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六章・痕跡

 おぼつかない足取りで暗闇を彷徨う。

 視界の端から黒いモヤが広がり、世界が不気味に明滅していた。

 右腹部を灼く痛みが、徐々に痺れと鈍い熱へ変わっていく。服を濡らす自分の血が、夜風にさらされて冷たく皮膚に張り付いていた。


 ポケットの中。無意識にひとつの塊を握りしめている。

 指先に触れる、冷たくて硬い金属の感触。

 蓋の刻印をなぞる。擦り切れた真鍮の冷たさが、手のひらを通じて混濁する意識を揺さぶった。


 やっぱり、こんな形で会いたくはなかったな。


 そう思ったのが先だったか、消毒液の匂いがしたのが先だったか。

 気づけば目の前には見覚えのある景色があった。


 白い壁、白い天井、規則正しく並んだ照明。

 目を開けるたび、同じ景色がある。

 最初は、何度も家に帰りたいと思った。

 帰れば、いつものように迎えてくれる人がいる。そういう場所を、僕は知っていた。


 けれど、大人たちは言った。

 君は捨てられたのだと。

 理由を尋ねても、大人たちは困ったように顔を見合わせ、僕のためなのだと繰り返すだけだった。

 僕は、それ以上聞かなかった。

 覚えている家族の顔は、優しかった。声も、手の温かさも、ちゃんと覚えている。

 だから、どうして捨てられたのか、わからない。


 わからないまま、施設で暮らすようになった。

 できることが増えるたび、大人たちは喜んだ。満足そうに頷き、期待を口にした。

 褒められるのは嫌いじゃなかった。

 そんなとき、少し離れた場所からこちらを見ている子がいた。


 僕が褒められるたび、彼の表情は険しくなった。すれ違いざまに肩をぶつけられたり、何もしていないのに睨まれたりすることもあった。

 最初は、ただ面倒なやつだと思った。


 それでも、ランは僕のそばに現れる。

 近づいてきては、何か言いたげに眉を寄せる。僕が話を始めると、途端に興味を失ったふりをする。

 だから、僕も好き勝手に話すことにした。


 ここへ来る前に住んでいた街のこと。

 家族と出かけた場所。道沿いに並ぶ店。赤く染まった夕暮れの空。人でいっぱいの駅。雨上がりの匂い。

 どれもわざわざ話すようなことじゃない。

 それでも、彼は聞いていた。

 最初は、わざとそっぽを向いてたくせに。

 話の途中で顔を覗き込むと、慌てて視線を逸らす。知らないものの名前を聞けば、次に会った時には覚えていたり。僕が前に話したことを忘れていると、得意げにこちらを見た。

 その顔がおかしくて、笑った。ランはむっとしたけれど、次の日にはまた隣にいた。


 その日は、ランがいつもよりずっと小さく見えた。

 声をかけても、顔を上げない。近くに座っても無反応。何があったのかは、わからなかった。


 僕は手のひらを開いた。

 小さなガラス玉が、指の間で光る。

 少しだけ力を込めると、ふわりと宙に浮かぶ。

 光が壁を滑る。ガラス玉が回るたび、色が変わる。ほんの少しだけ空気を歪ませて、動きを変えてみる。

 ランの視線がガラス玉を追っていたから、やってごらんと促した。

 左右に揺れ、頼りない円を描く。下手くそだけど、上出来だ。

 僕が教えたんだ。

 大人たちに見つかれば、きっと怒られてしまう。

 それでも、この時間は誰にも渡したくなかった。


 何ができるかを試すためでも、誰かに褒められるためでもない。

 二人だけの遊び。


 それから、ランは柔らかくなったように思う。

 僕の知らないところで、何を抱えているのかはわからない。

 でも、いつもきつく結ばれた口元が、一緒のときは少しだけ緩んでみえる。

 その顔は、嫌いじゃなかった。

 僕は嬉しかった。

 自分の持っているものを、分けてあげられる。それなら、僕がここにいることにも、少しくらいの意味があるのかもしれない。


 でも、きっと違う。

 僕が持っていたものを、ひとつずつ受け取って。僕の心を、全部お前が吸い上げてくれたから。

 だから、ランは愛されるんだ。


 いつだったか。ランが隠し通路を見つけてきて、その先にあった古びた建物を、秘密基地と呼ぶようになった。

 薄暗い部屋。ひびの入った窓。床に差し込む午後の光。

 そこでのことはたくさんあったはずなのに、もうよく覚えていない。

 ただ、そこにいる間だけは、何者でもない僕らでいられた。



 指先に食い込む金属の感触に、意識が引き戻される。

 冷たい床。散らばったガラス片。そこから差し込む、見覚えのある夜の光。

 見間違えるはずもない。

 なんで来ちゃったかな。

 未だ縋る僕を嘲るように、息が漏れた。

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