか」


「美味しいって言われて

嫌な料理好きがいるわけないでしょう?」


明日は何作ろうかしら


そんなことを考えながら食べていると

ふと思い出した


「あ」


「なんだ」


「パンももらってたわ」


ラーニアを出る時にもらったパン


せっかくだから

こっちを食べよう


《収納》からパンを取り出す


手にした瞬間


焼いてすぐのような温かさが

手のひらに伝わってきた


「うん

まだ温かい」


温かさも柔らかさも

受け取った時と変わらない


「バルドも食べる?」


「…………」


返事がない


「バルド?」


見ると

バルドが私の持っているパンをじっと見ていた


「何?」


「……それ」


「パンよ」


「見りゃ分かる」


「じゃあ何よ」


「いつのパンだ?」


「いつって」


私はパンを見る


「ラーニアを出る時にもらったやつよ」


「…………」


「何?」


「なんでまだ焼きたてみてぇなんだ」


「え?」


言われて

もう一度パンを見る


確かにそうだ


温かさも


柔らかさも


ラーニアで受け取った時と変わっていない


でも


「《収納》に入れてたからでしょう?」


「それでも時間は経つぞ」


「…………え?」



なんて?


「普通の《収納》って……

時間止まらないの?」


「止まるわけねぇだろ」


バルドが

何を言ってるんだという顔をする


「中じゃ時間の進みが遅くなる

それでも食い物は古くなるし

熱いもんはそのうち冷める」


「…………」


私は手の中のパンを見る


温かい


それも

焼きたてとほとんど変わらない


《収納》って


入れた物の時間が止まる――


異世界ものじゃ

そんな設定も珍しくないから


てっきり

そういうものだと思っていた


でも


考えてみれば


この世界でもそうだなんて

誰にも聞いてない


「……マジ?」


「お前

自分の《収納》のこと知らねぇのか?」


「ちょっと色々事情があるのよ!」


まさか


テンプレ知識で勝手に納得してたところを

こんな形でひっくり返されるとは


やっぱり


知ってるつもりで決めつけるのは

危ないわね……


「そういや」


バルドが私を見る


「お前の《収納》

随分入るよな」


ぎくっ


「そう?」


「村でも相当入れてただろ」


「…………」


「どれくらい入るんだ?」


来た


私は笑顔を作る


「かなり♡」


「…………」


「かなり入るのよね〜♡」


「……そうか」


「そうなの♡」


バルドはしばらく私を見る


けれど


それ以上は聞いてこなかった


「まあいい」


そう言って

私の持っているパンへ視線を向ける


「それ

人前じゃ気をつけろよ」


「え?」


「時間が止まる《収納》なんざ

俺は聞いたことがねぇ」


「……そんなに?」


「少なくとも

そこらで見かけるもんじゃねぇな」


また一つ


この世界での自分の常識が崩れた


「分かったわ」


「ならいい」


それだけ言って

バルドは料理へ戻った


私は手の中のパンを見る


それから


バルドを見る


何も聞かないのね


聞こうと思えば

いくらでも聞けるはずなのに


私の《収納》も


変な道具も


故郷の調味料も


きっと普通じゃない


それでもバルドは


必要なことだけ教えて

それ以上は踏み込んでこない


「……ありがと」


「何がだ」


「なんでもない」


「変な奴だな」


「アンタに言われたくないわよ」


パンを半分に割る


「はい」


「なんだ」


「食べる?」


「もらう」


「素直でよろしい」


「うるせぇ」


二人で

焼きたてのままのパンを食べる


ラーニアで食べた時と

同じ味がした



食事を終えると

私は鍋に水を入れて火にかけた


「今度はなんだ」


「お湯沸かしてるの」


「見りゃ分かる」


「身体拭くのよ

あと髪も洗いたいし」


バルドが私を見る


「髪まで洗うのか?」


「洗うわよ」


今日一日


荷馬車に揺られて


薪を拾って


火のそばで料理までした


汗もかいたし

髪には土埃もついている


このまま寝るなんて

私には無理


湯船に入れないくらいは我慢する


野宿なんだから

そこまで贅沢を言うつもりもない


でも


洗えるのに

身体や髪を汚れたままにするのは嫌


沸かしたお湯を少し冷まして

布を濡らす


まずはこれで身体を拭く


これだけでも

随分さっぱりする


問題は髪


ラーニアにいた時と同じように

必要な物を《収納》から取り出して


なるべく少ないお湯で

髪を洗っていく


「よくやるな」


「アンタは平気なの?」


「身体は拭く」


「髪は?」


「毎日洗わねぇよ」


「私は洗いたいの」


「そうかよ」


洗った後のお湯は

用意した容器で受けていく


さすがに

このまま川へ流すわけにはいかない


全部まとめたところで


容器ごと《収納》へ


捨てても問題ない場所が見つかるまでは

一旦これでいい


容量なら――


まあ


困ることはないしね


「……それまで入れんのか」


「その辺に捨てるよりいいでしょう?」


「まあな」


私はもう一つの容器へ

残しておいたお湯を移す


「アンタのお湯もあるわよ」


「……俺の?」


「身体くらい拭くでしょう?」


「まあな」


「だったら使いなさい」


「……もらう」


「どうぞ」


なんだかんだ


使うのね


バルドの分を残し

私は布で髪の水気を取る


「はぁ〜……

さっぱりした」


「大袈裟だな」


「アンタには分からないのよ」


湯船には入れない


それでも


身体を拭いて

髪を洗っただけで随分違う


これなら気持ちよく眠れそうね



火のそばに敷物を広げ

その上に毛布を敷く


横になってみる


「…………硬い」


「野宿だからな」


「分かってるわよ」


クッションを頭の下へ入れる


ないよりはマシ


でも


明日は絶対に何か買おう


寝る時に敷ける

柔らかいやつ


文明の力に頼れるところは

遠慮なく頼ることにする


「ほら」


バルドが毛布を放ってくる


「何?」


「寝ろ」


「アンタは?」


バルドは焚き火の前に座り

薪を一本放り込んだ


「火ぃ見てる」


「そう」


野宿って

そういうものなのかしら


初めてだから分からない


まあ


バルドがそう言うなら

そういうものなんでしょう


「じゃあ先に寝るわね」


「おう」


毛布を身体にかける


その少し向こうには荷馬車


馬も静かに休んでいる


焚き火からは

魔除けの香草と木が混ざったような匂いが

ほんのりと漂っていた


見上げれば


空いっぱいの星


街灯なんて一つもない


日本にいた頃には

ほとんど見たことがないほどの星だった


「……綺麗ね」


「そうか?」


「そうよ」


バルドにとっては

きっと見慣れた景色なんだろう


でも私にとっては違う


知らない空


知らない土地


知らない道


知っているようで

知らない常識


異世界ものなら

知っている


そう思っていたものだって


実際にここで暮らしてみれば

同じところもあれば

違うところもある


きっとこれからも

そういうことがたくさんあるんだろう


「バルド」


「なんだ」


「明日も馬車よね?」


「当たり前だ」


「…………」


お尻はクッションでなんとかなった


問題は腰と背中


それからこの硬い地面


明日の私


頑張って


「おやすみ」


「おう」


焚き火へ

また一本薪が放り込まれる


ぱちりと火の粉が舞った


それを眺めながら


私はそっと目を閉じる


異世界の旅は


想像していたよりずっと大変で


知らないことだらけで


それでも――


思っていたより


少しだけ楽しかった


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