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五章・残光

 どれくらい走っただろう。

 胸の奥で、未だ暴れ回る心臓を押さえつけるように、深く荒い息を吐き出す。人目につかない高架下の薄暗い影に身を潜めた。


 誰か怪我をしてはいないだろうか。

 誰かを殺してしまったんじゃないか。

 あの少年の引き攣った顔が、脳裏から離れない。


 一度、戻ろうと思った。


 あんなものは事故で。僕は助けたかっただけで。

 話せばきっとわかってもらえる。

 足がガクガクと震え、冷や汗が全身を濡らす。逃げてしまったことへの恥じるような思いと、早く説明しなければという焦燥が、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。


 左手に持っていた端末が震えた。

 液晶の青白い光が暗がりの中で僕の顔を泥のように照らし出す。何かのニュース記事だった。

 ぼやけた防犯カメラの映像から切り出された、歪んだ人影。

 それを「即時駆除対象」と断定する冷酷な文字列。

 事実の確認も、弁明の余地もない。

 あの大惨事の渦中にいた人間は、ただ排除すべき「害」として扱われる。

 戻って説明する?誰に?

 手を挙げた瞬間に、おしまいだ。

 喉の奥から乾いた笑いがこぼれた。


 端末を滑らせた指が止まる。

 画面が速報のリアルタイム映像に切り替わった。


 煙の上がる、あの交差点。報道陣のフラッシュに囲まれ、一人立つ姿。

 いつもと変わらない、まっすぐな瞳で、カメラの向こうと集まった人々に向かい語りかけている。

 あいつがなんて言ったか、聞こえていたはずなのに、何ひとつ頭に残らない。

 それでも、わかってしまった。

 ランは、大衆が求める「正義の味方」ではなく、ただ一人の人間として僕の味方であろうとしていた。


 頭の中に、冷水が流れ込むような感覚。

 全身の血の気が引いていく。


 あいつは何も変わっていない。昔から、なにひとつ変わらない。純粋な光。

 けれど、世間様が求めているのは違う。

 怪物なんか、庇っちゃいけないんだよ。


 大勢の人から愛されているランが誇らしくて、心の底から良かったと思った。お前はそうやって生きていける人間なんだと。

 それなのに。

 「正義の象徴」が濁り、傷つき、崩れ去っていく。

 僕なんかのために。


 不快だった。

 猛々しく、ドロドロとしたものが込み上げてくる。身の内を灼くような熱に、呼吸が乱れる。

 視界がひどく揺れる。

 息ができない。

 その場で何度も吐いた。胃の中には何もない。酸っぱい唾液だけが地面に落ちる。

 頭の奥で、何かが外れる音がした。


 違う。

 違う。

 こんなものは。


 そのとき、身体の奥深くで、何かが蠢いた。

 あの感覚だ。

 意識を失う直前、身体を満たした、甘くて、悍ましい黒い濁り。

 皮膚の裏側を這い回るように、じわじわと広がってくる。

 必死に押し返そうとする。けれど、抵抗すればするほど、頭の奥が割れるように痛んだ。


 __いっそ。


 思考の端に浮かんだ言葉を、慌てて掻き消す。

 違う。そんなことを望んでいるわけじゃない。

 それなのに、黒い濁りは、僕が目を逸らした一瞬の隙に、内側へ深く潜り込んでいく。

 わかっているのに。

 全身から力が抜けていく。苦しかったはずの頭痛が、少しずつ遠ざかっていく。

 ああ。この感覚を、知っている。

 指の隙間から、端末が滑り落ちた。画面が地面にぶつかり、鈍い音を立てる。


 思考を捨てる。意識を手放す。自分を繋ぎ止めていた最後の楔が、静かに抜け落ちた。

 身体の底深くから、黒い濁りが泥流のように押し寄せ、内側を満たしていく。甘やかな諦めの快楽。

 僕は、もう抗えなかった。



 次に意識が浮かび上がったとき、眼下にある自分自身を見ていた。


 意思のない肉体は空を飛び、あの街中へと戻っていく。

 会いにきてしまったのか。

 そんなことを漠然と考える。


 案の定、あいつは器の前に躍り出た。

 破れた衣服。泥に汚れ、傷だらけになった肌。それでもあいつは、僕に声をかけ続けている。

 どうして、あんなに傷ついているんだろう。

 どうして、何も知らないんだろう。


 ランは必死に手を伸ばしている。

 でも、瞳の奥が揺らいでいる。

 

 自虐的な笑いが、引き攣った唇から漏れる。

 喉が震える。自分の声が、耳の内側に響く。


 話せばわかると言った彼の言葉が苦しかった。

 続けようとするランに、雨音を切り裂くほどの声でぶつけた。

 僕の話なんて誰も聞きやしないし、現にお前だって怖がっているじゃないか。

 こんな時に、肉体へ帰るとか。なんて皮肉なんだろう。


 結局、彼は返事に詰まった。

 否定しなかった。それが何よりも雄弁な答えだ。

 ああ、やっぱり。そう思った。


 声が震えないよう、奥歯を強く噛み締める。

 同情なんて買わないように。冷たく、口角だけの笑みを浮かべて見せる。


 地上には、銃口を向ける者が何人か。あれが特殊部隊とか言うやつか。

 腹の底から湧き上がる怒りをぐっと抑える。

 いや、ちょうどいいか。パフォーマンスは大事だもんな。

 そう自分に言い聞かせ、腕を軽く振り上げて、無人の車を派手に横転させてみせる。

 声を荒げる。それに応えるように、暴風が吹き荒れる。

 こんな時でもまとわりつく高揚感。喉の奥から吐き気がせり上がる。必死に噛み殺しながら、僕は冷たい笑みを崩さなかった。


 刹那、視界の端に白色が迫る。

 銃口から放たれた熱線弾。その軌道の先に、ランがいた。

 今までの恩も忘れ「ついで」で吹き飛ばそうというのか。あまりの理不尽さに血が逆流する。


 考える猶予なんてなかった。

 僕は右腕を振り抜く。熱線弾の軸を強引に逸らし、その爆風の余波が周囲に広がる。

 ランの身体が斜め下へと投げられる。

 ビルのガラスを突き破り、瓦礫の中へ沈んだ。

 無傷ではないだろうが、生きてはいる。ランなら、きっと。


 地上のカメラが捉えたのは『ランを撃ち落とした僕』の姿だろう。

 人々の悲鳴と、フラッシュの渦。


 __これでいい。


 そう思うことにした。

 今更、ためらっている場合ではない。


 ここぞとばかりに次弾を構えたあいつらには、何の情も湧かない。

 黙って殺されてやるつもりなんてない。死にたくなんてない。

 湧き上がる暗い情動に身を任せ、引き裂くような声を投げる。


 激しい衝撃が地面を穿ち、人影はことごとく弾け飛んだ。

 ざまあみろ。見下ろす視界のすべてが酷く惨めで、可笑しかった。


 遅れて飛んできた白の一閃。右側腹部を深く焼いた。

 熱い鉄を突き立てられたような激痛。

 痛みに思考の霧が吹き飛び、一気に「僕」は引き戻される。

 眼下の惨状。自分の中で湧き上がった悍ましい思考に、背筋が凍りつく。

 同時に、この痛みと恐怖は「当然の罰」だと、どこか冷めた自分は受け入れているような気もした。


 こんなに脚光を浴びたのはいつぶりだろうか。

 ふと、いつかのことを思い出す。

 今はもう、あんなにも遠い。

 これ以上、ここにいる意味はない。

 流れ続ける血と傷口を押さえ、黒の中へ消える。


 割れるような頭痛に、自分の心の所在を探す。

 激痛に耐えながら、捻れた意識の底で、ただひとつだけ願う。


 どうか、ランが愛される世界のままでありますように。


 冷たい空気が容赦なく刺さった。

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