第三話 どこまで考えていたんですか
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
時は少しさかのぼり。
緊急会議の前日。
監査局は静かだった。
静かすぎる、と言ってもいい。
以前から決して騒がしい職場ではなかった。
だが今は違う。
誰もが声を落とし。
誰もが机へ向かい。
誰もが仕事をしている。
それなのに、どこか異様だった。
まるで。
息を潜めているようだった。
◇
アメリアの執務室。
そこへ入る人間はほとんどいない。
入れないのだ。
局員達にとって。
ここはまだ。
局長が帰ってくる場所だった。
だから誰も勝手に触りたくない。
触った瞬間。
本当に帰ってこなくなるような気がした。
そんな馬鹿げた考えを。
監査局の優秀な局員達ですら捨てられずにいた。
◇
その日。
副局長が机を見つめていた。
机の上には書類の山。
整理済み。
保留。
確認待ち。
区分ごとに整然と積み上げられている。
今にも。
アメリアが扉を開けて現れそうだった。
『副局長』
淡々とした声。
『その資料は後回しです』
『いえ、優先順位が違います』
『こちらを先に』
そんな幻聴すら聞こえる。
副局長は苦笑した。
「重症だな」
自分自身に対して。
そして周りを見渡す。
局員達も似たようなものだった。
誰かが机を見ている。
誰かが扉を気にしている。
誰かが紅茶のカップを見ている。
全員が待っていた。
帰ってくるはずがないと理解しながら。
それでも。
待っていた。
「副局長」
一人の若い局員がやって来た。
「どうした」
「資料保管室なんですが」
「何かあったか」
局員は分厚い紙束を抱えていた。
いや。
一つではない。
二つ。
三つ。
四つ。
抱えきれないほどの量。
「見つけました」
◇
十分後。
監査局会議室。
机いっぱいに資料が並んでいた。
誰も言葉を失っている。
多すぎた。
量が。
異常だった。
副局長が一冊手に取る。
『東方主要商会一覧』
次。
『東方港湾利用実績』
次。
『東西街道整備に関する調査報告書』
次。
『東方交易拡大による税収予測』
次。
『東方連盟法制度概要』
次。
『関税調整案』
次。
『物流監査結果』
次。
『港湾運営監査案』
まだある。
まだある。
まだある。
机が埋まる。
「……なんだこれは」
副局長が呟いた。
本気で分からなかった。
東方関連資料。
それは分かる。
だが。
ここまで調べる必要がどこにある。
ここは東方ではない。
王国だ。
監査局だ。
しかも。
資料の日付を見ると。
かなり前から作られている。
戦争前。
戦争中。
そして戦争直前まで。
少しずつ増えている。
つまり。
局長はずっと調べていた。
「局長は東方担当ではありませんでしたよね」
「違うな」
「外交官でもないですし」
「違う」
「商人でも」
「違う」
「ではなぜ……」
誰も分からない。
分からないから頁をめくる。
そして気付く。
「物流、か」
資料の内容は単純だった。
東方との交易拡大。
街道整備。
港湾整備。
商業活性化。
税収増加。
治安改善。
市場拡大。
全部繋がっている。
戦争のためじゃない。
監査のためでもない。
王国を豊かにするため。
そのためだけに作られていた。
誰かが呟く。
「これ、何年分ですか」
副局長が黙る。
しばらく資料をめくり。
答えた。
「全部ではないが」
「少なくとも数年だろうな」
会議室が静まり返った。
数年。
つまり。
アメリアはずっと考えていた。
王国の未来を。
誰にも言わず。
一人で。
「どうしてでしょう」
若い局員が言った。
「ここまで」
副局長は答えなかった。
いや。
答えは分かっていた。
皆、分かっていた。
アメリアだからだ。
ただそれだけ。
問題を見つけた。
だから調べた。
改善できると思った。
だから資料を作った。
誰かに命じられたからじゃない。
褒められるためでもない。
必要だと思ったから。
それだけだった。
「局長らしいな……」
誰かが笑った。
少しだけ。
本当に少しだけ。
「減らしたい減らしたい言いながら」
「仕事増やしてるじゃないですか」
局員達も小さく笑う。
久しぶりだった。
笑ったのは。
アメリアがいなくなってから初めてかもしれない。
その時。
副局長の手が止まった。
一枚の文書。
他と違う。
表紙がない。
下書きのようなもの。
そこには見慣れた筆跡で書かれていた。
『王国と東方連盟の長期互恵関係について』
その文書には。
支援を求める方法。
利益の提示方法。
関税調整。
条約監査。
履行体制。
紛争時の協力関係。
全てがまとめられていた。
副局長はしばらく文章を読んだ。
読み終える。
そして静かに笑った。
泣きそうな顔で。
「局長」
誰に向けた言葉でもない。
「本当に」
喉が詰まる。
「どこまで考えていたんですか」
◇
その日の夕方。
分厚い資料の束は王城へ運ばれた。
王国の未来を左右する資料として。
そして誰も知らなかった。
その資料が。
王国を救う最初の一歩になることを。
ただ一つだけ。
監査局の人間達は理解していた。
アメリアはここにいない。
けれど。
アメリアが残したものは。
確かにまだ、この王国を支えていた。
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