第一話 ……厄介事ですわね
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
王都は平和だった。
少なくとも、アメリアはそう思っていた。
監査局の執務室。
机の上には帳簿。
横にも帳簿。
後ろにも帳簿。
実に平和である。
誰にも邪魔されず、
不正の痕跡を探し、
業務改善案を書き込み、
滞っている案件を整理する。
なんとも充実した一日だった。
だからこそ。
執務室の扉を叩く音を聞いた瞬間。
アメリアは嫌な予感がした。
「失礼いたします」
入ってきた人物を見た瞬間、
その予感は確信へ変わった。
「王太子殿下」
「久しぶりだな」
ルーカスだった。
爽やかな笑顔である。
だがアメリアにとっては違う。
面倒事の化身だった。
「……厄介事ですわね」
「会った瞬間それか?」
「違うのでしたら帰ります」
「違うわけがない」
即答だった。
アメリアは小さくため息を吐いた。
やはり。
平和は長続きしない。
「それで、本日はどのようなご用件でしょう」
「頼みがある」
予想通り。
アメリアは紅茶を一口飲んだ。
「内容次第です」
「ミリア嬢の教育を頼みたい」
アメリアの動きが止まる。
数秒。
静寂。
「承知いたしました」
ルーカスが固まった。
「……は?」
「お引き受けいたします」
「え?」
今度はルーカスが理解できない番だった。
断られると思っていた。
嫌そうな顔もした。
なのに。
引き受けた。
しかも一回で。
「いや、待て」
「なんでしょう」
「なぜだ?」
アメリアは不思議そうな顔をした。
「何がでしょう」
「いや、だから」
ルーカスは額を押さえる。
「君はそういう面倒な仕事を嫌がるだろう」
「嫌ですわ」
「嫌なんだな」
「はい」
断言だった。
ルーカスは少し安心した。
正常な反応だった。
だが次の言葉で、その安心は吹き飛ぶ。
「ですが、お引き受けいたします」
「だからなぜだ」
アメリアは本気で不思議そうに首を傾げた。
「どうせ付きまとわれるのでしょう?」
「言い方が……」
途中で呑み込む。
「……まあ、そうなるな」
「でしたら早く終わらせた方が効率的です」
静寂。
ルーカスは天井を見上げた。
なるほど。
アメリアらしい。
実にアメリアらしい。
やりたいからやるのではない。
逃げても無駄だと判断しただけである。
「君は本当に」
「はい」
「変わらないな」
「そうでしょうか」
むしろ以前より合理的になった気もする。
少なくとも。
王太子という巨大な問題を放置した結果、
どうなったかは学習していた。
問題は放置すると増殖する。
そして巨大化する。
処理できるうちに処理したほうが楽である。
それだけだ。
「では、いつから始めましょうか」
「既に準備は済んでいる」
「仕事が早いですわね」
「誰かさんに鍛えられたからな」
アメリアは褒め言葉だと思った。
実際は半分ほど恨み言だった。
◇
翌日。
王城の一室。
ミリアは緊張していた。
ものすごく緊張していた。
椅子に座っている。
だが落ち着かない。
手は膝の上。
背筋も伸ばしている。
なのに落ち着かない。
当然だった。
今日から。
アメリアによる王妃教育が始まる。
「どうしましょう……」
呟く。
心臓が痛い。
自分は本来ここにいるはずの人間ではない。
自分が王太子妃候補になったことで。
婚約を失った人がいる。
アメリアだ。
それなのに。
教育担当まで引き受けてくれた。
申し訳なさ。
感謝。
尊敬。
全部が混ざっていた。
その時。
扉が開いた。
ミリアは反射的に立ち上がる。
「アメリア様!」
「お待たせいたしました」
いつもの無表情。
いつもの落ち着いた声。
怒っている様子もない。
責める気配もない。
だがそれが逆に恐ろしい。
「本日はよろしくお願いいたします!」
深々と頭を下げる。
アメリアは軽く頷いた。
「はい」
短い。
だが冷たいわけではない。
いつも通りなのだろう。
「では始めましょう」
「はい!」
ミリアは勢いよく返事をした。
やる気は十分。
覚悟も十分。
心構えも十分。
たぶん大丈夫。
きっと大丈夫。
そう思った。
一時間後。
「違います」
「はい」
二時間後。
「それも違います」
「はい……」
三時間後。
「理解が不足していますね」
「申し訳ありません……」
ミリアは机に突っ伏したくなっていた。
全滅だった。
礼儀作法。
知識。
作法。
歴史。
全て指摘される。
容赦がない。
一切容赦がない。
しかし。
アメリアは怒らない。
馬鹿にもしない。
ただ淡々と。
「こちらを読み直してください」
「はい」
「ではもう一度」
「はい」
「理由を説明してください」
「はい!」
延々と付き合ってくれる。
何度失敗しても。
何度間違えても。
やめない。
見捨てない。
だからミリアは思った。
(厳しい……)
(でも優しい方なんだ……)
アメリアは資料を書き込みながら考えていた。
(理解が遅いですわね)
認識に大きな差があった。
こうして。
後に王妃となる少女と。
後に伝説となる監査官の。
奇妙な教育の日々が始まったのである。
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