第五話 逃げるのはやめようと思います
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
あの日から。
世界が少し変わった。
劇的ではない。
本当に少しだけ。
けれど。
確かに変わった。
◇
嫌がらせは減った。
完全になくなったわけではない。
だが。
露骨なものは消えた。
無視も減った。
陰口も減った。
少なくとも以前ほどではない。
そして何より。
怖くなくなった。
理由は分かっている。
アメリア・フォン・アルフォード。
あの人がいたからだ。
◇
「ごきげんよう、ミリア様」
「ごきげんよう」
令嬢達が挨拶を返してくれる。
以前のように。
自然に。
それだけなのに。
少し嬉しかった。
◇
ある日。
ミリアは図書館へ向かった。
王立学園の図書館。
巨大な本棚。
静かな空気。
そして。
窓際の特等席。
そこに。
アメリアがいた。
いつものように。
本を読んでいる。
紅茶を飲んでいる。
穏やかな表情。
まるで。
何事もなかったかのように。
◇
(本当に不思議な方……)
ミリアは遠くから見つめる。
婚約者だ。
王太子の。
本来なら。
一番怒っていてもおかしくない人。
一番傷付いていてもおかしくない人。
なのに。
何故か。
一番落ち着いている。
◇
「アメリア様」
侯爵令嬢が話しかける。
「何かあれば仰ってくださいませ」
「ありませんわ」
即答。
「遠慮なさらず」
「本当にありませんわ」
ミリアは思わず笑いそうになった。
何となく分かる。
本当にないのだ。
あの人は。
嘘を言っているわけではなく。
本気で。
困っていない。
◇
その帰り道。
「見ていたな」
声がした。
振り向く。
ルーカスだった。
最近は見慣れた光景。
いや。
慣れてはいけないのだろう。
でも。
嬉しかった。
◇
「また会いに来てくださったのですか」
「当然だ」
当然らしい。
この人はいつもそうだ。
◇
二人は中庭を歩く。
ゆっくり。
春風が心地良い。
◇
「最近はどうだ」
ルーカスが聞く。
「どう、とは」
「困っていないか」
困っている。
少し前までならそう答えただろう。
でも。
今は違う。
「大丈夫です」
本心だった。
ルーカスは少しだけ安心したようだった。
◇
沈黙が落ちる。
不思議と嫌ではない。
むしろ心地良かった。
◇
「ミリア」
不意に。
ルーカスが足を止めた。
◇
「俺は諦めるつもりはない」
真っ直ぐな声だった。
飾りがない。
いつものように。
◇
「殿下……」
「ルーカスでいい」
「よくありません」
「なら将来そうなる」
さらりと言う。
とんでもないことを。
◇
ミリアは俯いた。
胸が苦しい。
嬉しい。
でも。
それと同じくらい怖い。
アメリア様。
公爵家。
王家。
貴族社会。
責任。
全部頭に浮かぶ。
「私は」
ミリアはゆっくり口を開いた。
「まだ答えを出せません」
ルーカスは黙って聞く。
「怖いのです」
正直に言った。
「自分が何をしているのか」
「何を選ぼうとしているのか」
「分からなくなる時があります」
ルーカスは何も言わない。
ただ聞いている。
「ですが」
ミリアは空を見上げた。
青空。
暖かな春の日。
思い出す。
アメリアの言葉。
『責任は個人にございます。』
『男爵令嬢は別です。』
そして気付いた。
今まで。
逃げていた。
身分差から。
世間から。
噂から。
全部から。
逃げようとしていた。
でも。
アメリアは逃げなかった。
面倒事から。
誤解から。
非難から。
全部向き合った。
なら。
自分も。
向き合わなければいけない。
「ルーカス様」
初めてそう呼んだ。
ルーカスが目を見開く。
「私はまだ未熟です」
「知っている」
「不安です」
「知っている」
「怖いです」
「それも知っている」
だから。
ミリアは笑った。
少しだけ。
「それでも」
「逃げるのはやめようと思います」
ルーカスが固まる。
そして。
ゆっくり笑った。
心の底から嬉しそうに。
その笑顔を見て。
ミリアは思った。
ああ。
私は本当に。
この人が好きなのだと。
お読み頂き、ありがとうございます。




