七章・隙間
膝を抱えたまま、浅い呼吸を繰り返す。
どれほど意識を失っていたのか、よくわからない。積もる疲労に抗えず、いつの間にか眠り込んでいたらしい。コンクリートの冷たさが服越しに染み込み、傷に鋭く突き刺さる。
雨はまだ止んでいない。
雨音に混じって階段を上ってくる静かな足音が聞こえた。
隠れようとしたが、鉛のように重たい身体は思うように動かなかった。
這うようにして、なんとか柱の裏へ回る。
闇の向こうから現れたのは、見覚えのある顔だ。
使い古された鞄を提げ、店主さんは静かに僕の前に腰を下ろす。
血と泥に塗れた僕の姿を見ても、何も聞かなかった。いつものように、ただ静かに鞄から薬品と包帯を取り出し、迷いのない手つきで傷の手当てをしてくれた。
アルコールの刺激に、身体が強張った。反射的に逃れようとした僕を、強い力で押さえつける。
どうしてここがわかったのか。
掠れた声で問いかけると、店主さんは手を止めずに答えた。
古い図面で、見覚えがあっただけだ、と。
それ以上は、語らない。
けれど、その手際の良さと、かつての僕たちが初めてここに踏み入ったときの、奇妙なまでの気配の無さ。その二つが、ひとつの答えを形作っていく。
この人は、知っていた。
僕らがここを見つけたことも、逃げ込んでいたことも。
僕らが作った「秘密基地」は、僕らだけの場所ではなかった。
尋ねれば、きっと答えてくれる。店主さんはそういう人だから。
それでも、何も聞かなかった。
言葉にしてしまえば、この人まで「共犯者」にしてしまう。
肌に触れていた手が離れる。
鞄の中から、手拭いに包まれた乾いた衣服と、小さな水筒が置かれた。
何も受け取らないほうがいいことはわかってる。
これを最後にするから。
僕に向けられた温もりを、噛み締める。
ひだまりの匂いのする、柔らかい服。泣きそうになるのを堪えた。
水筒には手を伸ばさない。
店主さんも、何も言わなかった。
掠れた声では、感謝の言葉もうまく形にならなかった。店主さんは静かに頷き、そっと僕を抱きしめた。
背中を叩く手は、優しく、それでいて力強かった。
やがて店主さんは、振り返ることなく去っていった。
僕は、その姿が見えなくなるまで、見送る。
あの寂しそうな瞳は、きっと忘れられない。
静寂だけが残された。
新しく羽織った服の袖に顔をうずめ、一度、息を深く吸い込んだ。
傷を庇いながらゆっくりと腰を下ろし、足元に転がっていた手頃な大きさの瓦礫を拾い上げる。
ふたりだけの特等席。慎重に壁を削る。
あいつだけがわかればいい。
いつか気づいてくれたなら、それでいい。
一度出来た白く浅い溝を、何度も何度もなぞる。
これなら、読めるだろう。
刻み終えて、上着の内ポケットで眠っていた『それ』を取り出す。
傷だらけの小さなガラス玉。
壁にできた小さな凹みに、そっと添えた。
僕が確かにここにいたという、誰にも見せられない証。
じゃあね、ラン。
もう、振り返らない。
残せるものは全部、置いていくから。
ただ一つ、これだけは。
持っていくのを許してほしい。




