第一話 可能性がありますね
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
教育機関の設立から数か月。
公爵領は穏やかな繁栄の中にあった。
朝。
窓から差し込む陽光を浴びながら、アメリアは執務机に向かっていた。
目の前に積み上げられているのは帳簿。
監査局から送られてきた月次報告書と、公爵領の各部署から集められた資料だった。
「ふむ……」
羽根ペンを動かす。
数字を追う。
一枚。
また一枚。
さらに一枚。
誰が見ても普通の帳簿だった。
だが。
「……上がっていますね」
隣にいた執事のハロルドが首を傾げた。
「何がでしょうか」
「食料価格です」
資料を差し出す。
麦。
豆。
乾燥肉。
保存食。
どれも僅かだが値上がりしていた。
ハロルドは苦笑する。
「不作ですか?」
「そうとも言えます」
アメリアは首を横に振った。
「ですが、それだけでは説明がつきません」
別の資料を開く。
輸送記録。
「輸送費も上昇しています」
「それは燃料や人件費では?」
「ええ」
「ですが」
さらに一枚。
今度は鉱山報告。
「鉄価格も上昇しています」
ハロルドの表情が少し変わる。
「偶然では?」
「かもしれません」
アメリアは否定しなかった。
数字だけならそう言える。
まだ異常ではない。
だが。
もう一枚。
薬草取引記録。
「薬草需要も増えています」
また一枚。
物流報告。
「荷車の待機時間も増加しています」
静寂。
さすがにハロルドも黙った。
それぞれ単独なら異常ではない。
食料価格は毎年動く。
鉄も動く。
薬草も売れる。
荷車が足りなくなる時期もある。
しかし。
全部が同時。
しかも同じ方向。
アメリアは椅子にもたれた。
視線を天井へ向ける。
「何でしょうね」
呟く。
だが答えは返ってこない。
だから調べる。
監査とはそういうものだった。
違和感を捨てない。
答えが出るまで追う。
「過去資料を」
「どの程度までですか?」
「全部です」
ハロルドの顔が固まる。
アメリアは微笑んだ。
「監査ですから」
その日の午後。
執務室は資料の山になった。
過去数十年分。
税収資料。
市場統計。
物流記録。
人口推移。
鉱山生産量。
災害報告。
ありとあらゆる記録。
普通の人間なら読むだけで嫌になる量だった。
しかしアメリアは平然としていた。
一枚ずつ照合する。
分類する。
共通点を探す。
まず飢饉。
食料価格は上がっている。
だが鉄が違う。
物流も違う。
除外。
次。
疫病。
薬草需要は一致する。
しかし食料消費傾向が合わない。
除外。
次。
大規模洪水。
輸送費は上昇する。
だが鉱山記録が合わない。
除外。
魔物災害。
薬草。
鉄。
兵糧。
一部一致。
しかし荷車稼働率が違う。
除外。
一つずつ潰す。
仮説。
照合。
除外。
仮説。
照合。
除外。
陽が沈んだ。
いつの間にか部屋にはランプの灯りだけが揺れていた。
それでもアメリアは手を止めない。
ハロルドも付き合っていたが、限界だった。
「アメリア様……」
「はい」
「まだ続けるのですか」
「もちろんです」
即答だった。
ハロルドは諦めた。
知っている。
こうなったアメリアは止まらない。
真実を見つけるまで終わらない。
そして。
深夜。
一冊の資料を開いた瞬間だった。
アメリアの手が止まる。
視線が資料に固定される。
静止。
沈黙。
数秒。
やがて。
彼女は隣の資料を引き寄せた。
さらに別の資料。
さらに別の資料。
数字を追う。
比較する。
確認する。
もう一度読む。
そして。
小さく息を吐いた。
「ありましたね」
ハロルドが身を起こす。
「何がですか?」
アメリアは過去資料を差し出した。
四十年以上前。
王国西部戦役。
開戦前の市場統計。
そこに並んでいた数字。
食料価格。
鉄価格。
薬草需要。
輸送費。
荷車稼働率。
今見ている数字に酷似していた。
ハロルドの顔色が変わる。
「これは……」
アメリアは静かに頷いた。
「一致します」
「飢饉でもありません」
「疫病でもありません」
「災害でもありません」
机の上に資料を並べる。
現在。
過去。
現在。
過去。
まるで鏡写しだった。
ハロルドの喉が鳴る。
「つまり……」
アメリアは即答しなかった。
しばらく資料を見つめる。
そして静かに言った。
「可能性がありますね」
窓の外へ視線を向ける。
夜の闇。
静かな公爵領。
平和な景色。
何も起きていない。
少なくとも表面上は。
だが。
帳簿は違うと言っている。
人が動いている。
物が動いている。
金が動いている。
そして。
その流れを彼女は知っていた。
「会議を開きましょう」
アメリアは立ち上がった。
「公爵閣下に報告します」
ハロルドは恐る恐る聞く。
「何と報告するのですか」
アメリアは振り返る。
表情はいつも通り穏やかだった。
「まだ断定はできません」
「ですが」
僅かに目を細める。
「戦争の準備が始まっている可能性があります」
執務室が静まり返った。
そして。
翌朝。
公爵家緊急会議の招集通知が領内を駆け巡ることになる。
――帳簿が告げた、小さな違和感から始まって。
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