第二話 何故だ!
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
司令部には重苦しい空気が流れていた。
豪雨は未だ止まない。
天幕を叩く雨音だけが響いている。
誰も口を開かなかった。
潜入部隊。
工作部隊。
伝令遮断部隊。
三部隊が同時に消えた。
理由は分からない。
説明もできない。
ただ結果だけが目の前にある。
「もう一度確認する」
司令官が静かに言う。
「奇襲は失敗した」
誰も反論しなかった。
「潜入も失敗した」
沈黙。
「工作も失敗した」
沈黙。
「伝令遮断も失敗した」
さらに沈黙。
副官が顔を伏せる。
最悪だった。
失敗は構わない。
戦争とはそういうものだ。
問題は理由が分からないことだった。
「閣下」
副官が恐る恐る口を開く。
「撤退も選択肢かと」
司令部の空気が凍った。
誰もが思っていた。
だが。
誰も言わなかった言葉。
司令官は黙る。
そして。
ゆっくりと首を横へ振った。
「できん」
「しかし」
「できんのだ」
低い声だった。
「我らは何の成果もなく兵を失った」
机へ手を置く。
「このまま戻ればどうなる」
副官は答えられなかった。
答えを知っていたからだ。
責任問題。
更迭。
処罰。
最悪の場合は処刑。
今回の侵攻は独断ではない。
多くの貴族。
多くの資金。
多くの利権。
それらを背負っている。
失敗しました。
理由は分かりません。
では済まない。
「だが」
副官も反論する。
「何かがおかしいのです」
「ああ」
「何かがある」
「ああ」
「ならば」
「それでもだ」
司令官は言い切った。
「戻れん」
沈黙。
誰も何も言えない。
理屈ではない。
保身だった。
だが同時に。
軍人としての意地もあった。
兵力はこちらが上。
補給もある。
街道も使える。
橋も落ちていない。
奇襲は失敗した。
だが戦争そのものに負けたわけではない。
「兵力差は」
「約三倍です」
「補給は」
「問題ありません」
「進軍速度は」
「予定通り」
司令官は目を閉じた。
考える。
考える。
考える。
そして。
結論は変わらなかった。
「正面から叩く」
副官が顔を上げる。
「閣下」
「理由は分からん」
「……」
「だが兵はある」
司令官の声は徐々に力を取り戻していた。
「城壁は一つ」
「門も一つ」
「どれほど小細工をしても」
「軍勢そのものは止められん」
そうだ。
そうでなければおかしい。
どれだけ奇策を弄そうと。
どれだけ準備をしようと。
三倍の兵力差を覆せるはずがない。
副官も頷き始める。
他の将校達も同じだった。
納得したわけではない。
だが。
納得したかった。
「全軍へ通達」
司令官が立ち上がる。
「予定を変更する」
誰もが息を呑む。
そして。
敵軍司令官は宣言した。
「総攻撃だ」
豪雨が天幕を叩く。
◇
豪雨は続いている。
空は暗く。
昼になっても太陽は見えない。
雨粒は絶え間なく甲冑を叩く。
地面は濡れている。
だが。
進軍は止まらなかった。
「街道異常なし!」
「橋梁異常なし!」
「補給隊通過確認!」
伝令が次々と報告する。
敵軍司令官は馬上から街道を見回した。
見事なものだった。
これだけの豪雨。
普通なら軍勢は足止めされる。
補給は滞り。
荷車は沈み。
馬は疲弊する。
だが公爵領では違った。
道路は機能している。
橋は落ちていない。
水は流れ。
軍は進む。
まるで異常なほどだった。
「皮肉なものですな」
副官が苦笑した。
「何がだ」
「敵が整備した道路で敵を攻めるのです」
周囲から小さな笑いが漏れる。
司令官も口元を緩めた。
「確かにな」
昨日の不快感を振り払うように言った。
「結局は同じことだ」
「同じ?」
「奇襲は失敗した」
司令官は前方を見る。
「だが戦争に負けたわけではない」
兵力はこちらが上だ。
補給もある。
士気も維持している。
多少の損害は出た。
だがそれだけだ。
そう。
それだけのはずだった。
「前方に城壁を確認!」
伝令が叫ぶ。
全員が顔を上げた。
豪雨の向こう。
霞む景色の中に。
巨大な城壁が姿を現す。
公爵領。
その中心都市。
司令官の口元が歪む。
「見えたな」
「はい」
副官も安堵したように言った。
「ようやくです」
理由は分からない。
何が起きたのかも分からない。
だが。
敵はそこにいる。
ならば戦えばいい。
軍人とはそういうものだ。
軍勢は前進を続ける。
整然と。
圧倒的な数で。
道を埋め尽くしながら。
後方から補給隊が続く。
さらに後方には予備隊。
兵力差は覆らない。
「見張りは?」
「確認できません」
「伏兵は」
「確認できません」
副官が報告する。
司令官は当然だと思った。
籠城戦になる。
ならば城壁に立て籠もるしかない。
正面から押し潰せば終わる。
その程度の話だった。
「閣下」
副官が城壁を見ながら言う。
「妙ですな」
「何がだ」
「静か過ぎます」
司令官も気付いていた。
敵影が少ない。
弓兵も少ない。
警戒の気配も弱い。
だが。
それはむしろ好都合だった。
「怯えているのだろう」
「奇襲は防いだ」
「だが兵力差までは埋められん」
副官も納得したように頷く。
そうでなければ説明が付かない。
軍勢はさらに近付く。
門が見える。
城壁が見える。
兵達の顔にも余裕が戻り始めていた。
「行ける」
「勝てる」
「正面から押し切れば終わりだ」
そんな声が聞こえる。
司令官もそう思った。
理由の分からない敗北は気味が悪い。
だが。
最終的に物を言うのは兵力だ。
数だ。
戦力だ。
やがて軍は攻撃位置へ到達した。
城門まであと僅か。
弓も届く。
攻城兵器も投入できる。
十分だった。
司令官は馬を進める。
前方。
巨大な城門。
その向こうに公爵領がある。
「全軍」
兵達が武器を構える。
「攻撃準備」
号令が響く。
雨は止まない。
豪雨は兵達の視界を奪い続ける。
だが誰も気にしていなかった。
ここまで来た。
もう勝利は目前だ。
司令官はゆっくりと剣を抜いた。
雨粒が刀身を流れ落ちる。
「全軍!」
兵士達が雄叫びを上げる。
「突撃ーー!!」
怒号。
歓声。
轟く足音。
数千の兵士が一斉に前へ駆け出した。
門へ向かって。
勝利へ向かって。
真っ直ぐに。
豪雨を蹴散らしながら。
地面が揺れる。
兵士達が密集する。
前進。
前進。
さらに前進。
城門まであと僅か。
誰もが勝利を確信していた。
その瞬間だった。
轟音。
一瞬。
雷かと思った。
だが違う。
音は足元から響いていた。
バキッ。
何かが割れる。
砕ける。
崩れる。
「な……」
先頭集団の足元が沈んだ。
一歩。
二歩。
三歩。
そして。
地面が消えた。
「うわああああああ!!」
悲鳴。
絶叫。
混乱。
数百の兵士が一斉に消える。
落ちる。
落ちる。
落ちる。
巨大な落とし穴だった。
兵士達が穴の底へ叩き付けられる。
骨が折れる音。
肉が潰れる音。
悲鳴。
絶叫。
阿鼻叫喚。
「止まれ!!」
司令官が叫ぶ。
「後退しろ!!」
だが遅い。
豪雨で視界は悪い。
後続は状況を理解できない。
ただ前進している。
「前が止まったぞ!」
「押せ!」
「進め!」
結果。
兵士達が次々と穴へ落ちた。
前の兵を踏み。
後ろの兵に押され。
転倒し。
落下する。
「馬鹿な!」
副官が顔色を失った。
「何だこれは!?」
司令官も理解できない。
門前だ。
真正面だ。
これほど巨大な罠をなぜ見落とした。
だが。
答えはない。
崩落は止まらない。
地面は次々と沈み。
兵士達は落ち続ける。
穴の底では。
既に人が人の上へ積み重なっていた。
折り重なる死体。
押し潰される兵士。
逃げ場はない。
「助けてくれ!」
「引き上げろ!」
「嫌だ!」
「死にたくない!」
悲鳴が響く。
しかし。
誰も助けられない。
副官が震える声で言う。
「閣下……」
司令官は答えなかった。
ただ。
目の前の光景を見ていた。
理解できない。
本当に分からなかった。
奇襲は失敗した。
それも分からない。
今度は落とし穴。
それも分からない。
まるで。
見えない何かに導かれるように。
こちらの行動全てが。
最悪の結末へ向かっている。
「何が起きている……」
思わず漏れたその言葉に。
答える者はいなかった。
豪雨は降り続いている。
穴の底では兵士達がもがいている。
「縄を下ろせ!」
「早くしろ!」
後方の兵達も必死だった。
救助を始める。
このまま放置するわけにはいかない。
雨は降り続く。
兵士達の顔を濡らす。
甲冑を濡らす。
地面を濡らす。
その中に。
雨ではない何かも混ざっていた。
だが。
誰も気付かない。
気にしない。
そんな余裕はなかった。
「閣下!」
副官が叫ぶ。
「まずは救助を!」
「ああ!」
司令官も怒鳴る。
「生存者を引き上げろ!」
被害は大きい。
だが終わりではない。
まだ立て直せる。
そう思っていた。
その時だった。
城壁の上に明かりが灯る。
一つ。
二つ。
三つ。
そして。
次々と。
豪雨の向こうに炎が浮かび上がった。
「敵だ!」
兵士の叫び声が響く。
全員が城壁を見上げた。
豪雨の向こう。
無数の人影が並んでいる。
城壁の上。
敵兵だ。
それも大量。
「閣下!」
副官が叫ぶ。
司令官も即座に反応した。
「救助隊を分けろ!」
「はっ!」
「負傷兵の回収を急げ!」
「防衛部隊は前へ!」
「城壁上を警戒しろ!」
命令が飛ぶ。
混乱の中でも兵士達は動いた。
落とし穴の周囲では救助。
前列では盾兵が展開。
弓兵も前へ出る。
だが。
豪雨だった。
視界が悪い。
城壁の上で何をしているのかよく見えない。
「何をしている?」
司令官が目を細める。
人影が動く。
何かを運んでいる。
何かを並べている。
だが距離がある。
豪雨で見えない。
「攻撃か?」
副官も城壁を睨む。
「分かりません」
そして。
その時だった。
城壁の上。
小さな光が生まれる。
一つ。
二つ。
三つ。
無数の明かり。
司令官は眉をひそめた。
「なんだ……?」
次の瞬間。
城壁の上から。
無数の光が。
豪雨を裂いて飛来した。
豪雨を裂いて降り注いだ。
松明。
着火。
次の瞬間。
轟音。
爆発したかのようだった。
火柱が立ち上がる。
穴の底全体が燃え上がった。
「なっ――!?」
敵軍司令官が絶句する。
「馬鹿な!!」
副官も叫ぶ。
「この雨で!?」
だが。
燃えていた。
激しく。
異常なほど激しく。
炎は一瞬で広がる。
「ぎゃああああああ!!」
悲鳴。
「熱い!」
絶叫。
「助けてくれ!」
地獄だった。
立ち上がろうとしても出来ない。
前にも後ろにも進めない。
折り重なった兵士達が邪魔をする。
逃げ場がない。
燃える。
燃える。
燃える。
豪雨の中で。
それでも炎は消えない。
「何故だ!」
副官が叫ぶ。
「何故燃える!!」
誰も答えられない。
雨は降っている。
確かに降っている。
だが。
炎は消えない。
むしろ勢いを増している。
兵士達の身体を伝い。
甲冑を伝い。
穴の底全体へ広がっていく。
助けようと近付いた兵士にも火が移る。
「うわああああ!」
転ぶ。
燃える。
また燃える。
――地獄だった。
司令官は呆然と見つめる。
分からない。
何も分からない。
奇襲は失敗した。
理由が分からない。
罠に落ちた。
理由が分からない。
火が燃えている。
理由が分からない。
何一つ理解できない。
まるで。
戦争をしているのではなく。
裁かれているようだった。
その時。
後方から声が響く。
「逃げろ!!」
一人だった。
「逃げろ!!」
二人になる。
「死ぬぞ!!」
三人。
四人。
十人。
百人。
恐怖は伝染する。
兵士達は理解した。
勝てない。
理由は分からない。
だが勝てない。
それだけは分かった。
豪雨の中。
炎は燃え続ける。
悲鳴は止まらない。
そして。
敵軍の戦意は。
炎と共に焼き尽くされていった。
お読み頂き、ありがとうございます。




