九章・断絶
誰の目にもつかない場所へ行きたかった。
誰にも見つからず、誰にも知られず、ただ静かに消えていけるような場所。
そんなものが本当にあるとは思っていない。それでも、足を止めることはできなかった。
押し寄せる気配に顔を上げた瞬間、鼻腔を揺さぶる硝煙の匂いと、鼓膜を裂く甲高い音が流れ込んできた。
逃げ場のない行き止まり。容赦のない冷酷な殺気が、僕を押し潰していくような感覚。
思考が真っ白に弾けた拍子に、ポケットからこぼれ落ちた真鍮。アスファルトを転がった小さな懐中時計のガラス面に、不規則な街灯の光が歪んで映り込む。拾おうと伸ばした手よりも先に、弾丸がすぐそばの地面を穿った。
小さく、けれど僕の心臓を直接叩き割るような音がした。
ひび割れる文字盤。
僕らの唯一が、目の前で無惨に亀裂を深めていく。
もう二度と、元には戻らない。
声にならない息が漏れた。
胸の奥で、何かが静かに。決定的に、砕け散る音がする。
救いなんて最初からどこにもなかった。僕がどれだけ平穏を願っても、世界は僕を許してくれない。
そんなことは、とっくの昔に知っていた。それなのに、まだどこかで期待していたんだろうな。
泥靴の足音が至近まで迫る。向けられる銃口が、僕の存在を否定している。
逃げなければ。
そう考える自分が、ひどく遠かった。
ここで捕まれば、すべてが終わる。
でも、僕が捕まれば、あいつの日常まで踏み躙っていくだろう。
必死に守ってきた光に、こんな泥を塗るわけにはいかない。
そうはさせない。
正義の味方は悪を倒す。なら、その悪役がいればいい。
世界が悪を必要とするなら、そこに僕がいればいい。
今まで逃げていた分。
誰に言われたわけでもない。ただ、皆が望むなら、それを叶えてあげよう。
僕は、僕の意思で。
皮膚の下で、みしりと骨が軋む。
痛みが全身を駆け上がる。黒い亀裂が広がっていく。皮膚の色が変わり、手の輪郭が人間のそれから遠ざかっていく。
暴れ狂う牙に理性を手放しそうになるのを、ぐっと堪える。
怖くないわけじゃない。
それでも、意識を手放すわけにはいかない。
これからやることを、きちんとこの目で見ていなければならない。
もう退かない。
足元の水たまりが波紋を描き、壁面に走る亀裂が音もなく広がる。追っ手の一人が踏み込んだ瞬間、その足が地面から引き剥がされる。
空間そのものが捩じ切れた。
不可侵の領域に踏み込んだ者たちは、弾き飛ばされ、壁や地面へ叩きつけられていく。
銃声が重なった。
弾丸は僕に届く前に軌道を歪め、金属片となって地面へ散った。
投げられた手榴弾の爆風を防ぐ。衝撃が全身を打ち、耳鳴りの向こうで柱の崩れる音がした。
出来上がった瓦礫を、彼らに返す。
逃れようとする人影を、ひとつずつ捉えていく。立ちあがろうとした身体が宙に浮き、逃れようと伸ばされた手が空を掻いた。
降り注ぐ弾丸の雨の中心で、舞うように、砕いていく。
考えることはやめた。
ためらえば、また逃げてしまうと思ったから。
近づいてきた影を、異形化した手でそのまま突き刺した。肉を貫く感触が、手のひらに伝わる。
こんなにも、あっけない。
それが人の命を奪う感触だと、理解するまでに少し時間がかかった。
僕は手を引き抜いた。倒れた身体は動かない。
言い訳はしない。これは僕が望んだ殺戮だ。
喉の奥から何かが込み上げることも、乾いた笑いも、もう出ない。
周囲は静まり返っている。
鉄屑と瓦礫と残骸。地獄のような有様。
僕はその光景を眺める。
血に濡れた手を見下ろす。黒い亀裂は、まだ皮膚の下で脈を打つ。
恐怖よりも、妙な安堵があった。
もう、何も隠さなくていい。
この姿に怯えることも、恐れられることも、今更気にする必要はない。
人に恐れられ、憎まれ、怪物として唾棄される。そのための嘘を重ねよう。
死にたくはない。
だから、ただの嘘にはしない。ほんの少しの真実だけを混ぜて。
これから、何回嘘をつくかな。
僕が何をしたのか。何を考えているのか。どこまでが本当で、どこからが嘘なのか。
僕自身にさえ、わからなくなってしまえばいい。
そうすれば、いつか本当に、何も感じなくなるのだろうか。
答えは出なかった。
ただ、もう戻れないことだけが確かだ。
敵対するなら容赦はしない。
してはいけない。
中途半端に手を止めれば、また罪なき人を巻き込む。僕を止めようとするものがいる限り、僕はそいつらを退ける。何を言われても、どんな目を向けられても。
血塗れの体を引きずりながら、空を目指す。
また雨が降り出していた。
ランの目にはどう映るかな。
漠然と、そう思った。
あいつの反対側、それが僕の役目。
これが、僕の選んだ道。
そのことだけは、誰にも譲らない。
屋上の縁に腰を下ろし、足を投げ出す。
眼下に広がる街は、雨に滲んでいた。
ここからなら、見えるだろうか。
あいつのいる場所が。
目を凝らしても、光の向こうに何があるのかはわからない。
それでも、視線を逸らすことはできなかった。
冷えた真鍮の感触は、もうポケットにはない。
指先を握り込む。爪が手のひらに食い込んでも、何も戻ってこなかった。
雨が降り続いている。
僕はただ、滲んだ灯りを見つめていた。




