八章・歪曲
雨は一向に降り止まない。
僕に触れる直前で、雨粒は軌道を歪めて落ちていく。
フードを深く被り、影の濃い場所だけを選んで足を踏み出す。
皮膚のすぐ下で息づく痛痒を庇いながら。
そのたび、薄い靴底を通して路面の冷たさが、僕がまだ生きていることを無遠慮に突きつけてくる。
濡れた歩道を無数の傘が通り過ぎていく。誰も僕を見ちゃいない。
手元の小さな端末に目をとめ、それぞれの平穏の中に閉じこもったまま歩き去っていく。世界はいつだって無関心で、影を這い回る存在など知るはずもない。
頭上の街頭ビジョンから放たれる青白い光が雨の夜を焼き払う。
もう数日前のことらしい。
自分の中で時間の感覚が酷く曖昧になっていることだけがわかった。
画面の向こうで逃げ惑う人々に恐怖を振り撒いている怪物。認めたくはない。だが認めざるを得ない。
事実がどうであれ、そんなもの、誰も知りたくないよな。
世間様が必要としているのは、わかりやすい「悪」とそれを討つ「正義」だけ。
映し出された姿を見て思った。
お前はやっぱり、光の中にいるべきだ。
そんな顔をさせたかったわけじゃない。
だが、これが、世界にとって一番都合のいい形なのだとしたら。
もう、どうしようもないんだ。
手元に唯一残る金属の冷たさに縋るように。
崩れそうな僕の輪郭を静かに繋ぎ止めるように。
まだ、怪物になりきれない弱い僕が、人間であれるように。
僕が一体何をしたというんだろう。
誰かを傷つけたいわけでも、壊したいわけでもなかった。ただ、壊れないように必死だった。静かな暮らしが欲しかった。
それが許されないなら、僕はどこまで行けばいいのか。
遠くで響き始める嫌な音。
思わず足を止めた。
心臓が早鐘を打つ。フードの奥から周囲を窺う。すぐには動けなかった。
やがて、通りの向こうから二つの小さな影が駆けてくる。
雨に濡れるのも構わず、互いの手を引いて走っていく。
その姿を、目で追っていた。
どこへ向かっているのか。何から逃げているのかはわからない。
ただ、繋いだ手だけは離さないようにしているのが見えた。
胸の奥に、懐かしい痛みがよぎる。
子供たちの姿は、すぐに人混みの向こうへ消えた。
僕はその場に立ち尽くしていた。
サイレンはまだ鳴っている。
誰かが誰かを呼ぶ声。慌ただしく行き交う足音。雨の向こうで、街はいつもと変わらず動き続けている。
いつまでも、突っ立っているわけにはいかない。
音から遠ざかるように。人の流れを避け、建物の軒下をつたって、歩き出す。
角を曲がった先。規制線が張られていた。
濡れた路面に赤色が反射して、不規則に揺れている。
わざわざ確かめるつもりもないけれど。人々の視線は、誰かが来るのを待っている。
そのことが、なぜだか妙に気にかかる。
ひとり、苛立ちを滲ませた女性の声。ひとり、自分に言い聞かせるような男性の声。
その言葉を聞いて、僕は視線を落とした。
誰もおかしなことは言っていない。
危険な目に遭った人が助けを待つ。当然のこと。それだけのこと。
それでも、小さな棘が刺さって抜けない。
規制線の向こう。
しゃがみ込む影がある。怪我人がいるのだろうか。ここからじゃよく見えない。
__助けに…。
そんな考えが浮かんだことに、驚いた。
今さら、何をするというのか。
原因は僕じゃないか。
顔を見られたら、きっと怖がらせてしまう。力を使えば、また大変なことになってしまうかもしれない。それなら、何もしない方がいい。
僕は一歩、後ろへ退いた。
小さな子供が泣いていた。
僕はその光景から目が逸せなかった。
ここにいるべきではない。
そう思って、踵を返す。
誰も呼び止める人はいない。誰も、僕に気づかない。
それでいい。
そう思ったはずなのにな。
背後で、一際大きな音がした。
振り返るより先に、視界の端で何かが傾くのが見えた。
また。
考えるよりも先に、動いていた。
地面へ叩きつけられる寸前で動きは止まり、見えない何かに押さえつけられたように、金属が低く唸った。
間に合った。
そう思った瞬間、街灯の根元がひしゃげた。支えを失った重みが、今度は別の方向へ傾いていく。
舌打ちを飲み込む。このままだと周囲を巻き込む。
声には出さなかった。
人々の足元に力をかける。後方へ押し出すように。数人の身体が、濡れた路面を滑る。
ひとりが足を取られ、隣にいた人とぶつかる。宙に浮き、悲鳴と共に飛んでいく。
やりすぎた。
すぐさま力を緩める。
倒れ込んだ人々が地面に手をつき、身体を起こしていく。誰も、致命的な傷は負っていないようだった。
息が詰まった。
誰もが、こちらを見ていた。
雨に濡れた路面に片膝をついた人。子供を抱き寄せる人。倒れたまま、何が起きたのかもわからず見上げている人。
その視線が、ひとつずつ僕の姿を捉えていく。
フードの隙間から覗く、黒い亀裂の走った皮膚。とても人間のものとは思えない手。
助けたかっただけなのに、こうなった。
何も言えない。説明したところで、何にもならない。皮膚の下で、鈍い痛みが脈打っている。
まあ、当然だよな。
投げられた言葉を背で受ける。雨音に紛れて、声はすぐに聞こえなくなった。
僕は口を閉じる。
まだ、揺らいでいる。
でも、もう棘は抜けそうにない。




