プロローグ アメリア
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
※この話は一万字近くあります。
感情を書くのに、費やした文字数です。
私にはこれを削ることができませんでした。
もし、苦手な方は途中で止めていただいて構いません。
冒頭だけでも次章への導入となっております。
ですが、最後までお読みいただき、何かを感じていただければ幸いです。
アメリアがいない。
その事実だけで、世界は終わった。
王国が勝ったことも。
戦争が終わったことも。
敵が降伏したことも。
民が救われたことも。
そんなものは、ミリアには何一つ意味を持たなかった。
勝利の鐘が鳴っていた。
王都のどこかで人々が泣き、笑い、抱き合い、神に感謝していた。
王国は守られた。
国は滅びなかった。
多くの命が救われた。
誰もがそう言っていた。
けれど。
その中に。
アメリアはいなかった。
ただ、それだけだった。
その一つだけで。
ミリアの世界は、全部壊れた。
◇
最初の報告を受けた時、ミリアは理解できなかった。
言葉は聞こえていた。
声も聞こえていた。
伝令の震える息遣いも、床に膝をつく音も、扉の向こうに控える侍女達の気配も、全部聞こえていた。
けれど、意味が分からなかった。
防波堤解放作戦成功。
敵軍壊滅。
戦争終結。
実行部隊帰還。
襲撃。
矢。
馬の暴走。
濁流。
転落。
行方不明。
単語だけが並ぶ。
並ぶのに、繋がらない。
繋がってはいけない。
そんなものが一つの意味になるはずがない。
だって。
アメリアだ。
あのアメリアだ。
いつも何もかもを見抜いて。
誰よりも早く問題に気付き。
誰よりも冷静に答えを出し。
誰よりも遠くまで考えていた。
あの、アメリアだ。
そのアメリアが。
濁流に。
落ちた。
行方不明。
「……違うわ」
ミリアの口から、声が漏れた。
小さな声だった。
自分の声とは思えなかった。
「違う」
伝令は何も言わない。
顔を上げない。
だからミリアはもう一度言った。
「違うと言っているの」
その声は震えていた。
怒りではなかった。
恐怖だった。
目の前に差し出された現実を、どうしても受け取れない者の声だった。
「アメリアは?」
伝令は答えない。
「アメリアはどこ?」
答えない。
「戻ってくるのでしょう?」
答えない。
「そうでしょう?」
答えない。
ミリアは一歩近付いた。
足元がふらついた。
それでも立った。
伝令を見下ろす。
いいえ。
見ていなかった。
伝令の向こう側を見ていた。
そこにいるはずの人を、見ようとしていた。
銀色の髪。
赤い瞳。
表情の薄い顔。
淡々とした声。
少し首を傾げる仕草。
何を言っているのか分かりません、という顔。
そして。
いつものように。
当たり前のように。
こう言うはずだった。
ミリア様。
報告内容に誤りがあります。
ミリアはそれを待っていた。
待っていた。
待っていた。
けれど、誰も言わない。
アメリアの声はしない。
「……嘘」
ミリアは呟いた。
「嘘よ」
今度は、はっきりと言った。
「そんな報告は、嘘です」
伝令の肩が震えた。
その震えが、報告が嘘ではないことを告げていた。
ミリアはそれを見た。
見てしまった。
だから。
息が止まった。
「嘘」
否定する。
「嘘」
もう一度。
「嘘、嘘、嘘」
声が少しずつ崩れていく。
「だって、アメリアよ」
喉が詰まる。
「アメリアなのよ」
胸が痛い。
「そんなこと」
息が上手く吸えない。
「そんなこと、あるはずがないでしょう」
伝令は泣きそうな顔で頭を下げていた。
その顔すら、ミリアには腹立たしかった。
そんな顔をしないで。
そんな顔をされたら。
本当に。
本当に、アメリアが戻ってこないみたいではないか。
「探しているのよね」
ミリアは言った。
「今も探しているのよね」
「はい」
ようやく伝令が答える。
「捜索は、続けられております」
その言葉だけを掴んだ。
ミリアはそれだけを掴んだ。
捜索している。
なら、まだ終わっていない。
見つかっていないだけ。
死んだわけではない。
いなくなったわけではない。
ただ、今は見つかっていないだけ。
そうだ。
そうに決まっている。
「なら、見つけなさい」
ミリアは命じた。
「見つけなさい」
声が震える。
「今すぐ」
伝令が頭を下げる。
「はっ」
「川下も」
「はっ」
「村も」
「はっ」
「橋も、林も、岩場も、全部」
「はっ」
「全部探して」
「はっ」
「夜でも探して」
「はっ」
「雨でも探して」
「はっ」
「水の中でも探して」
「はっ」
「アメリアを」
そこで声が割れた。
「アメリアを、見つけて」
伝令は深く頭を下げた。
「必ず」
その言葉を聞いた瞬間。
ミリアは叫んだ。
「必ずじゃない!」
伝令がびくりと震える。
侍女達も息を呑む。
ミリア自身も、自分の声に驚いた。
けれど止まらなかった。
「必ず見つけて!」
涙が溢れた。
「必ずって言葉だけでは駄目なの!」
胸が苦しい。
「見つけて!」
喉が焼ける。
「連れて帰って!」
叫ぶ。
「ここに!」
もう王太子妃の声ではなかった。
「私のところに!」
子供のように。
泣き叫ぶ。
「アメリアを連れて帰ってきなさい!!」
誰も答えられなかった。
答えられるはずがなかった。
ミリアはそれでも、睨むように伝令を見た。
違う。
睨んでなどいない。
縋っていた。
その男が、アメリアを連れて帰ってくれると。
そんなあり得ないことに、縋っていた。
「お願い」
声が急に小さくなる。
「お願いだから」
膝が震える。
「連れてきて」
もう命令ではなかった。
「アメリアを」
願いだった。
「連れてきて」
祈りだった。
「お願い」
伝令は震えながら頭を下げるだけだった。
ミリアは、それ以上立っていられなかった。
足から力が抜ける。
床に崩れ落ちた。
痛みはない。
ただ、胸が痛い。
胸が。
胸の奥が。
引き裂かれているように痛い。
「アメリア」
名前が漏れた。
「アメリア」
もう一度。
「アメリア」
三度目。
返事はない。
返事がない。
いない。
アメリアがいない。
それだけで。
涙が止まらなくなった。
◇
それから何日経ったのか。
ミリアには分からなかった。
一日だったのか。
二日だったのか。
三日だったのか。
もっと長かったのか。
分からない。
朝が来たことも。
夜が来たことも。
食事が運ばれてきたことも。
誰かが部屋の外で声を掛けたことも。
全部、遠かった。
世界が遠かった。
ただ。
アメリアだけが、遠いのではなく。
いなかった。
それが何よりも怖かった。
最初は、まだ待てた。
すぐに見つかると思った。
誰かが扉を開けて。
見つかりました。
生きています。
怪我はありますが、命に別状はありません。
そう言うと思った。
信じていた。
信じる以外なかった。
けれど。
報告は来る。
見つかりません。
発見できておりません。
手掛かりはありません。
馬具の一部を確認。
衣服の一部か判別中。
川下まで捜索範囲を拡大。
発見なし。
発見なし。
発見なし。
発見なし。
発見なし。
そのたびに、ミリアの中から何かが削れていった。
最初に削れたのは、怒りだった。
次に削れたのは、命令する力だった。
その次に削れたのは、祈る力だった。
最後に残ったのは。
ただ。
嫌だ。
それだけだった。
「嫌」
ミリアは呟いた。
自室の中。
誰もいない部屋。
閉ざされた扉。
引かれた帳。
薄暗い寝台の上。
ミリアは膝を抱えていた。
「嫌」
もう一度。
「嫌」
三度目。
声は掠れていた。
泣きすぎて喉が痛い。
目も痛い。
頭も痛い。
体も重い。
胸はずっと痛い。
でも、涙だけは止まらない。
「アメリア」
呼ぶ。
返事はない。
「アメリア」
もう一度。
「アメリア」
何度呼んでも、返事はない。
そのたびに、新しく傷付く。
分かっているのに、呼んでしまう。
呼ばなければ、本当に消えてしまう気がした。
名前を呼び続けていれば。
どこかで聞こえるかもしれない。
どこかで気付くかもしれない。
どこかで、あの子が振り返るかもしれない。
そんなはずがない。
そんなことは分かっている。
でも、やめられない。
「戻ってきて」
ミリアは寝台の布を握り締めた。
「戻ってきてよ」
涙が落ちる。
「お願いだから」
声が震える。
「お願いだから、戻ってきて」
返事はない。
「怒らないから」
子供のような言葉だった。
「もう、仕事しすぎって言わないから」
涙が止まらない。
「休んでって言わないから」
息が乱れる。
「書類を増やしてもいいから」
喉が詰まる。
「私に厳しくしてもいいから」
布を握る手に力が入る。
「また、呆れた顔をしてもいいから」
声が壊れる。
「だから」
息を吸う。
苦しい。
「だから、戻ってきて」
泣き声になる。
「戻ってきてよ、アメリア」
それだけだった。
ミリアの中には、それしかなかった。
国もない。
王都もない。
民もない。
政務もない。
王太子妃としての責務もない。
未来もない。
ただ、アメリアに戻ってきてほしかった。
アメリアがいてほしかった。
アメリアの声が聞きたかった。
アメリアの顔が見たかった。
アメリアに名前を呼ばれたかった。
ただ、それだけだった。
◇
食事は冷めていた。
侍女が何度も運んできた。
何度も下げた。
皿の中身はほとんど減らなかった。
ミリアは食べなかった。
食べられなかった。
何かを口に入れると、吐きそうになった。
水だけは少し飲んだ。
でも、その水の冷たさで川を思い出した。
濁流。
流れ。
沈む体。
息ができない。
冷たい水。
岩。
泥。
深い場所。
暗い場所。
アメリアが、そこにいるかもしれない。
そう思った瞬間、コップを落とした。
水が床に広がる。
侍女が慌てて駆け寄ろうとした。
ミリアは叫んだ。
「来ないで!」
侍女が止まる。
ミリアは震えていた。
自分でも分かっていた。
ひどい声だった。
理不尽だった。
侍女は何も悪くない。
誰も悪くない。
いや。
悪い者はいる。
アメリアを奪った者がいる。
でも今は、そんなことすら考えられない。
誰が悪いとか。
誰を罰するとか。
そんなところまで、心が届かない。
ただ、アメリアがいない。
それだけで、全部がいっぱいだった。
「出ていって」
ミリアは言った。
「でも」
「出ていってと言っているの!」
侍女は泣きそうな顔で頭を下げた。
扉が閉まる。
ミリアは一人になった。
一人。
その言葉が怖かった。
一人。
アメリアがいない。
一人。
誰もいない。
一人。
ミリアは震えながら寝台へ戻った。
膝を抱える。
体を丸める。
子供のように。
小さく。
小さく。
小さくなろうとした。
世界から見つからないように。
悲しみに押し潰されないように。
けれど、どれだけ小さくなっても。
アメリアがいないという事実だけは、逃がしてくれなかった。
「アメリア」
呼ぶ。
「アメリア」
また呼ぶ。
「アメリア」
何度も。
何度も。
何度も。
声が枯れても。
喉が痛くても。
呼び続けた。
呼べば、返事があるような気がした。
呼ばなければ、もう二度と返ってこないような気がした。
「返事して」
ミリアは泣いた。
「返事してよ」
布団を握り締める。
「いつもみたいに」
声が震える。
「はい、って」
涙が溢れる。
「ミリア様、って」
息が詰まる。
「言ってよ」
返事はない。
「言ってよ!」
叫ぶ。
「言ってよ、アメリア!」
部屋の中に声が響く。
返ってくるのは、自分の泣き声だけ。
ミリアは両手で耳を塞いだ。
聞きたくなかった。
自分の声しかない部屋が、怖かった。
アメリアの声がない部屋が、怖かった。
あの子の気配がない世界が、怖かった。
「嫌」
ミリアは泣き叫んだ。
「嫌、嫌、嫌、嫌!」
子供のように首を振る。
「嫌よ!」
涙が飛ぶ。
「嫌なの!」
声が裏返る。
「アメリアがいないなんて嫌!」
胸が痛い。
「アメリアが帰ってこないなんて嫌!」
息が乱れる。
「アメリアに会えないなんて嫌!」
寝台の上で、ミリアは泣き崩れた。
「嫌ぁ……!」
それはもう、言葉ではなかった。
ただの泣き声だった。
何も考えられない。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ、苦しい。
ただ、痛い。
ただ、寂しい。
ただ、怖い。
アメリアがいない。
アメリアがいない。
アメリアがいない。
頭の中で、その言葉だけが繰り返される。
何度も。
何度も。
何度も。
まるで呪いのように。
◇
ミリアは夢を見た。
アメリアがいた。
いつものように、淡々と書類を持って立っていた。
表情は変わらない。
少し首を傾げている。
ミリア様。
呼ばれた。
その瞬間、ミリアは泣きながら駆け寄った。
アメリア。
アメリア。
よかった。
生きていた。
戻ってきた。
ミリアは手を伸ばす。
抱き締めようとする。
けれど。
触れる直前。
アメリアの姿が、水に溶けた。
銀の髪が流れにほどける。
赤い瞳が遠ざかる。
手を伸ばしても届かない。
叫んでも声が出ない。
アメリアは何も言わない。
ただ、静かに遠ざかる。
濁流の中へ。
暗い水の奥へ。
ミリアは叫んだ。
叫んだはずだった。
けれど喉から出るのは、掠れた息だけだった。
そして目が覚めた。
部屋は暗かった。
アメリアはいなかった。
ミリアはしばらく、何も分からなかった。
夢なのか。
現実なのか。
どちらが夢なのか。
アメリアがいた方が夢なのか。
アメリアがいない方が現実なのか。
分かりたくなかった。
分かってしまったら、また壊れる。
けれど。
部屋には誰もいなかった。
声もなかった。
アメリアはいなかった。
「……っ」
喉が鳴る。
「いや」
小さな声。
「いや」
少し大きくなる。
「いや」
震える。
「いやぁ……」
ミリアは寝台の上で体を丸めた。
「いやぁぁぁ……!」
泣いた。
また泣いた。
泣いて。
泣いて。
泣いて。
もう涙など残っていないと思っても、まだ流れた。
体のどこにこんなに涙があるのか分からなかった。
目が熱い。
喉が裂ける。
胸が痛い。
息が苦しい。
でも止まらない。
夜が明けても。
朝になっても。
昼になっても。
また夜になっても。
ミリアは泣いた。
ただ、泣いた。
アメリアの名前を呼びながら。
戻ってきてと繰り返しながら。
もう一度会いたいと願いながら。
何度も。
何度も。
何度も。
◇
扉の向こうから声がした。
誰かが呼んでいる。
誰かが心配している。
誰かが食事を勧めている。
誰かが休めと言っている。
誰かが、少しだけでも返事をしてほしいと言っている。
ミリアには届かなかった。
聞こえてはいる。
でも、届かない。
その声は、アメリアの声ではなかった。
だから意味がなかった。
ひどいことを考えていると、どこかで分かっていた。
皆が心配している。
皆が苦しんでいる。
皆がアメリアを失っている。
分かるはずだった。
いつものミリアなら。
それを分かろうとしたはずだった。
でも今は無理だった。
今のミリアには、誰かの痛みを思う余裕などなかった。
自分の胸に開いた穴が大きすぎて。
そこから全部が落ちていく。
言葉も。
理性も。
優しさも。
責任も。
王太子妃としての顔も。
全部、落ちていく。
残ったのは、子供じみた願いだけ。
アメリアに会いたい。
アメリアに戻ってきてほしい。
アメリアがいてほしい。
それだけ。
「アメリア」
ミリアは呟く。
「ねえ」
声は弱い。
「聞こえているなら」
涙が頬を伝う。
「返事して」
返事はない。
「怒らないから」
自分でも何を言っているのか分からない。
「もう、どこにも行かないでって言わないから」
嘘だった。
本当は言いたい。
どこにも行かないでほしい。
ずっと側にいてほしい。
自分を置いていかないでほしい。
でも、そんなことを言ったら困らせるから。
だから言わない。
言わないから。
「戻ってきて」
また同じ言葉。
「戻ってきてよ」
それしか言えない。
「お願い」
それしか願えない。
「お願い、アメリア」
ミリアは布団に顔を埋めた。
「私、もう何もいらない」
声がくぐもる。
「王太子妃じゃなくてもいい」
本当は言ってはいけない言葉だった。
「何もできなくてもいい」
言ってはいけない。
「褒めてもらえなくてもいい」
それでも止まらない。
「叱られてもいい」
涙が布を濡らす。
「呆れられてもいい」
声が震える。
「もう、私のことなんて覚えてなくてもいい」
胸が裂ける。
そんなはずはない。
本当は嫌だ。
忘れられたくない。
覚えていてほしい。
ミリア様、と呼んでほしい。
でも。
生きていてくれるなら。
それでもいいと思わなければ。
心が持たなかった。
「生きていて」
ミリアは泣いた。
「生きていてよ」
祈る。
「お願いだから」
叫びではない。
もう叫ぶ力もない。
「生きていて」
ただ、絞り出す。
「どこかで」
息が震える。
「どこかで、生きていて」
でも。
その願いのすぐ後に。
もう一つの声が、心の奥から這い上がってくる。
もし。
もし、もう。
その先を考えた瞬間、ミリアは頭を抱えて叫んだ。
「いやぁぁぁぁ!!」
考えたくない。
考えたくない。
考えたくない。
死んだなんて。
もう会えないなんて。
あの声が二度と聞けないなんて。
そんなもの。
そんなものを考えたら。
壊れる。
完全に壊れる。
「言わないで」
誰も何も言っていない。
「言わないで」
それでも耳を塞ぐ。
「アメリアが死んだなんて言わないで!」
部屋に叫びが響く。
「言わないで!」
泣き叫ぶ。
「誰も言わないで!」
涙が止まらない。
「そんなこと、言わないでよ!」
誰もいない部屋で。
誰もその言葉を口にしていないのに。
ミリアは叫び続けた。
認めたくなかった。
その可能性が、この世界に存在することすら許せなかった。
アメリアが死んだ。
そんな言葉は存在してはいけない。
そんな現実はあってはいけない。
そんな未来は許されない。
だから。
叫ぶ。
泣く。
否定する。
それしかできない。
◇
どれほど泣いたのか分からない。
いつから泣いているのかも分からない。
涙が止まったと思うと、また溢れる。
声が枯れたと思うと、また名前を呼んでいる。
眠ったと思うと、夢でアメリアを見て、目覚めてまた泣く。
食べられない。
眠れない。
考えられない。
立てない。
扉へ歩くこともできない。
外へ出ることもできない。
誰かに会うこともできない。
ただ、部屋の中で。
アメリアのいない部屋の中で。
ミリアは泣き続ける。
「アメリア」
呼ぶ。
「アメリア」
呼ぶ。
「アメリア」
呼ぶ。
その名前だけが、ミリアをこの世界に繋ぎ止めていた。
けれど、その名前を呼ぶたびに。
返事がない現実が胸を刺す。
呼べば呼ぶほど苦しい。
でも呼ばなければもっと苦しい。
だから呼ぶ。
何度でも呼ぶ。
「アメリア」
お願い。
「アメリア」
戻ってきて。
「アメリア」
側にいて。
「アメリア」
私を置いていかないで。
「アメリア」
もう一度だけでいいから。
「アメリア」
声を聞かせて。
「アメリア」
顔を見せて。
「アメリア」
手を伸ばして。
「アメリア」
私を叱って。
「アメリア」
私を呼んで。
「アメリア」
生きていて。
「アメリア」
返事をして。
「アメリア」
お願い。
「アメリア」
お願い。
「アメリア」
お願い。
最後はもう、名前なのか祈りなのか分からなかった。
ミリアは床に崩れていた。
寝台から落ちたのか。
自分で降りたのか。
覚えていない。
冷たい床に頬を押し当て、子供のように丸まっていた。
ドレスは乱れ。
髪はほどけ。
目は赤く腫れ。
唇は乾き。
指は布を握りすぎて白くなっていた。
それでも、離さない。
何かを握っていないと。
何かに縋っていないと。
自分がばらばらになってしまいそうだった。
「いや」
小さく言う。
「いや」
もう一度。
「いや」
それは抗議ではなかった。
抵抗でもなかった。
ただの拒絶だった。
現実への拒絶。
喪失への拒絶。
世界への拒絶。
アメリアがいない世界など、受け入れたくない。
そんな世界で朝が来ることも。
そんな世界で人が笑うことも。
そんな世界で自分が息をしていることも。
全部、嫌だった。
「どうして」
声が漏れる。
「どうして、私だけ置いていくの」
答えはない。
「どうして」
涙が落ちる。
「どうして、帰ってこないの」
答えはない。
「どうして」
胸が痛い。
「どうして、アメリアなの」
答えはない。
「どうして」
もう声にならない。
「どうしてよぉ……」
ミリアは泣いた。
また泣いた。
何度目か分からない涙を流した。
世界を責めることもできない。
誰かを憎むこともできない。
立ち上がることもできない。
ただ、泣く。
泣いて。
泣いて。
泣いて。
涙と一緒に、自分の中の何かが全部流れていく。
王太子妃としての誇り。
学んできた知識。
積み上げた覚悟。
未来への意思。
アメリアに認められたいと思っていた努力。
全部。
全部。
今は、意味がなかった。
アメリアがいない。
その前では、何もかもが意味を失った。
◇
扉の外で、何かが告げられていた。
新しい報告。
急ぎの知らせ。
王国に関わる何か。
けれどミリアには聞こえなかった。
聞こえていても、意味にならなかった。
戦争。
国境。
諸国。
報復。
緊急会議。
そんな言葉がどこか遠くで揺れている。
けれど、ミリアの中には届かない。
今のミリアの世界は、この部屋だけだった。
この暗い部屋。
この冷たい床。
この濡れた布。
この枯れた喉。
この痛い胸。
そして。
アメリアがいないという事実。
それだけだった。
王国がどうなろうと。
世界がどうなろうと。
今のミリアには考えられない。
考える余白がない。
アメリア。
アメリア。
アメリア。
その名前で、心が埋め尽くされている。
「戻ってきて」
ミリアはまた呟いた。
どれほど繰り返した言葉か分からない。
それでも言う。
「戻ってきて」
声はもうほとんど出ていない。
「戻ってきてよ」
涙だけが落ちる。
「お願い」
世界で一番弱い声だった。
「お願いだから」
誰にも届かない声だった。
「私を」
息が震える。
「一人にしないで」
その言葉を言った瞬間。
ミリアはまた泣き崩れた。
自分がどれほど幼いことを言っているか分かっていた。
分かっていたけれど、止められなかった。
だって本当に。
一人だった。
どれほど人が周りにいても。
どれほど声を掛けられても。
どれほど心配されても。
アメリアがいないだけで。
ミリアは世界に一人きりだった。
アメリアがいなければ。
どこへ歩けばいいのか分からない。
何を見ればいいのか分からない。
何を信じればいいのか分からない。
どうやって息をすればいいのかすら、分からない。
「アメリア」
最後にもう一度呼ぶ。
返事はない。
やっぱり、返事はない。
ミリアは泣きながら目を閉じた。
眠りたいわけではなかった。
眠ればまた夢を見る。
夢で会って。
目覚めて失う。
それが怖い。
でも起きていても、アメリアはいない。
どちらでも同じだった。
どちらでも地獄だった。
だから、ただ泣いた。
泣いて。
泣いて。
泣き続けた。
王国の外で何が起きようと。
王城の中で誰が動こうと。
次の戦火が近付いていようと。
今のミリアには、何も届かなかった。
ただ。
絶望だけがあった。
アメリアがいない。
アメリアが戻らない。
アメリアの声が聞こえない。
アメリアに会えない。
その事実だけが。
ミリアの世界を。
暗く。
冷たく。
底のない場所へ。
何度も。
何度も。
何度も。
沈め続けていた。
◇
アメリアがいない。
それだけで。
ミリアは何もできなくなった。
何者にもなれなくなった。
王太子妃でもなく。
未来の王妃でもなく。
国を支える者でもなく。
ただ。
大切な人を失いかけた少女として。
床の上で。
子供のように。
泣き続けた。
「アメリア」
返事はない。
「アメリア」
返事はない。
「アメリア」
返事はない。
それでも。
ミリアは呼び続けた。
呼ばなければ。
本当に。
アメリアがこの世界から消えてしまう気がしたから。
だから。
声が枯れても。
涙が尽きても。
胸が裂けても。
ミリアは呼び続けた。
ただ一人の名を。
戻ってきてほしい人の名を。
いてほしかった人の名を。
もう一度だけ会いたい人の名を。
「アメリア」
その声は、誰にも届かなかった。
扉の外にも。
廊下にも。
王城にも。
王都にも。
川の向こうにも。
濁流の先にも。
届かなかった。
それでも。
ミリアは呼び続けた。
絶望の底で。
ただ。
ただ。
アメリアだけを求めて。
泣き続けていた。
お読み頂き、ありがとうございます。
誰かを、大切な人を失う気持ちは、私にもわかります。
それが突然の出来事なら、なおさら、悲しみは、絶望は大きいものになります。
今回は、そんな喪失を受け入れられない人の心を書きました。
現実でも、災害や事故などで大切な人を失われた方々がおられます。
改めて、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
そして残された人達が、どう立ち上がっていくのか。
見守っていただければ幸いです。




