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【第四部完結】監査令嬢~仕事を減らしたいだけなのに、王国が勝手に改革されていきます~  作者: 涙目
第十四章 諸国戦争編序章

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138/213

プロローグ アメリア

この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。

※この話は一万字近くあります。

感情を書くのに、費やした文字数です。

私にはこれを削ることができませんでした。

もし、苦手な方は途中で止めていただいて構いません。

冒頭だけでも次章への導入となっております。

ですが、最後までお読みいただき、何かを感じていただければ幸いです。

 アメリアがいない。

 その事実だけで、世界は終わった。


 王国が勝ったことも。

 戦争が終わったことも。

 敵が降伏したことも。

 民が救われたことも。


 そんなものは、ミリアには何一つ意味を持たなかった。


 勝利の鐘が鳴っていた。

 王都のどこかで人々が泣き、笑い、抱き合い、神に感謝していた。


 王国は守られた。

 国は滅びなかった。

 多くの命が救われた。


 誰もがそう言っていた。


 けれど。

 その中に。


 アメリアはいなかった。


 ただ、それだけだった。


 その一つだけで。

 ミリアの世界は、全部壊れた。



 最初の報告を受けた時、ミリアは理解できなかった。


 言葉は聞こえていた。

 声も聞こえていた。


 伝令の震える息遣いも、床に膝をつく音も、扉の向こうに控える侍女達の気配も、全部聞こえていた。


 けれど、意味が分からなかった。


 防波堤解放作戦成功。

 敵軍壊滅。

 戦争終結。

 実行部隊帰還。


 襲撃。

 矢。

 馬の暴走。

 濁流。

 転落。

 行方不明。


 単語だけが並ぶ。


 並ぶのに、繋がらない。

 繋がってはいけない。


 そんなものが一つの意味になるはずがない。


 だって。

 アメリアだ。


 あのアメリアだ。


 いつも何もかもを見抜いて。

 誰よりも早く問題に気付き。

 誰よりも冷静に答えを出し。

 誰よりも遠くまで考えていた。


 あの、アメリアだ。


 そのアメリアが。

 濁流に。


 落ちた。


 行方不明。


「……違うわ」


 ミリアの口から、声が漏れた。


 小さな声だった。


 自分の声とは思えなかった。


「違う」


 伝令は何も言わない。


 顔を上げない。


 だからミリアはもう一度言った。


「違うと言っているの」


 その声は震えていた。


 怒りではなかった。


 恐怖だった。


 目の前に差し出された現実を、どうしても受け取れない者の声だった。


「アメリアは?」


 伝令は答えない。


「アメリアはどこ?」


 答えない。


「戻ってくるのでしょう?」


 答えない。


「そうでしょう?」


 答えない。


 ミリアは一歩近付いた。


 足元がふらついた。


 それでも立った。


 伝令を見下ろす。


 いいえ。


 見ていなかった。


 伝令の向こう側を見ていた。


 そこにいるはずの人を、見ようとしていた。


 銀色の髪。


 赤い瞳。


 表情の薄い顔。


 淡々とした声。


 少し首を傾げる仕草。


 何を言っているのか分かりません、という顔。


 そして。


 いつものように。


 当たり前のように。


 こう言うはずだった。


 ミリア様。


 報告内容に誤りがあります。


 ミリアはそれを待っていた。


 待っていた。


 待っていた。


 けれど、誰も言わない。


 アメリアの声はしない。


「……嘘」


 ミリアは呟いた。


「嘘よ」


 今度は、はっきりと言った。


「そんな報告は、嘘です」


 伝令の肩が震えた。


 その震えが、報告が嘘ではないことを告げていた。


 ミリアはそれを見た。


 見てしまった。


 だから。


 息が止まった。


「嘘」


 否定する。


「嘘」


 もう一度。


「嘘、嘘、嘘」


 声が少しずつ崩れていく。


「だって、アメリアよ」


 喉が詰まる。


「アメリアなのよ」


 胸が痛い。


「そんなこと」


 息が上手く吸えない。


「そんなこと、あるはずがないでしょう」


 伝令は泣きそうな顔で頭を下げていた。


 その顔すら、ミリアには腹立たしかった。


 そんな顔をしないで。


 そんな顔をされたら。


 本当に。


 本当に、アメリアが戻ってこないみたいではないか。


「探しているのよね」


 ミリアは言った。


「今も探しているのよね」


「はい」


 ようやく伝令が答える。


「捜索は、続けられております」


 その言葉だけを掴んだ。


 ミリアはそれだけを掴んだ。


 捜索している。


 なら、まだ終わっていない。


 見つかっていないだけ。


 死んだわけではない。


 いなくなったわけではない。


 ただ、今は見つかっていないだけ。


 そうだ。


 そうに決まっている。


「なら、見つけなさい」


 ミリアは命じた。


「見つけなさい」


 声が震える。


「今すぐ」


 伝令が頭を下げる。


「はっ」


「川下も」


「はっ」


「村も」


「はっ」


「橋も、林も、岩場も、全部」


「はっ」


「全部探して」


「はっ」


「夜でも探して」


「はっ」


「雨でも探して」


「はっ」


「水の中でも探して」


「はっ」


「アメリアを」


 そこで声が割れた。


「アメリアを、見つけて」


 伝令は深く頭を下げた。


「必ず」


 その言葉を聞いた瞬間。


 ミリアは叫んだ。


「必ずじゃない!」


 伝令がびくりと震える。


 侍女達も息を呑む。


 ミリア自身も、自分の声に驚いた。


 けれど止まらなかった。


「必ず見つけて!」


 涙が溢れた。


「必ずって言葉だけでは駄目なの!」


 胸が苦しい。


「見つけて!」


 喉が焼ける。


「連れて帰って!」


 叫ぶ。


「ここに!」


 もう王太子妃の声ではなかった。


「私のところに!」


 子供のように。


 泣き叫ぶ。


「アメリアを連れて帰ってきなさい!!」


 誰も答えられなかった。


 答えられるはずがなかった。


 ミリアはそれでも、睨むように伝令を見た。


 違う。


 睨んでなどいない。


 縋っていた。


 その男が、アメリアを連れて帰ってくれると。


 そんなあり得ないことに、縋っていた。


「お願い」


 声が急に小さくなる。


「お願いだから」


 膝が震える。


「連れてきて」


 もう命令ではなかった。


「アメリアを」


 願いだった。


「連れてきて」


 祈りだった。


「お願い」


 伝令は震えながら頭を下げるだけだった。


 ミリアは、それ以上立っていられなかった。


 足から力が抜ける。


 床に崩れ落ちた。


 痛みはない。


 ただ、胸が痛い。


 胸が。


 胸の奥が。


 引き裂かれているように痛い。


「アメリア」


 名前が漏れた。


「アメリア」


 もう一度。


「アメリア」


 三度目。


 返事はない。


 返事がない。


 いない。


 アメリアがいない。


 それだけで。


 涙が止まらなくなった。



 それから何日経ったのか。


 ミリアには分からなかった。


 一日だったのか。


 二日だったのか。


 三日だったのか。


 もっと長かったのか。


 分からない。


 朝が来たことも。


 夜が来たことも。


 食事が運ばれてきたことも。


 誰かが部屋の外で声を掛けたことも。


 全部、遠かった。


 世界が遠かった。


 ただ。


 アメリアだけが、遠いのではなく。


 いなかった。


 それが何よりも怖かった。


 最初は、まだ待てた。


 すぐに見つかると思った。


 誰かが扉を開けて。


 見つかりました。


 生きています。


 怪我はありますが、命に別状はありません。


 そう言うと思った。


 信じていた。


 信じる以外なかった。


 けれど。


 報告は来る。


 見つかりません。


 発見できておりません。


 手掛かりはありません。


 馬具の一部を確認。


 衣服の一部か判別中。


 川下まで捜索範囲を拡大。


 発見なし。


 発見なし。


 発見なし。


 発見なし。


 発見なし。


 そのたびに、ミリアの中から何かが削れていった。


 最初に削れたのは、怒りだった。


 次に削れたのは、命令する力だった。


 その次に削れたのは、祈る力だった。


 最後に残ったのは。


 ただ。


 嫌だ。


 それだけだった。


「嫌」


 ミリアは呟いた。


 自室の中。


 誰もいない部屋。


 閉ざされた扉。


 引かれた帳。


 薄暗い寝台の上。


 ミリアは膝を抱えていた。


「嫌」


 もう一度。


「嫌」


 三度目。


 声は掠れていた。


 泣きすぎて喉が痛い。


 目も痛い。


 頭も痛い。


 体も重い。


 胸はずっと痛い。


 でも、涙だけは止まらない。


「アメリア」


 呼ぶ。


 返事はない。


「アメリア」


 もう一度。


「アメリア」


 何度呼んでも、返事はない。


 そのたびに、新しく傷付く。


 分かっているのに、呼んでしまう。


 呼ばなければ、本当に消えてしまう気がした。


 名前を呼び続けていれば。


 どこかで聞こえるかもしれない。


 どこかで気付くかもしれない。


 どこかで、あの子が振り返るかもしれない。


 そんなはずがない。


 そんなことは分かっている。


 でも、やめられない。


「戻ってきて」


 ミリアは寝台の布を握り締めた。

挿絵(By みてみん)


「戻ってきてよ」


 涙が落ちる。


「お願いだから」


 声が震える。


「お願いだから、戻ってきて」


 返事はない。


「怒らないから」


 子供のような言葉だった。


「もう、仕事しすぎって言わないから」


 涙が止まらない。


「休んでって言わないから」


 息が乱れる。


「書類を増やしてもいいから」


 喉が詰まる。


「私に厳しくしてもいいから」


 布を握る手に力が入る。


「また、呆れた顔をしてもいいから」


 声が壊れる。


「だから」


 息を吸う。


 苦しい。


「だから、戻ってきて」


 泣き声になる。


「戻ってきてよ、アメリア」


 それだけだった。


 ミリアの中には、それしかなかった。


 国もない。


 王都もない。


 民もない。


 政務もない。


 王太子妃としての責務もない。


 未来もない。


 ただ、アメリアに戻ってきてほしかった。


 アメリアがいてほしかった。


 アメリアの声が聞きたかった。


 アメリアの顔が見たかった。


 アメリアに名前を呼ばれたかった。


 ただ、それだけだった。



 食事は冷めていた。


 侍女が何度も運んできた。


 何度も下げた。


 皿の中身はほとんど減らなかった。


 ミリアは食べなかった。


 食べられなかった。


 何かを口に入れると、吐きそうになった。


 水だけは少し飲んだ。


 でも、その水の冷たさで川を思い出した。


 濁流。


 流れ。


 沈む体。


 息ができない。


 冷たい水。


 岩。


 泥。


 深い場所。


 暗い場所。


 アメリアが、そこにいるかもしれない。


 そう思った瞬間、コップを落とした。


 水が床に広がる。


 侍女が慌てて駆け寄ろうとした。


 ミリアは叫んだ。


「来ないで!」


 侍女が止まる。


 ミリアは震えていた。


 自分でも分かっていた。


 ひどい声だった。


 理不尽だった。


 侍女は何も悪くない。


 誰も悪くない。


 いや。


 悪い者はいる。


 アメリアを奪った者がいる。


 でも今は、そんなことすら考えられない。


 誰が悪いとか。


 誰を罰するとか。


 そんなところまで、心が届かない。


 ただ、アメリアがいない。


 それだけで、全部がいっぱいだった。


「出ていって」


 ミリアは言った。


「でも」


「出ていってと言っているの!」


 侍女は泣きそうな顔で頭を下げた。


 扉が閉まる。


 ミリアは一人になった。


 一人。


 その言葉が怖かった。


 一人。


 アメリアがいない。


 一人。


 誰もいない。


 一人。


 ミリアは震えながら寝台へ戻った。


 膝を抱える。


 体を丸める。


 子供のように。


 小さく。


 小さく。


 小さくなろうとした。


 世界から見つからないように。


 悲しみに押し潰されないように。


 けれど、どれだけ小さくなっても。


 アメリアがいないという事実だけは、逃がしてくれなかった。


「アメリア」


 呼ぶ。


「アメリア」


 また呼ぶ。


「アメリア」


 何度も。


 何度も。


 何度も。


 声が枯れても。


 喉が痛くても。


 呼び続けた。


 呼べば、返事があるような気がした。


 呼ばなければ、もう二度と返ってこないような気がした。


「返事して」


 ミリアは泣いた。


「返事してよ」


 布団を握り締める。


「いつもみたいに」


 声が震える。


「はい、って」


 涙が溢れる。


「ミリア様、って」


 息が詰まる。


「言ってよ」


 返事はない。


「言ってよ!」


 叫ぶ。


「言ってよ、アメリア!」


 部屋の中に声が響く。


 返ってくるのは、自分の泣き声だけ。


 ミリアは両手で耳を塞いだ。


 聞きたくなかった。


 自分の声しかない部屋が、怖かった。


 アメリアの声がない部屋が、怖かった。


 あの子の気配がない世界が、怖かった。


「嫌」


 ミリアは泣き叫んだ。


「嫌、嫌、嫌、嫌!」


 子供のように首を振る。


「嫌よ!」


 涙が飛ぶ。


「嫌なの!」


 声が裏返る。


「アメリアがいないなんて嫌!」


 胸が痛い。


「アメリアが帰ってこないなんて嫌!」


 息が乱れる。


「アメリアに会えないなんて嫌!」


 寝台の上で、ミリアは泣き崩れた。


「嫌ぁ……!」


 それはもう、言葉ではなかった。


 ただの泣き声だった。


 何も考えられない。


 何も見えない。


 何も聞こえない。


 ただ、苦しい。


 ただ、痛い。


 ただ、寂しい。


 ただ、怖い。


 アメリアがいない。


 アメリアがいない。


 アメリアがいない。


 頭の中で、その言葉だけが繰り返される。


 何度も。


 何度も。


 何度も。


 まるで呪いのように。



 ミリアは夢を見た。


 アメリアがいた。


 いつものように、淡々と書類を持って立っていた。


 表情は変わらない。


 少し首を傾げている。


 ミリア様。


 呼ばれた。


 その瞬間、ミリアは泣きながら駆け寄った。


 アメリア。


 アメリア。


 よかった。


 生きていた。


 戻ってきた。


 ミリアは手を伸ばす。


 抱き締めようとする。


 けれど。


 触れる直前。


 アメリアの姿が、水に溶けた。


 銀の髪が流れにほどける。


 赤い瞳が遠ざかる。


 手を伸ばしても届かない。


 叫んでも声が出ない。


 アメリアは何も言わない。


 ただ、静かに遠ざかる。


 濁流の中へ。


 暗い水の奥へ。


 ミリアは叫んだ。


 叫んだはずだった。


 けれど喉から出るのは、掠れた息だけだった。


 そして目が覚めた。


 部屋は暗かった。


 アメリアはいなかった。


 ミリアはしばらく、何も分からなかった。


 夢なのか。


 現実なのか。


 どちらが夢なのか。


 アメリアがいた方が夢なのか。


 アメリアがいない方が現実なのか。


 分かりたくなかった。


 分かってしまったら、また壊れる。


 けれど。


 部屋には誰もいなかった。


 声もなかった。


 アメリアはいなかった。


「……っ」


 喉が鳴る。


「いや」


 小さな声。


「いや」


 少し大きくなる。


「いや」


 震える。


「いやぁ……」


 ミリアは寝台の上で体を丸めた。


「いやぁぁぁ……!」


 泣いた。


 また泣いた。


 泣いて。


 泣いて。


 泣いて。


 もう涙など残っていないと思っても、まだ流れた。


 体のどこにこんなに涙があるのか分からなかった。


 目が熱い。


 喉が裂ける。


 胸が痛い。


 息が苦しい。


 でも止まらない。


 夜が明けても。


 朝になっても。


 昼になっても。


 また夜になっても。


 ミリアは泣いた。


 ただ、泣いた。


 アメリアの名前を呼びながら。


 戻ってきてと繰り返しながら。


 もう一度会いたいと願いながら。


 何度も。


 何度も。


 何度も。



 扉の向こうから声がした。


 誰かが呼んでいる。


 誰かが心配している。


 誰かが食事を勧めている。


 誰かが休めと言っている。


 誰かが、少しだけでも返事をしてほしいと言っている。


 ミリアには届かなかった。


 聞こえてはいる。


 でも、届かない。


 その声は、アメリアの声ではなかった。


 だから意味がなかった。


 ひどいことを考えていると、どこかで分かっていた。


 皆が心配している。


 皆が苦しんでいる。


 皆がアメリアを失っている。


 分かるはずだった。


 いつものミリアなら。


 それを分かろうとしたはずだった。


 でも今は無理だった。


 今のミリアには、誰かの痛みを思う余裕などなかった。


 自分の胸に開いた穴が大きすぎて。


 そこから全部が落ちていく。


 言葉も。


 理性も。


 優しさも。


 責任も。


 王太子妃としての顔も。


 全部、落ちていく。


 残ったのは、子供じみた願いだけ。


 アメリアに会いたい。


 アメリアに戻ってきてほしい。


 アメリアがいてほしい。


 それだけ。


「アメリア」


 ミリアは呟く。


「ねえ」


 声は弱い。


「聞こえているなら」


 涙が頬を伝う。


「返事して」


 返事はない。


「怒らないから」


 自分でも何を言っているのか分からない。


「もう、どこにも行かないでって言わないから」


 嘘だった。


 本当は言いたい。


 どこにも行かないでほしい。


 ずっと側にいてほしい。


 自分を置いていかないでほしい。


 でも、そんなことを言ったら困らせるから。


 だから言わない。


 言わないから。


「戻ってきて」


 また同じ言葉。


「戻ってきてよ」


 それしか言えない。


「お願い」


 それしか願えない。


「お願い、アメリア」


 ミリアは布団に顔を埋めた。


「私、もう何もいらない」


 声がくぐもる。


「王太子妃じゃなくてもいい」


 本当は言ってはいけない言葉だった。


「何もできなくてもいい」


 言ってはいけない。


「褒めてもらえなくてもいい」


 それでも止まらない。


「叱られてもいい」


 涙が布を濡らす。


「呆れられてもいい」


 声が震える。


「もう、私のことなんて覚えてなくてもいい」


 胸が裂ける。


 そんなはずはない。


 本当は嫌だ。


 忘れられたくない。


 覚えていてほしい。


 ミリア様、と呼んでほしい。


 でも。


 生きていてくれるなら。


 それでもいいと思わなければ。


 心が持たなかった。


「生きていて」


 ミリアは泣いた。


「生きていてよ」


 祈る。


「お願いだから」


 叫びではない。


 もう叫ぶ力もない。


「生きていて」


 ただ、絞り出す。


「どこかで」


 息が震える。


「どこかで、生きていて」


 でも。


 その願いのすぐ後に。


 もう一つの声が、心の奥から這い上がってくる。


 もし。


 もし、もう。


 その先を考えた瞬間、ミリアは頭を抱えて叫んだ。


「いやぁぁぁぁ!!」


 考えたくない。


 考えたくない。


 考えたくない。


 死んだなんて。


 もう会えないなんて。


 あの声が二度と聞けないなんて。


 そんなもの。


 そんなものを考えたら。


 壊れる。


 完全に壊れる。


「言わないで」


 誰も何も言っていない。


「言わないで」


 それでも耳を塞ぐ。


「アメリアが死んだなんて言わないで!」


 部屋に叫びが響く。


「言わないで!」


 泣き叫ぶ。


「誰も言わないで!」


 涙が止まらない。


「そんなこと、言わないでよ!」


 誰もいない部屋で。


 誰もその言葉を口にしていないのに。


 ミリアは叫び続けた。


 認めたくなかった。


 その可能性が、この世界に存在することすら許せなかった。


 アメリアが死んだ。


 そんな言葉は存在してはいけない。


 そんな現実はあってはいけない。


 そんな未来は許されない。


 だから。


 叫ぶ。


 泣く。


 否定する。


 それしかできない。



 どれほど泣いたのか分からない。


 いつから泣いているのかも分からない。


 涙が止まったと思うと、また溢れる。


 声が枯れたと思うと、また名前を呼んでいる。


 眠ったと思うと、夢でアメリアを見て、目覚めてまた泣く。


 食べられない。


 眠れない。


 考えられない。


 立てない。


 扉へ歩くこともできない。


 外へ出ることもできない。


 誰かに会うこともできない。


 ただ、部屋の中で。


 アメリアのいない部屋の中で。


 ミリアは泣き続ける。


「アメリア」


 呼ぶ。


「アメリア」


 呼ぶ。


「アメリア」


 呼ぶ。


 その名前だけが、ミリアをこの世界に繋ぎ止めていた。


 けれど、その名前を呼ぶたびに。


 返事がない現実が胸を刺す。


 呼べば呼ぶほど苦しい。


 でも呼ばなければもっと苦しい。


 だから呼ぶ。


 何度でも呼ぶ。


「アメリア」


 お願い。


「アメリア」


 戻ってきて。


「アメリア」


 側にいて。


「アメリア」


 私を置いていかないで。


「アメリア」


 もう一度だけでいいから。


「アメリア」


 声を聞かせて。


「アメリア」


 顔を見せて。


「アメリア」


 手を伸ばして。


「アメリア」


 私を叱って。


「アメリア」


 私を呼んで。


「アメリア」


 生きていて。


「アメリア」


 返事をして。


「アメリア」


 お願い。


「アメリア」


 お願い。


「アメリア」


 お願い。


 最後はもう、名前なのか祈りなのか分からなかった。


 ミリアは床に崩れていた。


 寝台から落ちたのか。


 自分で降りたのか。


 覚えていない。


 冷たい床に頬を押し当て、子供のように丸まっていた。


 ドレスは乱れ。


 髪はほどけ。


 目は赤く腫れ。


 唇は乾き。


 指は布を握りすぎて白くなっていた。


 それでも、離さない。


 何かを握っていないと。


 何かに縋っていないと。


 自分がばらばらになってしまいそうだった。


「いや」


 小さく言う。


「いや」


 もう一度。


「いや」


 それは抗議ではなかった。


 抵抗でもなかった。


 ただの拒絶だった。


 現実への拒絶。


 喪失への拒絶。


 世界への拒絶。


 アメリアがいない世界など、受け入れたくない。


 そんな世界で朝が来ることも。


 そんな世界で人が笑うことも。


 そんな世界で自分が息をしていることも。


 全部、嫌だった。


「どうして」


 声が漏れる。


「どうして、私だけ置いていくの」


 答えはない。


「どうして」


 涙が落ちる。


「どうして、帰ってこないの」


 答えはない。


「どうして」


 胸が痛い。


「どうして、アメリアなの」


 答えはない。


「どうして」


 もう声にならない。


「どうしてよぉ……」


 ミリアは泣いた。


 また泣いた。


 何度目か分からない涙を流した。


 世界を責めることもできない。


 誰かを憎むこともできない。


 立ち上がることもできない。


 ただ、泣く。


 泣いて。


 泣いて。


 泣いて。


 涙と一緒に、自分の中の何かが全部流れていく。


 王太子妃としての誇り。


 学んできた知識。


 積み上げた覚悟。


 未来への意思。


 アメリアに認められたいと思っていた努力。


 全部。


 全部。


 今は、意味がなかった。


 アメリアがいない。


 その前では、何もかもが意味を失った。



 扉の外で、何かが告げられていた。


 新しい報告。


 急ぎの知らせ。


 王国に関わる何か。


 けれどミリアには聞こえなかった。


 聞こえていても、意味にならなかった。


 戦争。


 国境。


 諸国。


 報復。


 緊急会議。


 そんな言葉がどこか遠くで揺れている。


 けれど、ミリアの中には届かない。


 今のミリアの世界は、この部屋だけだった。


 この暗い部屋。


 この冷たい床。


 この濡れた布。


 この枯れた喉。


 この痛い胸。


 そして。


 アメリアがいないという事実。


 それだけだった。


 王国がどうなろうと。


 世界がどうなろうと。


 今のミリアには考えられない。


 考える余白がない。


 アメリア。


 アメリア。


 アメリア。


 その名前で、心が埋め尽くされている。


「戻ってきて」


 ミリアはまた呟いた。


 どれほど繰り返した言葉か分からない。


 それでも言う。


「戻ってきて」


 声はもうほとんど出ていない。


「戻ってきてよ」


 涙だけが落ちる。


「お願い」


 世界で一番弱い声だった。


「お願いだから」


 誰にも届かない声だった。


「私を」


 息が震える。


「一人にしないで」


 その言葉を言った瞬間。


 ミリアはまた泣き崩れた。


 自分がどれほど幼いことを言っているか分かっていた。


 分かっていたけれど、止められなかった。


 だって本当に。


 一人だった。


 どれほど人が周りにいても。


 どれほど声を掛けられても。


 どれほど心配されても。


 アメリアがいないだけで。


 ミリアは世界に一人きりだった。


 アメリアがいなければ。


 どこへ歩けばいいのか分からない。


 何を見ればいいのか分からない。


 何を信じればいいのか分からない。


 どうやって息をすればいいのかすら、分からない。


「アメリア」


 最後にもう一度呼ぶ。


 返事はない。


 やっぱり、返事はない。


 ミリアは泣きながら目を閉じた。


 眠りたいわけではなかった。


 眠ればまた夢を見る。


 夢で会って。


 目覚めて失う。


 それが怖い。


 でも起きていても、アメリアはいない。


 どちらでも同じだった。


 どちらでも地獄だった。


 だから、ただ泣いた。


 泣いて。


 泣いて。


 泣き続けた。


 王国の外で何が起きようと。


 王城の中で誰が動こうと。


 次の戦火が近付いていようと。


 今のミリアには、何も届かなかった。


 ただ。


 絶望だけがあった。


 アメリアがいない。


 アメリアが戻らない。


 アメリアの声が聞こえない。


 アメリアに会えない。


 その事実だけが。


 ミリアの世界を。


 暗く。


 冷たく。


 底のない場所へ。


 何度も。


 何度も。


 何度も。


 沈め続けていた。



 アメリアがいない。


 それだけで。


 ミリアは何もできなくなった。


 何者にもなれなくなった。


 王太子妃でもなく。


 未来の王妃でもなく。


 国を支える者でもなく。


 ただ。


 大切な人を失いかけた少女として。


 床の上で。


 子供のように。


 泣き続けた。


「アメリア」


 返事はない。


「アメリア」


 返事はない。


「アメリア」


 返事はない。


 それでも。


 ミリアは呼び続けた。


 呼ばなければ。


 本当に。


 アメリアがこの世界から消えてしまう気がしたから。


 だから。


 声が枯れても。


 涙が尽きても。


 胸が裂けても。


 ミリアは呼び続けた。


 ただ一人の名を。


 戻ってきてほしい人の名を。


 いてほしかった人の名を。


 もう一度だけ会いたい人の名を。


「アメリア」


 その声は、誰にも届かなかった。


 扉の外にも。


 廊下にも。


 王城にも。


 王都にも。


 川の向こうにも。


 濁流の先にも。


 届かなかった。


 それでも。


 ミリアは呼び続けた。


 絶望の底で。


 ただ。


 ただ。


 アメリアだけを求めて。


 泣き続けていた。

お読み頂き、ありがとうございます。

誰かを、大切な人を失う気持ちは、私にもわかります。

それが突然の出来事なら、なおさら、悲しみは、絶望は大きいものになります。

今回は、そんな喪失を受け入れられない人の心を書きました。


現実でも、災害や事故などで大切な人を失われた方々がおられます。

改めて、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。


そして残された人達が、どう立ち上がっていくのか。

見守っていただければ幸いです。

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